Ⅱ それは少し違うんじゃないかな――って思って。

少し時間が経って、熾子は重い口を開いた。


「同じ大学で、学年が一個上の先輩でしたよ。といっても、軍隊に行ってたので、実際の年齢は三つ上だったんですけどね。私と同じく、日本語を習ってました。日本の漫画やアニメを大好きだとかで、そこは少し私と重なるところもありましたね。」


「ああ、『まほつゆ』のコスプレされてましたもんね――イルペで。」


玉子のその言葉に、熾子は目を瞬かせた。


「――よくご存じですね?」


「司から聞きました。」


熾子が視線を寄せてきたので、司は目を逸らす。今さらになり、熾子の私事プライヴェートについて話しすぎたかと後悔した。


「すみません。」


「いいえ、全然いいんですよ。」


しかし玉子は興味深そうな顔をする。


「けれど、最初に聞いたときは吃驚びっくりしましたよ――熾子さんの彼氏さんが、あのキムチ男言語三級さんだったなんて。私も怪々で見ましたよ? 面白い人だったんじゃないですか?」


「別に――。詰まらない男でしたよ。むしろ、別れて清々してます。」


玉子は急に真顔になり、そうですか――と言った。


熾子は軽く溜め息を吐き、遠い目をする。


「最初に遊びに誘われたのは、去年の九月――韓国では秋夕チュソクって呼ばれる長期休暇のときです。そこから仲良くなって、色々な処に出かけるようになりました――紅葉狩りであったり、カラオケであったりしましたけど。それで、恋人になったのが十月ごろです。付き合っていたのが三か月間――別れたのが今年の一月です。」


そして軽く鼻を鳴らした。


「けど、早いうちに気づけて良かったです――イルペチュンだなんて。」


聴いていて、司は再び釈然としない気持ちが湧き上がってきた。


「けれども、彼氏さんと付き合ってるあいだの熾子さんは、とても幸せそうに見えましたよ?」


「――そうですか?」


「ええ。呟器によく上げられてたじゃないですか――記念日に香水をプレゼントしてもらったり、ペアルックを着て二人で写真を撮っていたり、あるいは、彼氏さんにどこへ連れて行ってもらっただとか、どんなふうに優しくしてもらっただとかということを――。それを見るたびに、私は羨ましく思いましたよ。自分も、いつかはこんな恋をしてみたいな――と、そう思いました。」


映画やドラマと現実の恋愛とでは違いますよ――と熾子は言った。


「私の元彼は――犬のような人間でしたから。漫画やアニメのことで常に頭がいっぱいのホンモノでしたし、近寄れば灰皿みたいな臭いがしてましたし、優柔不断で男性らしい行動力に駆けていて、私が注意しなければ気を利かすこともございませんでした。」


言いながら、手元のチーズケーキを切り崩した。


「あの写真だって、現実がもっとこんなふうにきらめいてたらよかったのになっていう私の願望が現れたものです。」


言うまでもなく、これは最も聞きたくなかった言葉であった。


「彼氏さんのことは、好きじゃなかったんですか?」


熾子は一瞬だけ視線を寄越したが、すぐに目を伏せた。


「付き合っていたときは――まあ、好きでしたけど。」


――そこは肯定するんだ。


しかし司は少し安心する。


「やっぱり、それが熾子さんの初恋だったんですね。」


「まあ、あれが恋だったんなら、そういうことになりますけど。」


――素直じゃないなあ。


「それなのに、イルペをしていたくらいで振ってしまうなんて、やっぱり勿体ない気がします。一生に一度しかない初恋なのに――。」


「一生に一度だからって、価値があるとは限りませんよ。」


「そりゃそうですけど――。いや、そうですかね?」


「何が?」


「だって、厳しい評価をされてる割には、付き合ってたときは好きだったんですよね? ならば――やはり、いうほど悪い人でもなかったのかなって気もしますし。」


「あんなキモい書き込みをする男がですか?」


司はティーカップの中へと視線を落とした。


「いや――もちろん、彼氏さんの書き込みはどうかとは思いますよ。けど、まあ、ネット上で匿名だと、はちゃけて普段は言わないことを言ってしまうこともあるんじゃないでしょうか。私だったら、そこはあえて触れないでおいてあげますけどね。」


熾子の目元に困惑の色が浮かんだ。無表情のまま、紅い瞳を微かに揺らしていた。


「司さんは、やはりイルペというところを知らないすぎだと思います。イルペが反倫理的なことを喜んで行っている極右サイトだということは、先日、説明したじゃありませんか。そのユーザーであることを明かすことは、自分が極右であると明かすことと同じです。――例えば、ネオナチの男と付き合うユダヤ人女性がこの世にいますか?」


窓から射し込む光が強くなった。


「イルペはネオナチと同じようなものなんでしょうか――?」


「そういうことを、今まで説明してきたじゃないですか。」


「けれど――」


なんか司の言うことも分かる気がします――と玉子は言った。


「イルペが嫌いだからって、元彼まで嫌う必要はなかったんじゃないかなって思いますけど。どうせ付き合ってたときは好きだったんだし。嫌うんだったら、元彼だから嫌うべきだったんじゃないですか?」


この言葉に司は同感であった。


「私も――そんなふうに思います。」


熾子は軽く眉間に皺を寄せた。


「お二人は、イルペの何をご存知だというんでしょうか?」


そりゃあまり知りませんよと玉子は答えた。


「怪々で翻訳された記事以外は。」


司は黙ったままうなづく。結局のところ、自分は韓国について知らないに等しい。けれども、少なくとも玉子の言葉は、司の気分を悪くさせるようなものではなかった。


「では、あそこでどんな差別的書き込みが行なわれてるのかも知りませんね?」


熾子は玉子を見据え、そう言葉を発する。


「特定地域や、特定政党や、あるいは女性に対して、様々な捏造や煽動が行なわれていることも知らない――ましてや、その被害者になったこともないじゃないですか。」


「熾子さんにはあるんでしょうか?」


「ありますよ。何しろ、イルペは性差別に特化したサイトですからね。」


熾子の顔は徐々に憎々し気なものへと変化していった。


司はただ、揺らめく光がティーカップの縁で輝くのを見つめている。


「特に、韓国人女性への憎悪はすさまじいものがあります。不細工な韓国人女性の画像を貼って、キムチ女はこんな感じだと言ったり、常識が欠如した一部の韓国人女性の行動を一般化して、これだからキムチ女は駄目だとか何とか言ったり。――」


顔を上げ、そして問う。


「そんなやつらと、どうして恋人をやっていけるんです?」


それとこれとは関係ありませんって――と玉子は反論した。


「私からすれば、男なんて大抵は臭くてキモい生き物だし、生理的に駄目ですけど。それでも、逆に好きな人だったら、どんな掲示板に書き込んでいようとも、どんな変態であったとしても好きですけどね。」


窓の外の街路樹がビル風にそよぎ、テーブルの上の光が揺れ動いた。


「玉子も玉子で、何気にすごいこと言うよね?」


「そう?」


「うん。惚れ込んだら、徹底的に惚れ込むタイプなの?」


「だって――好きになるってそういうことでしょ。自分が好きになる人は、自分じゃないんだから。大体からして、変わった性癖を持っていない人なんてないと思うし。」


司は視線を横にずらす――少しだけ思い当たることがあるからだ。


「そうですか――。玉子さんの仰ることも何となく分かりました。」


熾子は溜め息を一つく。


「けどね、同じことなんですよ――イルペ蟲だから嫌いだっていうことと、あいつだから嫌いだっていうことは。これはもはや価値観の違いですね。」


「そうでしょうか。私はやっぱ釈然としませんけど。」


「そうですか?」


「だって、イルペは極右サイトとか言うけど、ネットってそんな極端な人間の溜まり場じゃないですか。韓国の反応記事を読んでると、イルペじゃなくとも、それこそ極端な書き込みばっかに見えますけど。」


「そうかなあ――?」


「ええ。日本は滅びるだの、日本の国土は放射能まみれだの、桜や皇室の起源は韓国だのと――それこそ日本に対する捏造と煽動を繰り返してるじゃないですか。」


司は後頭部が少し冷えるのを感じた。


――確かに、そういう書き込みは多いけど。


熾子はそっと目を伏せる。


「そういう書き込みをする人間は、韓国でも莫迦にされてますから。」


「そういうもんですか?」


「そりゃそうですよ。それに、日本だっているじゃないですか。韓国人のほとんどは精神疾患を持ってるだの、韓国人はウンコから造った酒を呑むだのと――そんなことを言うやつは。」


「あ、それデマだったんですね。」


一瞬、熾子は露骨に不機嫌そうな表情を見せた。


「あの、それ、さすがに失礼じゃ――」


「いえ、テマだということを知って下さって何よりです。むしろ、日本人が韓国についていかに無知であるかが分かりましたので。」


言って、人差し指でテーブルをこつこつと叩き始めた。


「あの、あのあの、本当に大丈夫なんでしょうね?」


「そうですか。失礼しました。」


司の心配をよそに、玉子はにっこりと笑う。


「けれども、そういうのじゃないんです。」


「どういうのだっていうんです?」


「韓国のネットには日本を莫迦にする書き込みが多いけど、イルペは、むしろ親日的な人も多くて、韓国人の中でも話が通じそうな人が多い印象を受けるんですよ。」


「ああ、何だ、そういうことか。」


熾子の動作から、苛々とした態度が消えていった。


「けれどね、それが騙されてはならないということですよ。イルペにはお世辞する事大主義のゴミが多いからそう感じられるだけです。」


事大主義――それは小国が大国の言いなりになる考えを指す。韓国において、右派は日本やアメリカとの関係を重視し、左派は北朝鮮や中国との関係を重視する。ゆえに、極右サイトであるイルペは、日本に対する敵愾心が比較的低い。


熾子の言いたいことを何となく悟り、司は少し寂しい気持ちとなる。


「日本に媚びへつらう人が多い――ということですか?」


「まあ、そういうことです。言うなればあそこは、みんなが言っていることとは逆のことをわざと言って面白がっているサイトなのです。」


その言葉を聞き、司はさらに寂しい気持ちとなった。


「みんなが言っていることと逆のことを言うと、親日的になるんでしょうか?」


熾子は困惑した視線を司へと向けたが、すぐに逸らした。


逆に、玉子は嬉しそうな声を発する。


「司、そりゃそうだよ。韓国じゃ、親日派は売国奴って意味だもの。」


熾子は咄嗟に反論した。


「それは少し違いますよ。親日派っていうのは、日帝時代に、自ら進んで国を売り渡した人のことです。決して日本を好きな人のことを言うんじゃありません。」


「けど、親日っていう言葉は決していい意味じゃありませんよね?」


「まあ――」


確かに、あんまりいい意味じゃありませんが――と熾子は言った。


「けれども、日本にもいるじゃないですか。韓国に融和的なことを言うと、在日ってレッテルを貼る人が。それと同じことです――日本に融和的なことを言うと、親日だと言ってくる人がいるんです。結局はどこの国も同じということです。」


玉子の眉間に翳りが生まれた。


「同じなんかじゃありません。韓国と同じにしないでください。」


熾子は軽く笑ってみせる。


「一体なにが違うと言うんでしょうか?」


「だって、韓国は国ぐるみでそれを行ってますよね?」


同じですよ――と言い、熾子は目を伏せる。


「国ぐるみとか、そういうんじゃないんです。人間、そもそも自分と意見の違うグループに属する人間とは仲良くなれないもんですから。どうしても激しく憎しみ合ってしまうんです。」


玉子は軽蔑したような表情となる。


「じゃあ、日本人が韓国人のことを嫌いになるのも仕方がないっていうことですね。」


今度は熾子が眉間に皺を寄せる番であった。


「そんなにも嫌いですか――韓国のことが。」


「嫌いですね。」


玉子は熾子を見据えた。


「世界中見廻しても、日本のことをこんなにも嫌いだと言ってくる国がありますか? 日本人が韓国のことを嫌いになるのも当然のことだと思います。」


「それは違うでしょう。」


そう言い、熾子は溜息を一つ吐く。


「どうあれ、日本は我が国を植民地にしたのだから、日本に対して否定的になるのは当然です。相手が自分を嫌うのだから自分も相手を嫌うのだ――などという話は、自分の中の差別心を棚に上げて相殺しようとしているにすぎません。」


玉子の視線が、見る見る冷たいものへと変じていった。


「日本人が韓国を嫌いになるのは、ただの差別ですか?」


「間違ってはないでしょう。韓国を嫌いな日本人も、イルペ蟲も、何か理由があって相手を嫌うのではありません――人間を特定のカテゴリーに分けて嫌っているのです。」


司は、次第に胸がそわそわしてくるのを感じた。


「熾子さんだって、イルペのこと嫌って彼氏さんと別れましたよね?」


熾子は寂し気な視線を司へと向けた。


「確かに――私も少し言いすぎた部分はありますけれども。それでも、それとこれとを一緒にするのは少し無理があるんじゃないかと思います。」


「――なぜ?」


「人間の醜い心ですよ。在日朝鮮人への長年の差別、そして韓国で長らく続いてきた性差別――ただそれが続いているだけです。司さんには信じられないかもしれませんけど。自分より劣った存在だと考えて今まで見下してきた人々が、急に力をつけてきたとしたら――そりゃ、気に入らないと考えるのは当然のことではないでしょうか。」


テーブルの上の木陰がざわめきを立てているように感じた。正確に言えば、ざわめきは司の身体の中にあった。熾子の言葉は、ここ何年かの司の記憶を揺り動かした。あの春休みの通り雨の出来事から、中学二年生のとき夜遅くまで勉強したときの出来事までが、まるで真っ黒な水面みなもに描かれた白い波紋のように、何重にも瞬いた。


「本当に――そう言えるんでしょうか。」


少しのあいだ、静寂がその場を制した。司は視線を上げられなかった。


しばらく経って、ぽつりと熾子の声が聞こえてきた。


「司さんも、イルペに肩入れするんですか?」


いえ――と司は軽く首を横に振る。


「イルペのことはよく分からないんですよ、私は。けど――」


「けど――?」


「それは少し違うんじゃないかな――って思って。」


司はちらりと視線を上げた。


熾子は、静かな視線を司へ向けていた。


司は再び視線を落とす。


「熾子さんが仰りたいことも分かるんですよ。私も――韓国人や朝鮮人に対する差別的な書き込みを目にして、私も随分と不愉快な思いをしたことがありますから。それは確かに差別ですけれども――けれども、その気持ちも少し分かるんです。」


熾子は口を半開きにしたまま、何も言葉を発さなかった。


「私にも、韓国に対しては簡単に『好き』とは言えない感情があります。」


「それは――一体――」


「韓国人の愛国心は、行き過ぎてると思えることがよくあるんです。何て言うか――日本に対する激しい敵対意識や優越意識が痛いくらいに感じられて、もやもやとした気分になるんです。」


熾子の顔に困惑の色が浮かんだ。


「優越意識――ですか?」


「ええ。」


「韓国人は、日本人に対する優越意識なんかございませんよ?」


「――そうですか?」


「当然ですよ。韓国よりも大きくてお金持ちの国に、どうして優越意識なんか持てるっていうんですか。むしろ、日本人のほうこそ韓国人に優越意識を持ってる思います。」


「それは――」


司は少し言いよどんだ。


「言いたいことは解るんですよ。けど、そういうんじゃないんです。」


熾子は不安そうな視線を寄せる。


「『日本がないイルボニオプタ』っていう本、ご存知ですか?」


「ええ――。私も、高校のときに読んだことがあります。」


そして、熾子は何かに気づいたような顔をする。


「けど――あれは――韓国でも批判されてる本なんですよ。日本に関する情報が閉ざされていた時代に、詐欺を打った本だって。内容が出鱈目だということは誰もが知っています。」


熾子の言うことが本当なのかどうか、司には判断ができなかった。


けれども――と司は言う。


「――あの本だけじゃないんです。私も玉子と同じです。そりゃ、日本にも悪いところはあったでしょうけど、それでは理解できないくらいの日本に対する憎悪を、私は韓国人の言動から何度も目にしてきました。韓国の反日だって、人を特定のカテゴリーに分けて嫌っているのだと言うことができると思います。」


最初の一言は言いづらいことであった。その次の一言は、さらに言いづらいことであった。けれども、一つ言葉を発するたびに、次の言葉を発せざるを得なくなった。まるで、胸の中で痞えていたものが、一つずつ取れてゆくような感覚があった。


「私も同じだわ。」


ティーカップをソーサーに置きながら、玉子は言う。


「私も――韓国人の酷すぎる反日感情を知って、日本の文化を盗んだり起源を主張したりしてることを知って、すっかり嫌いになったわ。」


窓から射し込む光が急激に弱まった。


熾子は困惑したような目をしていたが、やがて静かに、告げるように言った。


「お二人の仰りたいことはよく解りました。けれども――その件については、先週に申し上げたことと同じでございます。イルペ蟲もそうですけれども、世の中には敵愾心を煽って喜んでいる人間もいるんです。それで怒って反論してきたら、やっぱり相手は自分とは違う対話の通じない人間だと言ってくる人がいる。韓国にも、日本にもね。」


この言葉は、以前に送られてきたメッセージに書かれていたことと全く同じことであった。司は再び遣り切れない思いに駆られる。先週、メッセージを送られてきたときと同じ、もやもやとした気持ちが再び湧き上がってきた。


「玉子は、何も間違っていないと思います。」


その気持ちは言葉となって自然と口から出た。


「玉子は――そういう人じゃないと思います。玉子が今まで言ってきていたことは、私がずっと思ってきた――そして今でも思っていることと同じですから。これは、先週にメッセージを受け取ったときから、ずっと気にかかっていたことです。」


熾子は完全に言葉を失していた。紅い瞳が、司を捉えたり横に流れたりしていた。


窓の外から射し込む光が、ますます弱まってゆく。気づけば、外は随分と薄暗くなっていた。司は、胸の中に残っていた最後の痞えが取れたような気がしていた。眼前を遮る霧が、跡形もなく澄み渡ってゆくかのようだった。けれども、まるで乾いた沙へと水が浸み込んでゆくように、言ってしまったことへの後悔が湧き上がってきた。


「そう――ですか。」


やや間を置いて、熾子はぽつりとそう言う。けれども、そのあとにはまた長い静寂が置かれた。周囲の客が会話をする音、食器と食器の擦れ合う音、ウェイターの歩く音が聞こえる。店内のどこかにある振り子時計が鐘を鳴らした。鐘は四つ鳴った。


熾子はおもむろにスマートフォンを取り出し、画面に軽く手を振れた。


そして、一段と低い声で言う。


「もう四時ですね。」


ええ――と司はうなづく。


熾子は握りつぶすように伝票を手に取り、その場から立ち上がった。


「私はレポートがあるので――そろそろ失礼します。」


玉子は司へと顔を向け、私たちも行こっかと言った。


「ちょっと長居しすぎちゃったみたい。」


「――うん。」


司は軽く首を縦に振る。このまま熾子と席を同じにするのは気まずかった。


三人は席を立った。


レジへと向かう途中、ふと玉子は口を開いた。


「けど、まだ時間あるね。どうせなら、これからCD屋にでも寄ってかない?」


少しだけ気まずい思いはしたが、司はそれに機械的にうなづいた。


会計を済まし、喫茶店の外へ出る。ビルに這入ったとき空に見えていた蒼い色は、今はすっかり姿を消していた。代わりに、西から流れてきた分厚い雲が陽光を遮っている。風に煽られて、街路樹の梢がざわめきを立てていた。


「では――私は一足先に失礼します。」


駅のほうへと視線を向け、熾子はそう言う。


二人は異口同音にそれに答える。


「それでは――また。」


「さようなら。」


さようなら――と言い、熾子は駅のほうへ向けて歩み出す。


「あ――熾子さん。」


しかし、ふいに玉子の発した言葉に、熾子は歩みを止める。


「熾子さんって、啓史大学の文学部ですよね?」


玉子に顔を向けることもなく、そうですよと熾子は答える。


「入学してから一か月も経ってないこの時期に、何のレポートがあるんですかね?」


熾子は何も答えなかった。ただただ梢のざわめきが聞こえている。


「私、啓大の文学部に知り合いがいるんですよ。変だなって思って――映画を観てる最中に、こっそりメッセ飛ばして訊いてみたんです。」


司は後頭部が冷えるのを感じた。


玉子は熾子のすぐ後ろまで歩み寄り、ささやきかけるように言う。


「こういう嘘が日本人から嫌われるんですよ。」


熾子はようやく振り返った。紅い瞳が玉子へと流れ、一瞬、強く輝く。


次の瞬間、玉子の頬を強く打つ音が聞こえた。


司からは玉子の顔も熾子の顔も見えない。頭の中が真っ白になったかのように、ただ呆然とそれを見つめていることしかできなかった。


曇天の中から一筋の雨粒が落ちてきた。


熾子は無言のまま踵を返した。雨粒が一つ二つと落ちてゆく中、まるで二人から逃げるように遠ざかってゆく。司はそれを引き止めようかと思ったが、ついに身体が動かなかった。雑踏の中に紅い頭が消えてゆくさまは、降り始めた雨の中に霞んでゆく景色のようでもあった。

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