8

 次の日、イーゴリに別れを告げて、彼の家を後にした。食料や水、毛布などまで分けてもらえたので、しばらくは快適な旅が続けられそうだ。

「そうか。君たちはあそこへ行くんだな」

 方角を確かめ、西へ向かおうとする僕たちを見て、彼は納得したように呟く。彼には僕たちがどう見えていたのだろう。危険な場所へ行く命知らずな若者か、死にたがりの阿呆くらいに思われていたかもしれない。

 イーゴリにもらった地図を見るに、もうかなり西の果てに迫っていることがわかった。おそらくここから数日歩けば、目的の国境付近に辿り着くことができるはずだ。

 こんなに長い旅を続けているというのに、僕は未だにレヴィのことを上手く受け入れられずにいた。朝目が覚めたときに、彼がすぐ隣で寝息を立てているような気がした。道を歩いているときに、彼が後ろからペタペタと足音を鳴らして追いかけてくる気がした。

 それだけではなく、僕はどうしてこの旅を続けているのかすら、よくわからなかった。漠然とついてきてしまったけれど、覚悟と決意を胸に旅を始めたニルスと違って、僕は彼に便乗しただけだ。この旅で何か自分に変化が訪れると思っていたのに、いつまでもあの町にいた頃と変わらぬまま。レヴィと別れたその日から、僕の時間は止まったままだった。

 そんな僕に対し、ニルスは何も言わなかった。しかしもしかしたら、もうすでに僕には呆れ果てて、見限った後なのかもしれない。彼は一切後ろを振り返らないで、黙々と歩みを進めていく。

「あれは何だろう?」

 何もない小麦色の荒野を歩いていると、少し離れたところに何か黒くて大きなものが落ちているのが気になった。僕は先を行くニルスを呼び止め、向きを変えてそれに近づいてみる。最初は何だかわからなかったが、数メートル手前まで来たところで、僕はようやくそれが何なのか気付く。

「ペンギンだ……」

 その黒い物体は、力なく横たわった大きなペンギンだった。蹲るような恰好で、顔を伏せて倒れている。身体は不自然なほど動きがなく、ただ単に眠っているわけではないことは明白だった。

「たぶん行軍中に力尽きて、置き去りにされてしまったんだろう。倒れたペンギンを助けてやるほど、余裕があるはずもない。可哀想に……」

 ニルスは目を瞑って軽く手を合わせ、丸まった背中を優しく撫でた。ペンギンの死体を見るのが初めてだった僕は、そのあまりの現実感のなさに固まってしまう。

「こうして見つけたのも何かの縁だ。僕たちが埋めてやろうか」

 このまま放っておくのも可哀想なので、僕たちは二人で穴を掘り、彼の墓を作ってあげることにした。道具がなく素手を使うしかなかったので、あまり深い穴を掘ることはできなかったが、それでも彼の身体を沈めるに足るものが出来上がった。

 二人がかりで重たい彼の身体を持ち上げ、静かに穴の中へ下ろす。前にレヴィを担いだときよりも、彼の身体は何倍も重さを感じた。人は死んだとき、魂の重さ分である二十一グラム軽くなると言うけれど、ならばどうして彼の身体はこんなにも重く感じるのだろう。「死」そのものに重さを感じているからだろうか。

 安らかな表情で眠る彼に、僕らは優しく土をかけていく。きっと彼は最期まで苦しかったろうに、こんなにも幸せな顔をしているのが不思議だった。いやむしろこれが自然なのか。生前の苦しみがあったからこそ、その生から解き放たれて、この表情をしているのかもしれない。

 彼の姿が完全に隠れたところで、十字架代わりの枯れ枝を立てて、彼の冥福を祈って手を合わせた。これからは幸せに生きていってくれたらいいと思う。

「あれ……」

 僕はふと自分の目から涙がぼろぼろとこぼれていることに気付く。どんなに拭っても次から次へと溢れてきて、止めようとしても全然止まってくれない。

「おかしいな。どうしてこんなに……」

 確かに彼への悲しみや同情はあったけれど、こんなに泣いてしまうほどではなかった。実際心は何ともないのに、身体の方が言うことを聞かない。何より祖母が亡くなったときも、レヴィに別れを告げたときも、ほとんど涙なんて出なかった。だからこんなに涙が止め処なく溢れてくること自体初めてで、僕は困惑を隠し切れない。

「どうしたんだい?」

 ニルスはそんな異様な僕に気付いて、心配そうに僕の顔を覗き込む。

「何だか彼に手を合わせてたら、突然涙が出てきて……」

 みっともない姿を見られるのが恥ずかしくて、僕は必死に涙を拭って、少し顔を伏せる。そんな僕に対し、ニルスはただ黙って背中をさすってくれた。そして彼は僕の涙について、彼なりの見解を語った。

「その涙はきっと君がこれまでずっと流せていないままになっていた涙だよ。君はレヴィと別れて以来、少しでも涙を流したかい?」

 僕は首を横に振る。レヴィがいなくなった日は茫然としたまま一日が終わってしまったし、その後も無意識に目を逸らし続けているせいか、彼のことを思い出して涙を流すということは、一度もなかったように思う。

「今まで君はレヴィとの別れをちゃんと理解できていなかった。それは君なりの拒絶でもあり、単純に許容量を超えてしまったという部分もあったんだろう」

「それは、確かにそうだと思う」

 レヴィのことから目を逸らしていたのは、結局そこがネックだったからだ。受け入れたくないという自分と、どう受け入れたらいいかわからないという自分。それが今の僕を支配している。

「そんな中で、君は「死」という別れに直面した。通りすがりに見つけた見ず知らずのペンギンの死体だったけれど、君の心を揺さぶるには十分だった」

 僕は顔を上げ、さっき建てた簡素な墓に目を遣る。「死」というのは何となく遠いもので、自分にはまだ関係のないことのように思っていた。おそらく、「別れ」も同じだ。だからレヴィに対し、僕はまだ涙を流せていないのだ。

「皮肉なことに、僕たちは自分の「死」を認識することはできない。それは当然だ。死んでしまったら、意識が無くなってしまうんだから。だから僕たちは他者の「死」を以て、「死」というものを認識する。誰かの「死」を自分の「死」に重ねて、理解したふりをする」

 そうか。つまり僕はレヴィの「別れ」をあのペンギンの「死」に重ねて、ようやく理解することができたんだ。だからこの涙はずっと流せずにいたレヴィとの「別れ」への涙だということか。

「僕はやっとレヴィに向き合うことができたのか……」

 少しの間止まっていた涙が、再びじわりと溢れ出してきた。風に晒されて冷えていた頬がじんわりと温まっていく。

「レヴィ……。ごめんよ、レヴィ……」

 嗚咽を堪え切れず、僕は彼の名前を何度も呼んだ。記憶が、想いが、後悔が、頭の中を駆け巡る。もう一度会いたい。そう思ったけれど、今更叶うはずもなかった。

 僕は全身の水分が枯れてしまうまで泣き続けた。たぶんこの涙は一生止まることはない。死ぬまでこの罪を背負って生きていくのだ。今ならイーゴリの気持ちが何となくわかる。この罪を忘れないことこそが一番の罰であり、唯一の救いだった。

「行こうか」

 墓の前で崩れ落ちるように泣いていた僕に、ニルスは手を差し伸べる。彼は「死」を、そして「別れ」を理解しているのだろうか。少なくとも、彼の頬は乾いていて、涙の跡は見えなかった。

 彼の目を見つめると、その色はちょうど薄暗い曇り空の色に似ていた。

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