夜.四

 一通り畑仕事を終えると、レンさんは少しばかり用があると、先に戻ってしまった。家の米が少ないと言っていたので、恐らく米を作っている知り合いの所へ、野菜と交換してもらいに行ったのだろう。日が暮れる前に戻ってくれれば良いのだが。ミ程ではないにしろ、ああ見えて割と呑気なところがあるから心配だ。

 森を脇に歩いていると、突然思い出したかのようにミが立ち止まる。

「キョウ、ちょっといいか?」

「駄目だ」

 それを聞いて、やっぱりとでも言いたげに、妙に納得したような表情で微笑むと、ミは勝手に話し出す。

「わたしの小屋の前の川に西瓜が冷やしてある。駄目にならないうちに食べてしまいたいのだが」

「駄目だ」

「でもいいのか? わたしは勝手に行くぞ? 今のわたしはジュソに敵わない。それで何かあったらレンさんはどう思うのだろうな。いや、何が無くとも怪我をしているわたしが一人で森に入ったという事実だけで大事だろうな、レンさんにとっては」

「お前……、畑での会話、聞いてただろ」

 聞こえる筈もない距離だと思ったのだが、とんだ地獄耳もいたものだ。

「さあ何のことかな」

 あからさまに恍けてみせる。

「まあいい、でも調子に乗るなよ? 俺にも限界ってやつがあるからな」

 嘆息して見せ、そんな言い訳じみた言葉と共に俺は了承した。俺だってこの茹だるように暑い中、冷えた西瓜とやらに興味が無いわけではない。

「そうと決まれば急ぐぞ!」

 ミは急に森の方角へ駈けだした。

「おっ、おい馬鹿! ………くそ、あの阿呆女が……」

 レンさんからあんなことを言われた手前、見失うわけにもいかず、俺はミの跡を追いかける。



 小屋に着く頃には日が傾きかけていた。

 大きく切った西瓜を、川岸の大きな岩の上に腰かけて食べる。

 ミは口の周りを汚しながら、そんなことは気にしにない様子で西瓜にかぶりついている。足をぱたぱたと揺らしながら。

「お前、草履を川に落として流されても取りに行ってやらんからな」

「自分で行くからいい」

 ミは構わず西瓜を頬張り続ける。

 近くで見れば、ミの着物は土やら何やらで汚れていた。存分に曝け出した足には所々引っ掻き傷のようなものがある。古いものもあれば、今さっきできたとしか思えない程新しいものまで。ここに来る途中の枝が原因だろう。馬鹿みたいに走ったりするからだ。

「はぁ。お前、見れば見るほどなんというか………残念だな……」

 溜息に混じって、思わずそんなことを言っていた。

「ん?」

「いや、お前も、例えばあの紗千みたいに着飾ってみたいとは思わないのか?」

「キョウはそうした方がいいのか?」

「いいや別に。だがあんまりみすぼらしい恰好してるとレンさんが心配するぞ」

 まあ、レンさんにしても人のことを言える立場ではないのだが。それでもあの人は一応、既に二人のガキを持つ母親なのだし。そう考えるとやはり一番正す必要があるのはこいつだ。

「そうか……考えておく」

 どうせわかってはいないだろう。

「それとその足のぱたぱた、今は構わんが荷車の上でやるのはやめておけ。周りに人がいる時は特にな」

「駄目なのか? 本島ではそういう決まりなのか」

「そうだ。本島でそれをやることは、わたしはこの上ない愚か者だ、と自ら公言しているようなものだ」

 そういうことにしておいた。

「そうか……気を付ける……。でも、今はいいのだろう?」

 そう言うとミはぱたぱたを再開する。

 いたずらっぽくこちらを伺いながら微笑むミを見て、忠告する気が失せた俺は、まるで懐いて寄ってきた猫を追い払うがごとく手でしっしっとしてやると、草の上に寝そべった。

「ああ勝手にしろ。愚か者」



 気が付けば、日が半分程落ちていた。

 低くなった日は空をより一層濃い橙に染め上げる。木々やその葉によって象られた夕焼け空は、真夏だというのに、まるで光り輝く紅葉のようであった。

 レンさんはもう帰ってくれただろうか。

「わたしはこの島から出たことがないからわからないけれど、本島だとまた違う感じ方をするのかな」

「は? 何がだ?」

 こいつの突拍子もない発言は今に始まったことでもないので、気に留めることでもないのだが、生憎この場にいるのは俺とこいつの二人。西瓜への礼も込めて、というのは勿論皮肉を込めた文言ではあるが、一応訊いてやることにする。

「この島の子達にとってあの夕焼けは危険の合図なんだ。もうすぐ化け物が出るぞ。早く家に帰れっていうな。……でも、あんなに綺麗なんだぞ。なんか勿体ないと思って。化け物なんていない世界ならもっと違う感じ方をするのかなと思って」

 ミは伏し目がちに地面の草をいじりながら、どこかたどたどしく言った。

「さあな、どこもそんなに変わらないんじゃないか? それに、本島にはジュソがいない分、他に色々と危険なものがあるからなぁ。そしてそういうものは決まって暗い所からやって来る」

 少し前に、本島の故郷で夜に子供の連続誘拐事件があったことを思い出す。

 そういえばこの島に来てから人の犯罪など耳にしたこともなかった。

「そうかなぁー」

「そうだ。どこにいたって安全なんて無いんだよ」

 初めて会った日の夜、ミはこの島に対して同じようなことを言っていた気がするのだが、本島にどんな幻想を抱いているのだろうか。

「ふふ」

 目を伏したのはそのままに、ミの笑い声が聞こえた。

「どうした?」

「いやな、佐久間さんと同じようなことを言うのでな」

「なんだ、お前。佐久間って奴に会ったのか」

「ああ、ちょっとな」

「…………」

「どうした? キョウ」

 しばらく黙っていると、急にミが顔を覗き込んできたので慌てて背ける。

「だが夜に悪いことばかりがあると決め付けるのは正しいとは限らんぞ」

「そうなのか? 例えば何があるんだ?」

「あ? まあなんだろうな……」

 その佐久間という人間とは面識がないのだが、そいつと同じようなことを口にしているという事実が何となく不快だった。それだけなのだが……。慌てて考えを巡らす。

「……例えばあれだ。花火とかあるだろ。あれは暗くなければ意味が無い」

 我ながら説得力に欠ける選択肢だと思った。思いつきで言うものではない。もっと良い例えがあるだろうに。

「花火……か」

 だが、ミは不意を突かれたように言葉を詰まらせた。

「なんだ、花火知らないのか?」

「知ってるよ。ただ、話で聞いたことがあるだけだけどな。なあ、花火は綺麗か?」

「大したことはない。だが女共は決まってああいうのが好きだからなぁ」

「そうか、なら見てみたいものだな」

「馬鹿か、とてもじゃないがお前に普通の女の感性があるとは思えん」

「それは見てみなければわからないだろう」

 ミがムッとした表情でこちらを睨んだ。さっきまでいじっていた草を抜き取り、俺に向かって放ったのだが、逆に吹く風のせいで俺にまったく届くどころか、反対にミの頬にその一本が張り付いた。

「いやわかる。お前にはそんなものよりも食いもんの方がお似合いだ」

「じゃあこうしよう。もしもわたしが本島に行った時は一緒に見よう」

 頬の草を払いながら、何故かはわからないが、ミはどこか得意げな表情で提案してきた。

「嫌だ」

「いいではないか。行こう」

「そうは言ってもお前はこの島から出られないだろう。そういう呪いだってのは知ってるんだぞ」

「そうだな、この島の者の祖先は大体が重罪人だからな。そう簡単に出られてしまっては意味がない」

「ならばやっぱり無理だろう。馬鹿馬鹿しい」

「だからもしもと言ったじゃないか。もしも、この島から呪いというものが綺麗さっぱりなくなって出られるようなことがあれば、その時は連れて行ってくれ」

「ああ、わかったわかった。その時もし、その約束を俺が覚えていたらな」

 応対が億劫になり、了承することにした。どの道、無意味な約束だ。ムキになって応えてやることもない。

「だが遠くから眺めるだけだぞ。お前と一緒に祭りを回るなんて御免だ。考えただけで虫唾が走る」

 それでも念の為、最後にそう付け加えておいた。

「そうか祭りかぁー」

 話を聞いているのだろうか、こいつは。

「なあ、その祭りはどんな食べ物が出るんだ?」

「知るか、そんなの祭りの数だけまちまちだろ――って、ほれみろ、やっぱり食いもんだ」

 祭りという言葉を知っていても祭りのことは知らない。

 それはこの島に祭りというものが存在しないからだ。

「この島に祭りは無いのか?」

 それでも訊いた。これ以上この島でこんな会話をすることに、ある種の虚しさを感じたからだ。そこでこんな質問の一つでもしておけば、晴れた気持ちもたちまち台無しにしてしまうだろう。

「無いよ」

 ミは即答した。

「そういう決まりだから」

 祝ってはいけない、めでたいことは何一つ無い。この島の決まりだ。この島の、この島の外の人間が決めた決まり。今で言う、監獄のような役割を果たしてきたのだから無理もないのかもしれない。その昔、『おめでとう』はこの島では禁句だったそうだ。

「ああやっぱり綺麗だな。この島の夕暮れは。とは言ってもここ以外の夕暮れを見たことがないが」

 何かを振り払うようにミは言葉を大きくした。

 そして苦笑する。

「だけど日が暮れるということは、もうすぐ夜が来るということ……。夜にはまた、どこかで人が襲われる。島の呪いを受ける」

「…………」

「キョウ」

 しばらく黙っていたからだろうか、ミが改めて俺の名を呼ぶ。

「日など……ずっと暮れなければ……、夜など来なければいいのにな」

「そう……だな……」

 いつしか、ぱたぱたとご機嫌だったミの足は止まっていた。

「夜は長いしな」

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