第三十四章 ラファエル陥落

 狭い通路を葵が走る。実に楽しそうに。その後を走る美咲は苦笑いだ。

「水無月葵、何故そんなに嬉しそうなのだ?」

 前を走る星薫が尋ねた。葵はフッと笑って、

「だって、今まで散々私達を駆けずり回らせた奴をとうとうこの手でぶちのめせると思うと、喜びで震えが来そうになるのよ!」

 その返答に薫は何のリアクションもせず、美咲は項垂れそうになった。

「この先が操舵室だな」

 薫が配管をくぐりながら言った。その向こうには重々しい鉄の扉があり、固く閉ざされている。

「悪足掻きしてるのね、全く。美咲、お願い」

 葵は美咲を見た。美咲は黙って頷き、進み出る。彼女の目の前にあるのは、どう観ても開きそうにないものだった。

「できそうか? この扉はねじ切ったり押し潰したりは不可能だぞ。テロを想定した造りになっているから、いくらお前でも無理だろう」

 薫が言った。それを聞き、葵は不安そうな顔になった。

「え? そうなの?」

 すると美咲は葵を見て、

「普通の人間だったら、そうかも知れません。でも、所長だったら、できますよ」

「え? 私?」

 葵はキョトンとして美咲を見た。すると美咲は天井を指差した。薫はすぐにそれが何を意味するのか理解した。葵は薫の反応を見てようやく美咲の仕草の意味がわかった。そして、黙って頷いた。

「そうね。私ならできるわね。もう一度、鬼の行を発動すれば、こんな扉、たちまちぶち抜けるわよ」

 葵はニヤリとして言い放った。


 そんな葵達の会話をラファエルは艦内の通信設備を利用して聞いていた。

(何をバカな事を……。水無月葵の特殊能力は調査済みだ。ミカエルが入手した情報より新しいものだ。更に進化した『鬼の行』。だが、それを使ったところで、その扉は破れない。迫撃砲でも破壊できないのはテスト済みだからな)

 ラファエルは自信を持っていた。何があっても、操舵室への鉄の扉が破壊される事はないと。そして彼は、万が一の事を考えて、操舵室の別の出入り口からの脱出口へと進んだ。しかも、操舵室には猛毒ガスの時限装置を置き土産にして。

(脳科学者の俺を捕まえようだなんて、おこがましいんだよ、バカな連中め。頭の基本構造が全然違うんだからな)

 ラファエルは葵達を嘲るように笑い、脱出口の先にある小型の潜水艇に辿り着いた。

「ざまあ見ろ! 仲良く操舵室で死ね、忍者共!」

 ラファエルは、自分が操縦していた潜水艦を海上に押し上げた葵達の乗艦していた潜水艦が動く気配がないので、ニヤリとして小型潜水艇を切り離し、海中に入った。そこには漆黒の闇が広がっていたが、ラファエルはものもともせず、進んだ。

(これくらい離れれば、もう見つかる心配はないだろう)

 ラファエルは潜水艇を浮上させると、小型のパソコンを起動させ、あるソフトを立ち上げた。それは彼が長い年月を費やして製作した「啓蒙」という人心掌握のソフトである。葵達を混乱に陥れた地下鉄とカフェでの人海戦術を使った襲撃は、全て彼のそのソフトによるものである。

(空母を呼び戻して救出してもらい、戦闘機に潜水艦を爆撃してもらう。それで全て証拠を消せる)

 ラファエルは狂気に満ちた目でモニターを見ながら、高速タイピングをした。

「準備完了だ」

 彼はエンターキーを押し、満足そうにフッと笑った。しばらくすると、大きな波を立てて空母がゆっくりとその勇姿を現れた。空母はラファエルの潜水艇のそばで停止し、縄梯子を下ろした。ラファエルはハッチを開くと外に出た。彼は揺れる縄梯子を掴み、それをよじ上った。二人の乗組員が手を貸して引き上げてくれた。ラファエルはそれにもフッと笑って応じ、ブリッジに進んだ。その最中も、彼はパソコンを操作し、戦闘機を呼び寄せた。そして、まだ浮上している潜水艦に爆撃をさせた。葵達が乗って来た潜水艦とラファエルの乗艦は共にそれによって爆発炎上した。

(よし!)

 ラファエルはガッツポーズをし、ふざけて敬礼し、形だけ、葵達の死を悼んでみせた。

(呆気ない最期だったな。まあ、所詮実力の差があり過ぎると、こんなものだろうがな)

 ラファエルは自分の勝利を信じて疑っていない。

(念には念を入れる。入れ過ぎという事は決してない。ミカエル、安らかに眠ってくれ。我々の計画の成功のためにな)

 彼は踵を返して、ブリッジに入った。

(天才達が支配してこそ、人類はより発展し、栄華を極めるのだ)

 ラファエルは自身の思い描く未来に酔っていた。


 その頃、茜は自衛隊の基地の担当官から、葵達が乗って行ったヘリが消息を絶ったと告げられた。それでも彼女は葵達の無事を信じていたが、その後、ヘリが消息を絶った海域で、何かが爆発したらしいという情報も入って来た。

(大丈夫かな?)

 普段なら、葵達の不死身ぶりを微塵も疑わない茜であるが、今回はさすがに相手が悪いと思っていた。

(所長、化けて出ないでくださいね)

 葵が知ったら、只ではすまない事を考えてしまう茜であった。

(大原さんに連絡してみよう)

 何かわかる事はないかと思い、携帯を取り出した。大原はワンコールで出た。

「茜ちゃん、今、中央情報局の友人から嫌な知らせが届いたよ」

 やはり、大原も葵達の乗っていたヘリコプターが消息を絶った事を知っていた。

「それ以上にまずい知らせがある」

 大原の深刻そのものの声に茜は思わず唾を呑み込んだ。

「敵がこちらの動きを察知したらしくて、情報が筒抜けなのがわかったよ」

「そうなんですか」

 茜は自分の顔色が非常に悪くなっているのを感じていた。

「そのせいで、これ以上の情報入手が不可能になってしまった。ごめん」

 大原が謝罪したので、茜はハッと我に返った。彼女はもっと最悪のケースを想定していたのだ。

「大丈夫ですよ、大原さん。こちらにも切り札がありますから」

 茜は大原になら話してもいいかと一瞬思ったが、全国指名手配になっている星一族の三姉妹が行動をともにしているのを警察官である大原に話したりしたら、彼を苦しめる事になると判断し、教えるのを諦めた。

(真面目な大原さんなら、警察庁と私達との板挟みになってしまって悪いし)

 愛する人に隠し事をしているのは心苦しかったが、それ以上に苦境に立たせてしまう事を考えると、我慢するしかないと思った。

「切り札?」

 大原は薫達の存在を知らないため、茜の言う事を完全に理解してはいない。茜は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、

「そういう事だから、謝らないで、大原さん。所長達は大丈夫。そして、私達も大丈夫」

 その罪悪感に押し潰されないように懸命に大原を宥めた。そして、通話を切ると、よろけながらも建物の外に出た。すっかり辺りは暗くなっていて、あちこちでサーチライトが警戒の明かりを灯している。茜はそのまま基地の外まで歩くと、携帯をもう一度取り出し、情報屋に一斉送信した。

(誰か一人くらいはヒットしてよね!)

 祈るような気持ちで携帯を閉じた。


 ラファエルの乗る空母は、日本本土を目指していた。彼はブリッジのキャプテンシートにふんぞり返り、ニヤニヤしていた。

(俺の『啓蒙』は高値で売れる。そして、重要なポストが迎えてくれる)

 彼は自分の明るい将来を想像して、我慢できない程の喜びをかみしめていた。

香港ホンコンの貧民窟で毎日怯えて暮らしていた頃が嘘のようだ。俺は世界を動かす男になろうとしている。いや、すでになっているんだ!)

 ラファエルはシートから上体を起こし、遠くに見える明かりを見た。

(核などという実際には使う事ができない兵器の時代は終わりを告げる。俺の『啓蒙』が世界を統べる時が遠くない将来に必ず訪れる。それこそが新しい軍事力だ。クリーンで、穏やかで、コストパフォーマンスも抜群だ)

 ラファエルは空母の周囲に次々に集結して来る明かりに気づき、シートから立ち上がった。

「出迎えか」

 彼は勝ち誇った笑みを浮かべ、窓から外を眺めようと目を凝らした。そして、凍りついた。

「……」

 頭の中が真っ白になった。目に写っているものが信じられないのだ。

「ミカエル?」

 空母に接近して来る船の舳先に立っているのは、間違いなく元の上司ボスであるミカエルであった。

「何故だ? 何故奴が……?」

 いくら考えても、正解を思いつけない。ミカエルは日本の忍者達と共に潜水艦の中で爆死したはず……。だが、冷静に考えてみると、彼が死んだのを直接自分の目で確認した訳ではなかった。嫌な予感が頭の中で渦巻いていく。

「まさか、まさか、まさか!?」

 ラファエルはブリッジから飛び出して、空母の舳先へと走った。波に揺れているせいで、ラファエルは転びながらミカエルに近づいた。

「海上保安庁?」

 ミカエルが乗船しているのは日本の海上警察機関である海上保安庁の巡視船だった。

「は!」

 ふとその横を進む船を見ると、海上自衛隊の護衛艦だ。その隣はイージス艦。そして、右舷には別の巡視船が並走している。左舷にも同じように並走している船が見える。

(囲まれているのか……?)

 何が起こっているのかはまだ理解できていないが、自分が袋のネズミだという事は理解できた。

「つーかまえた」

 いつの間にか背後にいた葵が嬉しそうにラファエルの奥襟を掴んだ。その隣で美咲が苦笑いをしている。

「ひいい!」

 どこから出したのかというような雄叫びを上げ、ラファエルはもがいたが、葵は手を放さない。

「この期に及んで、じたばたするんじゃないわよ、卑怯者のラファエル。いえ、堕天使さん」

 葵はラファエルの黒のTシャツの襟首を捩じ上げてフッと笑った。ラファエルは歯の根も合わない程ガタガタと震え出した。

王手チェックメイトよ。観念しなさい」

 葵がTシャツを放すと、ラファエルはそのまま崩れ落ちるように甲板にしゃがみ込んでしまった。

「これで終了だな」

 篠原が葵の後ろから顔を見せて言った。しかし、葵は、

「とんでもない。さっき、茜を通じて動いてくれた情報屋の皆さんからの連絡で、やっと真の黒幕さんがわかったんだから、お礼を兼ねてご挨拶にいかないとね」

 篠原と美咲は彼女の何とも言えない笑顔を見て思わず身震いした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る