Ⅳ それは――韓国にはない考え方ですね。

日曜日となった。熾子は地下鉄に乗り、秋葉原へと向かった。


薄暗い駅から外に出ると、晴天の下に人が溢れていた。待ち合わせの時間は十三時――まだ一時間ほど時間がある。適当なファーストフード店で昼食を摂ってから、待ち合わせ場所へと向かった。


その途中、電器店のビルに嵌め込まれた巨大なテレビが目に入った。


「ソウルの日本大使館前では、日本政府の対応を糾弾する活動が市民団体により続いています。また一部のメンバーが、糾弾のため日本大使館に這入ろうとして警察官に取り押さえられる場面も――」


画面には、黄色いボディアーマーを着た警察官に取り押さえられ、抵抗して暴れる活動家の姿が写っていた。


何となくもどかしい気持ちになった。


熾子は目を逸らし、やや速足で歩いていった。


待ち合わせ場所のカラオケ屋はすぐに判った――店の前に司がいたからだ。茶色い頭の上に、銀朱の背をした海老が照り映えている。隣には鳥打帽を被った少年がおり、司と何かを話していた。それを見て、今日来るのは女子だけではないかと少し不審に思った。


「こんにちはー。待たれましたか?」


声をかけると、海老の尾を揺らしながら司は振り返った。


「あ、いえっ、今きたところですよ。」


「そうですか。――ところで、そちらは?」


「クラスメィトの羽倉です。」


熾子はその少年をじっと見つめ、そして驚いた。背は高く、髪は短かい。しかし、その鳥打帽の下にあるものは少女の目であった。


「代美、こちらが熾子さんだよ。」


羽倉は帽子を取り、軽くお辞儀をする。


「初めまして。羽倉こと、鈴木代美です。司とは同じクラスです。――よろしくお願いいたします。」


戸惑いを覚えつつも、熾子もまた自己紹介をする。


「金熾子です。司さんとは、呟器とかでお世話になっています。名前はアカウントネームそのままですね。よろしくお願いします。」


「そのまんまなんですか?」


「ええ――金なんて姓はいくらでもありますからね。日本でも、下の名前をそのまんまアカウントネームにする人がいるじゃないですか――司さんみたいに。それと同じですよ。」


なるほどですねと言い、少女は少年の微笑みを見せる。


奇妙な時めきが胸を打っていた。目の前にいる者が、男でも女でもないもののように思えたからだ。ただ純粋な「人間」がいる。


「失礼ですが、最初はすごい美少年があるなって思ったんですけど。」


「――美少年ですか?」


「ええ。男の子かなって思っちゃったんです。」


「ああ――男の子とはよく間違えられますよ。それでも――美少年っていうのは、少し、その、大袈裟じゃないですか?」


「いえ、普通に美少年と思いますよ。」


「うん、うん。」司は首を縦に振る。「熾子さんが美少年って言っちゃう気持ちも分かるよ。私なんか、高校の入学式で初めて代美の姿を見かけたとき、何で男子がセーラー服着てるのって思ったし。」


「君はそんな言いづらいことよく言えるな。」


「けれども、よく似合っていらっしゃると思うんです。恐らくは――顔立ちとか、全体が醸し出す雰囲気が、女性の服よりも男性の服のほうを似合わせてるんだと思います。」


「そうだよ。スレンダーで男性的な身体つきしてるしね。」


「だから――何でそんな言いづらいこと平気で言えるの?」


それからしばらくして玉子がやって来た。


あ、玉子だ――と言い、司は顔を上げる。その視線の先へと目を遣ると、雑踏の中から、頭に卵焼きの飾りを載せた少女が現れた。


彼女は司に向かい、軽く手を振る。


「つかさー、おひさー。」


「いや、おひさってほどじゃないでしょ。」


「いや、おひさだよ。私はいつも司に会いたいって思ってるもん。」


「またまたお世辞を。」


彼女は熾子へと視線を遣り、目を細めた。


「こちらにおられるのが、そのキムさん?」


「そうだよ。――熾子さん、こちらが『たまこ』です。」


紹介を受け、彼女は軽く頭を下げる。


「初めまして――敦巻玉子です。司がお世話になってます。」


「いえ――こちらこそ初めまして。金熾子です。」


そして熾子もまた軽く頭を下げた。


「私に興味を持ってくださったのは、玉子さんでしたっけ。」


「ええ。――司が韓国の人と会ったって知って、どんな人かなって気になりまして。その――いきなり会いたいなんて言って、迷惑だったらどうしようかなとも思ったんですけれども。」


「迷惑なんてことないですよ。――私なんか、日本に来てまだ知り合いもあまりないし、寂しかったところですから。むしろ、私のためにわざわざ時間を作って下さいまして、ありがとうございました。」


「いえ――自分のためです。」


言葉の意味が分からず、熾子は首を傾げる。


「――え?」


「私がこうして熾子さんと会ってるのは、私が熾子さんと会いたいと思ったからなんです。だから――これは自分のためです。」


「それは――韓国にはない考え方ですね。」


熾子に会いたいと思って時間を作ったのなら、それは熾子のためでもあると思うのだが。


「じゃあ――」司はカラオケ屋の中を指さす。「みんな集まりましたし、とりあえずお店に這入りましょうか。」


そうだね――と代美も同意した。


四人は店内へと這入っていった。


カウンターでフリータイムを注文し、部屋へと向かう。


部屋へ辿り着くまで、玉子はちらちらと珍しそうに熾子へと視線を遣っていた。熾子は少し不安になる――髪や瞳の色を気にかける人間が今さらになって出てきたのであろうか。


部屋へ這入ると、司はさっそくデンモクを手に取った。


「みんな何飲む――?」


少し思案してから、玉子と代美がそれぞれ言葉を発した。


「私、ジンジャー。」


「僕はウーロン茶で。」


物珍しさを感じ、熾子はその器械を覗き込んだ。


「日本では最初に飲み物を注文するんですか?」


「そうですけど?」司は首を傾げる。「韓国では違うんですか?」


「そういうサービスはありません。飲食が禁止の店もあります。」


「飲食自体が禁止――?」玉子は怪訝な顔をする。「歌ってる最中に喉がからからになっちゃうじゃないですか。」


「まあ、普通は自分でジュースとかを持ちこみますけどね。」


デンモクの画面に目を遣ると、音楽を探すという文字が目についた。


「こういったタッチパネル式の器械も、韓国のカラオケにはないですね。リモコンみたいな器械なんです。」


代美は不思議そうな顔つきとなる。


「え、じゃあ歌を探すときはどうするんですか?」


「分厚い本みたいなのがあって、そこに曲名の一覧が書いてあるんです。それで、曲名に書かれている番号を送信するんです。」


「へえ――。日本とはかなり違いますね。」


実を言えば、日本も一昔前までは全く同じ方式だったのであるが、そんな事情を彼女たちが知るはずもなかった。


飲み物を注文したあと、司は周囲を見回した。


「誰か先に歌いたい人いる?」


当然のように、誰もが言葉を発さなかった。


「誰もいないなら、私が先に歌うけど。」


誰かが先に歌ってくれるというのならば、むしろそれは歓迎すべきことだ。とりあえず、司の次には代美が、その次には玉子が歌うこととなった。熾子が最後に来たのは、引っ込み思案から遠慮したためだ。


「じゃあ手始めにK‐POPを歌ってみます。」


そう言い、司はデンモクを操作した。


司の歌唱力は壊滅的であり、ちょうど読経を聴くのに似ていた。声が低すぎる――かと思いきやいきなり高くなる。歌詞も棒読みだ。


「俺のーネッ友、ただのーへっぽこ、Ohモルゲッソヨー♪」


しかも何だこの歌は。K‐POPであるとのことだが、こんな歌は韓国でも聴いたことがない。一体だれなのだ――こんな歌を作った奴は。しかも、司はなぜそれを知っているのか。


釈然としない思いが胸に充ちていた。


熾子はデンモクを操作し、Tilacis の曲を送信する。


代美は中性的な声色をしていたが、歌唱力については平凡であった。


しかし、玉子については思わず目を見張った。声の出しかたといい、マイクの乗り具合といい、熾子がいつも愛聴している Tilacis のそれと変わりがない。違うのは、それが玉子の声という点だけだ。


玉子はマイクを置いた。司が軽く拍手をする。


「さっすが――玉子だわ。いつも思うけど、どうやったらそんな歌えるの?」


「まあ、歌うのにも知識がいるのよ。呼吸の仕方とか、鼻に声を入れる方法とかね。」


「――へえ。鼻に声って、どういう意味か知らんけど。」


鼻腔共鳴ってやつですよ――と熾子は口を挟んだ。


「私もよく練習しておりました。重要なのは、息の量じゃなくって響きなんです。ただ声を口から出すんではなく、鼻からも響かせるんですよ。やってみれば司さんも上達するはずです。」


「――へええ。詳しく教えていただけませんか?」


「まあ、ちょっとこれを歌い終わってからですね。」


画面に熾子の選んだ歌が表示される。先ほどまで消えていた緊張が蘇った。いつもの技術をなぞりつつも、表現に力を加えて歌う。作詞者と熾子の心情が重なり、それが力強い歌声となった。


歌い終え、熾子はマイクを置く。自分でも満足のゆく余韻が響いた。


司は忙しのない拍手を送る。


「熾子さんも凄いですね! さすが練習されていただけありますよ!」


代美もまた感心して言う。


「実際、日本人でもこれだけ歌える人は少ないんじゃないですか?」


「そうなのかな?」


熾子は少し照れ臭くなった。


「既にさっき、玉子さんが歌っておられたように思うんですけどね。」


「――いえ、それほどでも。」


そう言い、玉子は微笑んだ。しかし目元は笑っていなかった。恐らくは、先ほどの熾子もまたこんな顔をしていたに違いない。


それから四時間近く、代わる代わるマイクを廻し合った。


自分が歌う番になると、必ずと気が引き締まった。玉子よりも下手に歌ってはならないような気がしたのだ。玉子もまた挑発するように Tilacis の楽曲を入れ、熱唱する。


その緊張の合間に、司の下手な歌が入る。


まるで波となぎのような時間が続いていた。

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