第24話 葛藤(永遠)

第24話 葛藤


進路相談の夜、私は真理ちゃんにTOEIC受験のために買った参考書を二冊渡した。一つは、ある家族の話を短い例文でストーリーにしたもので、全部で475文あった。

「真理ちゃん。この例文を全部暗記して。iPhoneに落としたら、ネイティヴ・スピーカーの発音が聞けるから。これを朝夕の電車の中で、繰り返し聞いて」と私は言った。

もう一つは、同じくTOEICのための英文法の本だった。大学入試の参考書より、ずっと丁寧に解説が書かれた分厚い参考書だった。

「真理ちゃん。これを一カ月で覚えて。期限は、12月16日だ」

12月16日は、例の茗荷谷にある女子大の一次試験の日だった。さて、果たしてたった一カ月で、英語とは覚えられるものだろうか?ギャンブルもいいところだ。だが、賭けてみる価値はある。

真理ちゃんは夕食を食べ、21時のニュースを見終えると22時から空室だった私の母の部屋に籠った。幸い小さな机があったので、私は六畳間から電気スタンドだけ持ち込んだ。

真理ちゃんのただならぬ雰囲気に、涼ちゃんもすぐ影響を受けた。私が真理ちゃんに参考書二冊を渡したことを教えると、涼ちゃんは「私も、欲しーっ!」と泣きそうな顔で訴えた。もう、おもちゃを欲しがる子供と同じである。はいはい、おんなじ本を涼ちゃんのためにも買いますよ。

「真理ちゃん、この475の例文はノートに書かないでね。書く時間があったら、聴いてひたすら読むことに使って」

これは、私の経験談である。例文をノートにとっても、時間が膨大にかかる割にちっとも頭に入らない。それより、475の例文を繰り返し聴いて頭に叩きこんだ方がいい。

「最初は意味がわからなくていいからね。英語はこんなもんだと、割り切って聞いて。同時に、この英文法の本を勉強して。これを読めば、例文の文法がわかるから。英文法は、しっかりノートに取って何度も読み返すんだよ」

真理ちゃんの机には、茗荷谷の女子大の募集要項が乗っていた。これを見て、やる気を奮い立たせるのだろう。

「ずるーい。拓ちゃん、私にも勉強教えてーえ!」と、涼ちゃんがまた不満を訴えた。

「わかった。明日同じ本を買ってきたら、おんなじ勉強法を説明するよ」と、私は約束した。

こうして、二人の勉強漬けの毎日が始まった。


「疲れたあああ」

私が21時頃家に帰ると、涼ちゃんは大声で私に訴えた。受けていない授業を取り返すための、補習の毎日は続いていた。そりゃあ、疲れて当たり前だよな。

涼ちゃんはソファの前に立ち、少しの間だけでも私の膝に乗ることを望んだ。私は彼女を15分ほど膝に座らせてニュースを見てから、三人で夕食を食べるのが日課となった。だから、夕食は朝のうちに作っておかなければならなくなった。21時過ぎに作っていたら、真理ちゃんが22時から勉強できなくなってしまう。そんな真理ちゃんに感化されて、涼ちゃんも真似を始めた。彼女は元私の部屋で、真理ちゃんと同じく英語の勉強をした。

「遅くても、24時には勉強を止めるんだよ。それ以上続けてやっても、頭に入らなくて無駄だからね」

「はーい」と、二人は声をそろえて答えた。


私は、涼ちゃんの行動の静かな変化に気づいていた。涼ちゃんは私の膝に乗っているとき、私の肩や二の腕、胸や太ももにさりげなく触れるようになった。最初は偶然触れてしまった程度だったが、それは次第と明らかに意図的になった。

私は32歳のころから、定期的にジムに通って身体を鍛えていた。だから、筋肉質とまでとは言わないが、普通の男よりは胸は厚く、肩も二の腕も大きく太かった。腹筋も鍛えていたので、いわゆるメタボとは無縁だった。

普通の男なら、涼ちゃんのような女の子に触れられたら気分がいいだろう。だが、私は普通ではない。彼女に触られても、何も感じなかった。むしろ戸惑った、とても激しく。そして心から、恐ろしくなった。せめて真理ちゃんの前では、涼ちゃんに身体を触られたくなかった。涼ちゃんに、「止めろ」と言うことも本気で考えた。しかしできなかった。彼女が傷つくことを恐れた。

私は毎晩、二人がしっかり締めたダイニングルームとリヴィングルームを仕切るドアを、10cmだけそっと開けることにした。そして六畳間に横になり、じっと耳を澄ませた。するとまもなく、あの「歌」が聴こえてくる。私はその始まりを聴いただけで満足した。盗み聞きだ。モラルに反する。でも、そうせずにはいられなかった。涼ちゃんと真理ちゃんの変わらぬ愛を確認し、私はドアをしっかり閉めて眠りについた。

もちろん、いくら待っても「歌」が聴こえてこない夜もあった。二人だって、毎日勉強ばかりして疲れてるさ。私は自分にそう言い聞かせた。それでも私は、つい不安になってしまう。時計が三時を過ぎた頃、私は諦めてドアを閉めた。


真理ちゃんは土日の私の授業のあと、気分転換にギターを練習した。もう彼女はE-D-A-Eはマスターし、次はC-Am-F-Gにトライしていた。The Beatles の Let Lt Be や、The Police の Every Breath You Take でも使われている、シンプルだが美しい進行だ。

ある土曜日の午後、授業を終えた私は六畳間にこもった。そして、次の授業のスライドを作っていた。すると18時頃、真理ちゃんが母の部屋からダイニングルームに戻ってきた。いつものように、彼女はギターを弾き始めた。つっかえつっかえ、しっかり押さえられなくて不協和音を出しながら、彼女は練習を続けた。私には自然と、Let Lt Be を歌うポール・マッカートニーの声が聴こえてきた。


Let Lt Be(なるがままにしよう)


そうかもしれない。それが正しいのかもしれない。私に出来ることは、とても少ない。

全てが上手く行けば、四月に涼ちゃんと真理ちゃんは学生になれる。私の願いも叶うことになる。二人はそれぞれに新しい世界へ漕ぎ出し、たくさんの大切な人々に出会うだろう。なるようになるのだ。

だが、私はまたたまらなく不安になった。涼ちゃんがもし、彼女を深く理解でき、彼女を守る強さを持ち、彼女を包み込むような優しさを備えた男に出会ったとしたら?涼ちゃんは、彼を愛するのではないか?

私は真理ちゃんのギターに、耳を澄ませた。そのたどたどしいが切ない音色に。

もしも涼ちゃんが想像の彼と恋に落ちたら、気丈な真理ちゃんは、精一杯の笑顔で彼らを送り出す気がした。彼女は、それができる女の子だ。両目いっぱいに涙を溜めながら、それを一粒も零さずに笑顔を見せ、涼ちゃんに別れの手を振る真理ちゃんの姿が私の脳裏に浮かんだ。

私は頭を振って、雑念から逃れようとした。所詮他人のすることだ。私には関係ない。私はヘッドホンを出して、ノートPCに繋いだ。iTunes を起動させ、The Beach Boys の Pet Sounds を選んだ。二十世紀に生まれた音楽の中でも、十本の指に入るアルバムだ。おそらく二十二世紀になっても、二十三世紀になってもこの音楽は残るだろう。

曲が、God Only Knows に変わった。まさに、「神のみぞ知る」だ。涼ちゃんと真理ちゃんの未来は、誰にもわからない。私には、どうすることもできない。

曲が中間部に差し掛かり、The Beach Boys が絶品のコーラスワークを披露した。美しい、素晴らしい音楽だ。そして、たまらなく切ない。すると、私はさっき振り払ったはずの真理ちゃんの姿が、目の前に蘇った。

両目が急激に熱くなったかと思うと、突然大量の涙が湧き出した。堪えられなかった。私は、ポロポロポロポロと涙を流して泣いた。止まらなかった。私は48歳にもなって、悲しくて悲しくて子供のように泣いた。

おそらく今の私の気持ちを、理解してくれる男はこの世に一人もいないんじゃないだろうか?誰も私のようには、考えないんじゃないだろうか?レズビアンの愛が失われることを恐れて泣く私を、みんな頭がおかしいとしか思わないんじゃないかな?

でもそうなんだ。私は普通じゃない。狂っているんだよ。私は、タンスの引き出しからハンドタオルを取り出し、顔をゴシゴシと拭いた。そして立ち上がった。もう一人では、どうにもならない。私は友だちに頼ることにした。30歳年下の、高校三年生の女の子に。

襖を開けてダイニングルームに出ると、ギターを弾いていた真理ちゃんが私を見た。そしてびっくりした顔をして、表情を曇らせた。

「どうしたの?真っ青な顔してるよ?」と真理ちゃんは言った。

「何でもないよ。コーヒーが飲みたくなっただけ」

私は無理矢理笑顔を作りながら、テーブルの脇を通り過ぎた。キッチンに用意しておいたポットを手に取り、ホットコーヒーをカップに注いだ。それから何も言わずに、真理ちゃんの真正面に椅子に座った。彼女を見て、私は自分の気持ちが少し安らぐのを感じた。

「調子悪いの?例の、病気のせい?」

「いや、違うよ」と私は答えた。「いや実は、真理ちゃんのギターを聴いてたら、The Beatles の Let Lt Be や、The Police の Every Breath You Take を思い出してさ。両方も切ない歌だからさ、何だか悲しくなってきたんだよ」

「えー、何それー!?」真理ちゃんは、驚いた顔をして笑った。「私のギターで悲しくならないでよ。練習できなくなっちゃうじゃん」

ダイニングルームでの会話を聞きつけて、涼ちゃんが部屋から出てきた。彼女は私の隣に座り、私の方へ身体を向けた。そして真剣な表情で、私の顔を覗き込んだ。あの大きな瞳をさらに開いて。くっきりとした眉毛をひそめて。

「ひどい顔!熱あんじゃないの?」

そう言うなり彼女は、右手で私の額を覆った。そこにしっかりと手を触れて、熱がないか確かめた。

「うん、熱はないみたい」と涼ちゃんは言った。でも、心配した顔のままだった。彼女は額から離した右手を、今度は私の太ももの上に置いた。

「拓ちゃん、しばらく寝てなよ」と真理ちゃんが言った。

「でも、もう少ししたら夕食の準備をしないと・・・」

「そんなの、私と真理ちゃんで作るよ!」と涼ちゃんが強い口調で言った。

「ええっ!?出来るの?」

二人はこの家に来て以来、一度も料理をしたことがなかった。私はできないんだろうと決め込んでいた。

「拓ちゃんの好きなカレーを作るから。さあ、横になって休んでて。お願いだから」と真理ちゃんが言った。

私は、この30歳年下の親友たちのアドバイスに従うことにした。立ち上がって六畳間に戻り、布団を敷いて横になった。ヘッドホンをしてiTunesをまた開き、今度はビル・エヴァンスの Moon Beams を選んだ。そして目を閉じ、考えた。

私はつまり、永遠を問題にしてるのだ。涼ちゃんと真理ちゃんの、永遠の愛を願っているわけだ。しかし、それは実は馬鹿げている。ドストエフスキーは小説の中で、登場人物にこう言わせている。「永遠とは、蜘蛛の巣の張った屋根裏部屋みたいなものだ」と。

時間が流れるから、私たちの生に意味が生まれる。涼ちゃんは、実の父親に犯されてしまった。真理ちゃんは、クラスメイトに顔をカッターナイフで切られてしまった。現実は残酷だ。確かに。だが、だからこそ、戦うエネルギーが湧いてくる。傷が深ければ深いほど、私はそれに立ち向かう闘志を燃やす。時間に限りがあるからこそ、私は一日でも早く二人の抱えた苦しみを和らげたいと願い、行動する。つまり私たちは、常にぼんやりと時間の流れと自分の終わりを意識し、少しでも自分の生を価値あるものにしようと努力するのだ。それは、誰でも同じだ。私のような言葉遣いをしなくても。

キッチンは戦場に変わった。涼ちゃんと真理ちゃんが、「ギョエー!」とか、「ウギー!」とか叫びながら、カレーを作っていた。ヘッドホン越しでも、二人の大声ははっきり聞こえた。

作り方は分かるかな?でも、きっと大丈夫だ。iPhoneで調べながら、野菜を切っているのだろう。冷蔵庫には、こま肉が300gくらいあったはずだ。私は今夜それで、野菜炒めを作る予定だった。それをカレーに転用すればいいだろう。

二人に火と油を使わせるのは、とても不安だった。しかし、いつまでもそんなことは言えない。涼ちゃんも真理ちゃんも、料理を覚えないといけない。近い将来、一人で暮らす可能性だってあるのだから。

じゅうっという音が聞こえてきた。肉を炒め始めたようだ。「林間学校みたい」と涼ちゃんが大声で騒いでいた。

一時間くらい経ったところで、私は起き上がった。そしてキッチンの様子を見に行った。カレーを弱火で、グツグツと煮込んでいるところだった。二人はコンロの前に立ち、「どうだ!」という表情で私を見た。

「ところで、ごはんは?」と、私は気になっていたことをたずねた。二人は同時に、しまったという表情をした。やっぱり。

私がしゃがんで米びつから米を出そうとすると、二人はまた「拓ちゃんは寝てて」と言った。米の研ぎ方や、水加減はわかるかな?私は不安だったが、これも二人に任せよう。まあ、どうにかなるさ。「わかった」と言って部屋に戻り、部屋に横になった。


さて、この問題にどう対処するべきだろう?私は考えた末に、打つ手なしという結論にいたった。男と付き合っていたこともある涼ちゃんが、年令とともに男の身体に興味を持つのは自然なことだ。私が成長するにつれ、女性に関心を持ったのと同じことだ。それを制御しても、不自然なだけだ。宗教的な禁欲主義と変わらない。

それと恋愛は、似ているようで全く別の問題だ。真理ちゃんほどの人間的魅力を持つ男が、どれだけいるだろう?それに、所詮は二十歳前後の若い男だ。どいつもこいつもガサツで身勝手で、性欲の処理しか考えてない連中だ。真理ちゃんの持つ大らかさや包容力、可愛らしさと強さを合わせ持つ男などまずいない。涼ちゃんは、真理ちゃんを愛するだろう。永遠ではないけれど。甘えん坊の涼ちゃんだ。ママみたいな慈愛の心を持つ真理ちゃんでないと、彼女を包み込むように愛することはできないだろう。


カレーライスは、なかなかの出来栄えだった。

「美味しい」と私が言うと、涼ちゃんも真理ちゃんも満足そうに笑った。

「拓ちゃんに合わせて、甘口にしたんだよ」と涼ちゃんが言った。

二人は辛さが足りないらしく、カレーにせっせとタバスコをかけていた。なんと素晴らしい、土曜日の夜だろう。特別なことは何もないけれど、こんな素敵な夜はそうはない。私は心から、この二人の親友に感謝した。

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