5

 漠然と日々を過ごしていると、時はあっという間に過ぎ去ってしまう。充実した時間は短く感じると言うが、あれは正しい言説ではない。もちろん走っていれば、一つ一つの風景は一瞬で見えなくなる。けれど立ち止まって後ろを振り返ったとき、自分の足元まで続く道が短いのは、焦ることもせずにだらだらと歩いてきた方だ。

 その日は、淡々と繰り返す毎日の延長線上に、当たり前の顔をして現れた。夜が明け、朝日が昇り、僕は春らしい小鳥の囀りに目を覚ます。

 食卓へ降りるとすでに父と母が起きていて、父は眉間に皺を寄せながら新聞に目を通し、母は台所で洗い物をしている。できたてのトーストと目玉焼きがひょろひょろと湯気を伸ばして僕を待っていて、席につくと、母がカップに並々の牛乳を出してくれた。

「おはよう」

 父は新聞から目を離さないまま、僕に言葉をかける。おはよう、と返してみても、彼はやっぱりこちらを向くことはなかった。それもいつものことなので、特に気にすることもなく、僕も彼から視線を外す。

 窓の外に見える青々と茂った林檎の木を眺めながら、テーブルに並んだ朝食を機械的に口へ運ぶ。あまりに慣れ親しんだその味は、もはや何の刺激も与えずに、ただ喉を通って胃の中に落ちていった。

「ごちそうさま」

 お腹を満たし、食器を片付ける。そして、着替えて学校に行く準備をしなくては、と思ったところで、今日が休日であることを思い出した。せっかくの休日ならもう少し寝坊すればよかったと、何だか損した気分になる。

 軋む階段を上がって自室に戻ると、そこにわずかな違和感を覚えた。間違い探しにもならないほどの小さなずれに、一瞬わけがわからず困惑する。しかしすぐにその正体に気付いて、僕は自分の情けなさに自嘲する。

 ――そうだ、もういないんだった。

 僕が朝食を食べて戻ってくると、決まってまだ部屋の隅で丸くなって眠っていた、寝坊助の彼はもういない。彼がいるはずの潰れた緑の座布団は、カーテンの隙間からこぼれる白い光が当たってとても寝心地がよさそうだった。僕はその上に座り、部屋をぐるりと見渡す。

 部屋はずいぶん長いこと掃除をしていないので、床には雑多に物が散らばっていて、壁際には遠目にもわかるほど埃が溜まっていた。小さなゴム製のボール、硬い毛でできた茶色いブラシ、薄汚れたぬいぐるみ、そして埃に混じって宙を舞う羽。この部屋にあるのは、もういらなくなったものばかりだ。

「久しぶりに、部屋の片付けでもしようかな」

 母にも再三言われていたことだし、色々と処分するべきものもあるので、ちょうどいい機会だろう。そう思って僕はこの休日を季節外れの大掃除の日に決め、箒を片手に断捨離を始めた。

 手始めに無造作に投げ捨てられている小物を拾い、要不要を分別していく。いざ掃除を始めてみると、結構たくさん小銭が見つかったり、失くしたと思っていた物が出てくるから、意外にも楽しかった。

 本棚や机の上に積もった埃を拭き取ると、舞い上がった埃が喉に入って咳き込んでしまう。慌てて埃を追い出そうと窓を開けると、優しい春風が頬を撫で、草木の香りが鼻を刺激する。僕は爽快な気分に浸りながら、鼻歌混じりに部屋の中を一つずつ整理していく。

「あとはベッドの下だけだな」

 しかし最後に残った相手が一番の強敵だった。恐る恐る覗いてみると、それだけでもくしゃみが止まらなくなるほど、凄まじい量の埃が積もっている。加えて床の色が見えないくらい物が溢れていて、見るだけでやる気をそがれる光景だった。

 箒を使って一気にこちらへ引き寄せ、先ほどまでと同じように一つ一つ分別していく。大半がゴミかそれに準ずる物だったので、みるみるうちに山は減って、ゴミ袋が膨れ上がっていった。そうして半分くらいまで処理したところで、忙しなく動いていた僕の手が止まる。

「これは……」

 僕が手に取ったのは、あの『訣別の痕』という絵本だった。あれ以来すっかりその存在を忘れていて、レフに返さないで部屋に置いたままになっていた。一度開いただけなのに、そのときの衝撃は未だに覚えている。あまりに衝撃的だったから、今までは無意識に忘れたふりをしていたのだろう。改めて実物を目の前にすると、脳裏にあの生々しい絵が浮かんできた。

 結局あのときはどんな話なのかもわからないまま投げ捨ててしまったので、レフに返しに行く前に、今度こそちゃんと読んでみようと思った。恐ろしさもあったけれど、それ以上に、読まなくてはいけないという謎の強迫観念が働いていた。

 どうやら大人に向けた絵本らしく、絵だけでなく文字もかなり多い。ほとんど小説と言っても差し支えないほどだ。最初のページを開くと、可愛いペンギンと一人の少年が描かれていた。物語は序盤、その二人の日常を描いていく。淡くカラフルな色使いで明るい日々を描く中、中盤に差し掛かったところで鉛筆で描かれたモノトーン中心の暗い絵柄に変わり、ついに二人に「別れ」の日が訪れる。そこからの物語はまさに僕を惹きつけて離さないものだった。


 主人公の少年はずっと一緒に暮らしてきたペンギンと別れることを拒み、二人で逃げることを決意する。密かに旅支度を済ませ、真夜中に家を出た少年は、彼が何かしでかすと警戒していた父に捕まってしまう。

 父の手によって半ば軟禁状態となった彼は、なす術もなくその日を迎える。大粒の涙をこぼしながら、妖精局員に連れられ遠ざかっていくペンギンを見つめる。しかし、彼はこのときまだ諦めてはいなかった。両親の目を盗んで家を飛び出し、どこかへと連れて行かれるペンギンの後ろを追いかけていった。

 町の端まで追いかけた彼だったが、ペンギンは馬車に乗せられ街の外へと走り去ってしまった。全力で走ってもその影は小さくなる一方で、ついにはその行く先を突き止めることはできなかった。

 しかしそれでも諦めることができず、彼は今まで蔑ろにしてきた勉学に励み、十八歳にして妖精局員の試験に合格した。エリート街道に足を踏み入れた息子を両親は大いに祝福し、自らの誇りであるように振舞った。彼がもう一度ペンギンに会うために妖精局に入ったとは、微塵も考えていなかった。

 職場では怪しまれぬように真面目な働きを見せた。それによって彼はすぐに信頼を獲得し、その場所に馴染んでいった。

 そうして三年が経ち、彼はようやく動き始める。まずは情報を集めるため、知り合いの局員たちにそれとなく聞いて回った。

 妖精局員と言っても基本はペンギンの回収と事務作業ばかりで、そのペンギンの行方を知る者はいなかった。実際にペンギンをどこかへ連れていくのか、局の上層部に位置する人間であり、その詳細は何故か厳重に隠されていた。

 情報収集を進めていくうちに、彼はペンギンを連れて局の施設に運んだことがあるという人物と出会うことに成功する。普段は商人として馬車で隣町まで品物を運んでいるのだが、あるとき突然妖精局から依頼を受けて、ペンギンを運搬する仕事をしたのだった。

 彼は職場に長期の休暇を申請し、仕入れた情報を元にペンギンが運ばれていった場所へと向かった。そこは妖精局の施設らしかったが、雰囲気が暗く、人気もあまりない。そして周囲を高い塀と有刺鉄線が囲んでいて、簡単には入れないようになっていた。

 奇跡的に鉄線に綻びを見つけ、彼は手を手足を血だらけにしながら、何とか施設内に入ることに成功する。誰かに見つからないように忍び足で中を見分していくうちに、徐々にここが何の施設なのかということが明らかになる。

 そこは軍事訓練施設だった。あちこちに武器が置かれ、中にいる人はみな兵士の恰好をしている。そして驚くべきは、その訓練を受けているほとんどが、人間ではなくペンギンであることだった。

 一旦その場を後にし、彼は近くに住む人たちに話を聞いて回ることにした。とは言っても、その周辺は荒れ果てた草原が広がる何もない土地で、たまに見かける建物も、ほとんどが倒壊寸前の廃屋だった。

 そんな中、一軒のぼろ小屋で一人の老人と出会う。老人は以前兵士として働いていた人物で、内部の事情に詳しかった。

 老人によれば、長年続く隣国との戦争で、人的被害を最小限に抑えるために、ペンギンを兵士として投入するようになったのだと言う。「別れ」の風習はその兵士育成を国民にさせるための口実であり、妖精局とは名ばかりで、端的に言えば国の軍部であった。

 さらに、今の政府は領土拡大を目論んでおり、北の国へ遠征を図ろうとしていること。それにあたって北の地方を中心として、大規模な『招待状』の送付が行われていること。そして、あの施設にいるペンギンたちは、おそらくこれからその遠征に加わるだろうということを聞かされる。

 その後も施設内を探すが、流石に警戒が厳しく、捜索は難航した。結果、彼が再会を果たすことはなく、タイムリミットが訪れた。しかし、実際に戦地に行けば、と考えた彼は、再び妖精局の仕事に戻って鳴りを潜め、北の遠征が始まるのを待った。

 そしてそこから数年が経ち、北の遠征が始まるという情報を聞きつけた彼は、再び休暇を取って北の国境に向かった。彼はそこで地獄絵図としか形容しようのない恐ろしい光景を目の当たりにする。


 次のページをめくると、あの日見た凄惨な一枚絵が飛び込んできた。この絵は北の国との戦争を描いたものだった。

 その後、無事に戦地で再会を果たした主人公だったが、残念ながらペンギンはすでに動かぬ物体と化していた。世の理不尽と目の前で起こる無意味な戦争、その二つを揺り動かす身勝手な人間に憤りを覚え、すべてを恨みながら物語が終わる。

 どうやらこの絵本は作者の実話を元にして描かれたものようだった。物語には彼の怒りや悲しみが詰め込まれ、僕たちに見えていない現実を伝えようという強い意志が見て取れた。

 僕はもう一度、北の戦地を描いたページを見つめる。

 そこにいる人物たちは誰もが無表情で、無感情で、無機的だった。それは彼らと対峙するペンギンも同じで、すべてを受け入れた虚無的な目をしている。

 しかし絵を全体で見ると、そこには皮肉にも生の躍動が宿っていて、まさに自分の目の前にこの光景が広がっているような錯覚を受ける。むせ返る血の香り。武器同士がぶつかり弾ける音。肌に貼り付く土埃。澱んで沈み、荒み切った真っ黒い空気。僕を糾弾するように取り囲んで、亡者のように鈍い悲鳴を上げる。

 眩暈に襲われて吐き気を堪えながら、心を落ち着けるために深く息を吸う。どう整理をつければいいかわからなかった。情報量が多すぎて、思考すらままならない。

 とにかく僕が考えたのは、ニルスのことだった。彼にこの絵本のことを伝えなくてはいけない。きっと彼は悲しむか、あるいは怒り狂うかもしれない。けれどそれは無知よりも幾分いい。いずれは知ることになるから、僕がこの役目を担おう。

 僕はゆっくりと絵本を閉じ、机の奥にしまった。レフには申し訳ないが、もう少しだけ持っていることにしよう。次に会ったときに事情を話して、ちゃんとお金を払って買わせてもらえば、きっと彼も許してくれる。

 何もなくなってすっきりした部屋の真ん中に立ち、僕は大きく伸びをした。思わず涙がこぼれそうになって、慌てて目を擦って誤魔化す。まだきちんと泣けるほど、自分の心を整理できていなかった。だから、涙はまだ取っておこう。

 床に落ちた羽を拾って、ポケットに入れる。そして僕はニルスに会いに行くために、嫌に明るい春空の下を一歩ずつ踏みしめて歩き出した。

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