山道を下りきり、森を直進し狩幡かるばんを目指した。大陸中央や南方では見かけない魍魎が偶に現れる。ランジューの魍魎はランジュー以南に比べて全体的に体が大きいようだ。また、虫や爬はあまり見かけず獣が多い。偶に見かける鬼は毛深かった。


狩幡に到着したのは5日後の事だった。


昼過ぎに森を出て一刻程で街の入り口にたどり着いた。

街は漆喰に拳程の石を混ぜ込んだ頑強そうな壁だ。

太い丸太を地に打ち込み、漆喰で覆い固めている様だ。

街の入り口の門扉は丸太を組んだ木製だ。

鉄だと潮風で錆びてしまうのだろう。


門前には2人の衛兵が立っていた。

衛兵に薬師であること、街での目的を告げ、薬師組合の割符を見せると門を潜り足を踏み入れた。


街は門同様漆喰の壁にややくすんだ朱色の煉瓦の屋根の街で、建物が整然と並んでいた。街の街路も同じ煉瓦で舗装されている。

シンカは途中見かけた街の薬屋で幾つかの薬剤や薬を売り、たんまりと金を得ると街の中央に程近いそこそこの格の宿を取った。幾つか生地が痛んだ衣服を修繕屋に出し、後は特にすることも無くなったので早速酒場に繰り出した。


先日ユタに出された酒が非常に好みだった為それを注文し飲み始めた。

結局2刻程飲み続け、店を出た時はとっくに日が沈んでいた。

ほろ酔い気分で宿に戻るとその日はぐっすり寝てしまった。


翌日起きた頃には既に夕刻になっていた。旅の間は常に気を張り、睡眠もろくに取らない。

空腹で腹がなったので軽装で宿を出ると港の方へ向かってみることにした。

海岸線沿いに波止場を設け、大小様々な帆船が係留されている。

波止場近くには水揚げされた魚を売り捌いたり、船で運ばれて来た貿易品やらを売る賑やかな出店が海に顔を向けてズラリと並んでいる。

街中でも感じていた独特な香り、潮の匂いがより強く香る。

その風景をぼんやり歩きながら記憶に留めた。


大人達が賑やかに行き交う中、8つ程の子供3人が笑いながら駆けてくる。

その内の1人がシンカにぶつかる。


「ごめんなさーいっ」


愛想よく謝り走り去ろうとした子供の肩を叩き、振り返らせる。


「ほら、服が乱れてるぞ」


男の子の服はボロボロで臭いも強い。

襟を直す際にすられた巾着を擦り返した。

どこの国、どこの町でも貧しい者はいる。

当然孤児も存在するが、彼らに金を擦られてやる程お人好しでもない。

この街は賑やかで大きいが貧富の差も当然存在している。

手の届く範囲で治療してやる事は出来るが、街に入る度に施していては限がない。

複雑な想いを抱きながらも夕陽に彩られた海岸線沿いを歩いた。


街について3日目は朝目覚めた。

宿を出ると店で売られていた緋麦ひむぎ焼きと呼ばれる緋麦を粉末状に擦り、それを練って焼いた食べ物を片手に海岸線の東側へ向かった。


途中の波止場で立ち止まり、昨日は鳴いていなかった海鳥の声に耳を澄ませた。

船が一槽近付いてくる。なかなかの大きさだ。

野太い音の笛を吹き鳴らし近付いてくる途中、突如船近くの水面が盛り上がり、巨大な魍魎が頭を出した。

でかい。今までに見たこともない大きさの魍魎だ。


背は濃紺、腹は象牙色の巨大な魍魎が水面から飛び出し、横っ腹から水面に落ちて行った。

大きさは7丈はある。

慌てて周囲を見渡したシンカだったが、悲鳴を上げて人々が逃げ惑うようなことが無い。


「あれは大丈夫なのか?」


近くにいた船乗りに声を掛ける。


「あぁ、お前旅人か。あいつは氷割大鯨ひわりおおくじらっつって人懐こい魍魎だぁ。詩戯しぎって名前が付いている。あいつがこの辺にいる時は赤牙鯱せきがしゃちが来ないんで好かれてんのよ。ま、図体デケェから5年くらい前に小舟がひっくり返って2人死んだがな」


「鯨……あれが。聞いたことがある。あれは魚の魍魎ではなく獣なのだろう?」


「獣?海に住んでんのにか?馬鹿言うなよ!」


「なんでも、息をしないと生きていけないそうだ」


「んだら鯱も獣か?」


「いや、鯱と言うのは初めて聞いた」


船乗りの男と別れ、東の浜に向かった。

家屋がまばらになったあたりで波が激しく打ち寄せる砂浜に辿り着いた。


浜は砂に足を取られて歩きづらかった。

大きな波の音と海鳥の声を背景に1刻程歩いた。

この辺りは魚の魍魎のさめという種が稀に近くまで寄って来る他、禍鳥まがどり、他には鳥の岩鳶いわとび鬼鴎おにかもめなどの大型種が現れるらしい。


浜沿いを進むと再び岩が増え始める。いつの間にか迫り出した崖が近付いていた。あの崖だけ回り込んで見たいと言う欲望に抗えず、危険を承知で更に進んでみることにした。


回り込むと5間離れた大きな岩に赤い眼の大きな猛禽が数羽止まっていた。

赤目黄觜鳶あかめきはしとんびだ。

素早く蜻蛉の翅の鞘を払った。

しかし鳥達はちらりとシンカを一瞥しただけで襲って来ない。


不審に想いを様子を伺うと色黒の肌の腕が岩陰に落ちていた。

死体だろう。

鳶達は死体を食い漁るのだろう。シンカに害はなさそうだが街近くの魍魎を退治してやるのも悪く無いし、赤目黄觜鳶の眼球は視力の衰えに効果のある薬剤だ。嘴も高く売れる。加えて死体とは言え魍魎に漁らせるのも哀れだ。


シンカは丹田に力を込める。

ここは海。左手には膨大な量の水がありたやすく水行を行使出来る。

波立つ水面から飛沫が飛び散り礫となって3羽の鳶に向かう。

慌てて飛び立つ鳶だったが膨大な量の礫に羽や体を為すすべなく射抜かれ敢え無く地に落ちた。

翅を鞘に収めて近付き岩陰を覗き込んだ。

打ち上げられていたのは褐色の肌に白い長髪の女だった。


「ほう、珍しいな」


思わず言葉が口を突いて出た。

白い髪に褐色の肌。間違いない。聖霊の民。それもエンディラの民だろう。エンディラの民は人間が言う樹妖人と祖を同じにするが、大陸東方の最も険しい山岳地帯を生活の場に選んでおり、その肌は照り付ける日差しに適応し浅黒くなり、頭髪は熱を吸い込まぬ様に白く変化したと伝わっている。


粗末な貫頭衣を身に纏っているが、その背には大きな裂傷が刻まれており、今も尚血が流れ出ている。

刃物による切傷。それも深い。魍魎の仕業では無い。骨は避けているが多くの血を失っておりが肌が冷たい。海水で冷えた事もあるだろうが危険な状態だ。だが生きている。これも縁だ。


衣類の裾を裂くと体をキツく縛り止血を試みる。腰の皮袋からグレンデル公爵令嬢やカヤテにも使った外傷用の塗り薬を取り出し、傷口に丁寧に塗り込む。

後は体を温めなければならない。しかし身体を引き摺って一刻も歩く事はできない。


仕方がないと、波が届かないであろう、カサカサの草地まで身体を運び、乾燥した流木に火を付け、濡れた衣類を脱がせた。


乳がかなり大きい。今まで見た女の中で一番かもしれない。橙柑程の大きさはあろうか。シンカの握り拳よりふた回りは大きい。


身体に砂をかけて水滴を除くと羽織っていた薄手の外套を体にかけてやった。

此処までやっても生きられる確率は五分だ。

焚き火に流木をべながら様子を窺う。

2刻経って身体を縛り付けなくとも流血は無くなり、また2刻経って徐々に傷が塞がり始める。


だがその頃には夜の帳が下り始めていた。

大分呼吸も落ち着いた女だったが、此れからは別の問題がある。


火を目指して魍魎が押し寄せるだろう。

一晩中魍魎を払い続けるのは難儀だ。面倒で億劫だが、此処までして捨て置くのもあり得ない。エンディラの民は本来白と茶の入り混じった長衣を身に纏う。だがこの女は似ても似つかないボロ布を纏っている。恐らく人攫いに捕まっていたのだろう。人身売買は大陸中で毛嫌いされている。戦争捕虜は殺されるか金銭で返還されても第三国に売買される事はあり得ないし、行えばその国は毛嫌いされ滅ぼされるだろう。


理由は宗教に由来する。万物には精霊が宿るとされ、大陸では物を大切に扱う傾向がある。森から恵まれる僅かな物資が尊ばれ信奉の対象になっているのだ。同様の理由で人の命も尊ばれる。それを物扱いする事は禁忌である。しかし、そうは思わぬ人間も存在すると言うことだ。それに先を急ぐ旅ではない。


また、矛盾しているのが聖霊の民の扱いだ。

人の力は聖霊の民に比べて総じて弱い。だからこそ人は魍魎に対してより嫌悪を抱く。そして人とは異なる外見であり、人より強い力を持つ聖霊の民を毛嫌いする。


それが差別の正体だ。鬼人や獣人と言った呼称は魍魎に近い人と言う蔑称なのだ。


エンディラは大陸中央のクサビナから馬で3年の距離にあるというが、馬で辿り着けるのは東のリュギルか北東のガルクルトまで。以東は道なき森を歩むことになり、普通の人間ではたどり着けない。海路を取るしかないと聞くが、詳細をシンカは知らなかった。

森渡りの民が狩られた前後にエンディラの民はその滑らかで美しい黒い肌や白く輝く頭髪、黒翡翠のように煌めく黒い瞳目当てに捕縛されたと言う。


この女も概ねその様な理由で捕まり、海路で運ばれる途中抵抗して斬られたのだと予想が付いた。


さて、日が沈んで四半刻も経たない内に海から鬼が2体這い上がってきた。青白い肌をした小型の鬼だ。昰魚鬼ぜぎょきと言う。足は無く魚のごとき尾鰭おひれを持ち、その尾鰭を巧みに左右にうねらせて素早く近寄ってくる。その動きは体や腕の細さに似つかわしく無い速さで焚き火に向けて突き進んでくる。


一般人や知識の無い戦士であればここで何らかの挙動にでるが、シンカは知っている。

この鬼の目は動く物以外を認識できない。


シンカはジッと動かず迫りくる鬼を見据える。

そして1体目が間合いに入った瞬間最小限の動作で首をねた。

潰れた様な奇声を上げ反応した残る1体もすかさず首を刎ねる。

この鬼は一般的な鬼と心臓の位置が異なり、また皮膚が固い上にぬめっており太刀筋がずれやすい。狙うのであれば首だ。


次の魍魎は1刻後に現れた。控えめな羽音と伴に現れたのは爬系の苔蛇蝙蝠こけへびこうもりだ。

苔色の鱗に覆われた体表に、蝙蝠の様な羽を持った1尺の蛇で毒は持たないが群れて人を襲う魍魎である。一般人でも追い払えるが急所を狙ってくるため油断すると目をやられてそのまま殺される事も有る。隠れても熱を追って来るため殺す必要がある。


10匹迫り出した崖上から飛来して来たのを確実に斬り殺して行く。


ここまでは順調だったが真夜中を過ぎた辺りで異変が起こった。崖の向こう側から黒い大きな影が素早い動きでにじり寄って来た。大きさはシンカの腰程にその倍の胴体。波打つ様に動く多数の足、長い触覚、段状の背殻。


背を脂汗が伝う。

三尺具足さんしゃくぐそくである。

三尺具足は海辺に生息する虫の類いだが非常に危険であると伝え聞いていた。

この虫は腐肉や海藻を主食にするが、小型の魍魎を襲う事もある。当然人も。そして兎に角膨大な数で群れる。

現れた黒い影の背後から次々と気色の悪い風体の虫が続く。


「糞………」


寝たきりの女を跨いで腰を落とす。行法を行使するしかない。

一番望ましいのは土行で周囲を囲む事だが、シンカは土行の行使を行えても砂系統には秀でていない。


土行は砂、土、岩に概ね系統が分かれるがシンカは土と岩を得意としている。因に火行は熱、炎、光に分けられるがどれも扱えず、風行は風、雷、空のうち雷のみ、水行は霧、氷、水のうち全てに秀でている。


シンカは砂から岩を作り出す事が出来ない。ならば。

丹田に力を込めて体の活力を別の物、経に変えて行く。疲労が急速に広がって行く。

大きく鳩尾みぞおちの前で手を組むと強烈な速度の一条の細い水流を口から吐き出した。細く研ぎすまされた水の流れは先頭を高速で這いずっていた具足を縦に割った。

真っ二つに割れた具足の真後ろに続く数匹も一吐きで体をかち割られ浜に転がった。後続の虫が死体に群がるが溢れた個体はシンカを目指した。

何体かは数刻前に斬り殺した鬼や爬に纏わり付くがそこからも溢れた個体はシンカに肉薄した。


「虫酸が走る」


翅を振り間合いに入った虫から頭部を竹割りにして行く。

その死体に群がろうとする個体を切り伏せるという循環が延々と繰り返させる。

30以上斬り殺した頃には周囲はすっかり囲まれてしまった。


全方位から迫り来る虫に対抗すべく正面の虫を斬り、背後に向けて風行の紫電しでんを放ち牽制を行いたかられるのを水際で防いでいた。積み重なる死骸とそれに纏わりつく虫、乗り越えようとする虫で周囲にシンカと女を囲む壁が出来、時間と共に高くなっていた。


判断を誤ったか。成し遂げなければならない重責が有るわけではないが、死にたくは無かった。女を見捨てればよかったのか。


何より強く思ったのは、愛情を育みあった女と添い遂げたいという感情だった。伴侶としたいと思える女はいたが、その女には振られた。今はその胸に帰りたいと思える者はいなかった。それでも心を預けるのに値する相手と添い遂げ、子を作り育て、その子が伴侶を見つけ幸せになる所を見たい。


死を前にして浮かび上がった唯一の欲望だった。

幸せとは何か。シンカは幸せをその様に定義したのだった。


まだ行法は使える。僅かな合間を見つけ、翅を砂地に突き刺すと両手をキツく握り合わせる。


「おおおおおおおおおおおおおおっ!」


濃密な霧が周囲に生じ、具足達の身体を湿らせていく。続きシンカの身体中を青白い稲妻が這い回る。


「……く、う……」


その稲妻が全方位に放出される。

物理的な衝撃を伴って放たれた青白色の雷光が三尺具足の壁を吹き飛ばす。

同時に身体に纏わりついていた水滴を通じ雷光が体内を焼き炭化させる。

多くの虫がシンカの風行 雷波紋らいはもんで動きを止める。

シンカの皮膚に火傷による斑紋が浮き出る。全身から力が抜けて膝をつきそうになるのを堪え、砂地に刺していた翅を抜いた。


後続で30程現れたが後は切れた。しかしそれでも30。


これ以上行を無理に行使すればカヤテの様に生きる為に最低限必要な活力すら使ってしまうだろう。あたりに散らばる同種を食い漁り始める後続の具足を、近付いてきた個体だけ斬り伏せていく。


5匹、10匹と続け朝日が昇る頃には全てを斬り殺していた。

周囲にはシンカが殺した三尺具足の遺骸が膨大な数散らばり、浜を異様な風景に変えていた。

300に届いているだろう。


「………っ」


しかし、これで終わりではない。

この女を街まで運ばなければ。

屈んで女の様子を伺うとどうやら意識が戻っていたようで、顔の右側を地につけつつも目を開き、焦点の合わない視線を何処かに投げていた。


「気がついたか。此れからはお前を街まで運ぶ。酷い怪我を負っていたがもう大丈夫だ。………聞こえてるか?」


返事はない。

多くの血を失い視界や意識がはっきりしていないのだろう。

薬の副作用も残っている筈だ。

傷は無事に塞がり、周囲の肌との色の違いは残るものの、痛む事はないだろう。

身体を仰向けにひっくり返すと日の出が近付き白み始めた空の下で瞼を大きく開き瞳孔を確認する。


打光石だこうせきを視界に入れると瞳が収縮した。


黒目がちの黒翡翠色の瞳がキラキラと美しく輝いている。


女の容姿は控え目に言っても非常に美しかった。

絹糸のように美しい白髪の下には同じく白い緩く弧を描いた眉、猫の目の様に形の整った大きな目には白く長い睫毛が生え揃っている。

鼻はスラリと通り、唇は熟れた桃の様に発色している。肉厚だが小ぶりな唇だ。


ここの所美しい女と出会う機会が多い。尤もその数倍は鬼にも似た醜男共と出会っているのだが。


「大事な事だからよく聞け。此れからお前を虐げていた人間の街に向かう。だが、お前は不幸にはならない。俺が守ってやる。分かるか?」


返事を待つが女は反応しなかった。

人間が憎いのだろう。

切り傷の治療と併せて薬を塗ってやったが、身体中に痣が見受けられた。


「兎に角害意はない。背負って宿まで運んでやるから抵抗してくれるなよ?」


そう言い女を背負った。火傷の斑紋が擦れて痛む。身体も限界が近いが辛抱だ。このままでは大量の虫の死肉を求めて魍魎がやってくる。

最近、危険な出来事によく出会う。女難の相でも出たかと考えた。

浜よりは歩き易いまばらに下草の生えた場所を選び、ひたすら街まで歩いて行った。


数時間の後街に戻ると宿へ向かい、部屋を一部屋追加した。宿の受付にはきちんと事情を話し看護する為、湯や布の用意を頼んだ。

寝台に寝かせた女を湯に浸けた布で拭い、造血薬を飲ませる。

今日は熱が出るだろう。放置すれば障害が残る事もある。


店の者に駄賃と共に金を渡し、酒を買い求めさせる。

昼を過ぎた頃女が発熱し、汗をかき始めた。丁寧に汗を拭き冷水を染み込ませた布を絞り額に置く。

麦蒸留酒を煽りながらそれを繰り返した。


夕刻ごろ女が一度目を覚ました。


「………」


感情の宿らない目でシンカをみつめる。


「明日には歩けるようになる。薬の副作用で頭痛と発熱があるが朝には引く。喉が渇いただろう?」


水に塩と砂糖を溶かし込んだ飲み物を与えると、おずおずと手を伸ばして滑らかな黒い喉を鳴らして飲み干した。


「………」


飲み終わると容器を回収するが、じっと目を見られている。

伝えたい事でも有るのだろうか。


「……薬………」


女にしては低いが耳に心地良い声音だ。


「薬が如何した。毒など混ぜる意味もない。殺したいなら助けなければ良いのだからな」


「………払え、ません」

「ああ。金の話か。今回の事を金に換算すれば確かに高く付く。普通ならな。だがお前が払えるとは思っていない。金はいらん」


女は無表情で何を考えているかわからない。


「人に、施しは、受けません」


「薬だけならいいがな。お前はこの後どうするつもりなのだ?エンディラの里まで一体どうやって帰る?此処は中央最北の国ランジューだぞ?」


「………」


女は思い悩んでいた様だがそのうち寝込んでしまった。


夜になり何度か熱が引いたり出たりを繰り返したが、真夜中過ぎにとうとう寝息が落ち着き、熱も完全に下がった。


一息付き、椅子に腰掛けたまま目を閉じた。

漸く自身に薬を塗り込めて目を瞑った。


「疲れた。………本当に」


頭部には鈍痛が走り、目は乾燥して起きているのも辛い。

目を閉じると直ぐに眠り込んでしまった。


目が覚めたのは物音に気付いた為だった。

日は高く登っている。正午近いだろう。

物音の原因は看病していた女が目覚め、起きようと身動きした為だった。


「イーヴァルンの民より物音に敏感ですね」


頭痛を抑えようと眉間を揉み込む。まだ睡眠時間が足りない。


「腹が減っているだろ。食いに行くか?」


「………ですが」


「俺は金に困っていない。それに患者の経過を確認するのも俺の仕事だ。だが肉は喰わせんぞ。病み上がりの内臓には悪い」


女には宿屋の配膳女に金を掴ませて身体に見合った衣服を用意させていた。


僅かばかり躊躇いがあったが服を受け取った為、部屋を出て宿の廊下で待った。


出てきた女は狩幡の町娘がよく着ている色彩の民族衣装を纏っていた。白地のぼたんで前を合わせる襟付きの服に茶の袖と襟が無い上着にくるぶし丈の同じ茶素材の裾が広がった筒状の履物だ。


胸と尻の大きさ、腰の細さがうまく隠れ、人目を引きにくくなるだろう。また手首まで袖があり肌があまり露出せず、これもまた都合がいい。

後は髪留めで髪を項上で結ってやり、耳まで覆うふかふかの毛皮帽子を被せてやった。


髪が露出していないので大陸南方人と中央以北の人間との合いの子と区別はつかないだろう。


申し訳無さそうに頭を下げる彼女の肩を小突き先に進むが、肩に触れた瞬間たじろいだ様子が見られた。人か、男かは分からないが触れられたく無いのだろう。

街に出ると女は周囲に視線を飛ばし始めた。

エンディラは高山に設けられた里だ。民の数も多くは無い。

人の多さ、人工物の多さに気を取られているのだろう。

やはり恐ろしいのか、シンカの服の裾を摘み静々と後を尾いて来た。


表情には相変わらず温度が無いのだが、行動には現れてしまっている。


可愛いな、と仕草を見て思った。


態度と行動の温度差にそそられるものはあるが、彼女は聖霊の民だ。

人を好くことは無いだろう。

シンカ自身危険のある物件にわざわざ手を出す程冒険心もない。


会話も無く少し格の高い店に入り自分用に魚料理を、女用に豆の汁物を頼んだ。


「さて、恐らくこれから暫くの付き合いになるだろうから自己紹介をしよう。俺は薬師のシンカだ」


「助けて頂いたことを感謝します。私はエンディラのナウラと申します」


「民の言葉で微風と言う意味だったか?」


「惜しいです。それはナシーム。ナウラは花です」


「失礼した。そうだった」


「聖霊の民に詳しいのですね。赴いた事が?」


「親しくなったものが何人かいるだけだ。エンディラの民ならミンダナのトトス・バティは知っているか?」


「存じております。……貴方は聖霊の民の特徴がありませんが、一体どうして……」


何故助けたのか。それを知りたいのだろう。知る事がなければ信用されることもないだろう。信用され無くとも問題は無いのだが、これからナウラの世話をする必要が出てくるだろう。


きちんと話をしておく必要がある。

出された水を一口含むと口を開いた。


「まず俺は聖霊の民でも無いし、その血を引いているわけでも無い。エンディラの民に恩がある訳でも無い。それどころか聖霊の民にすら恩を感じたことはない。だがお前達の生活様式は人間よりも俺には馴染み深いし、清貧を旨とする気風は好ましく思っている。そういう意味で、どちらかと言えばお前達全般に好意を抱いている事は確かだ。うん。はっきり言って昨夜あんな目に遭うとも思って無かったと言うのが正直なところだ。俺は普通の人間に比べれば生活にこだわりも無い。ある程度余裕がある。そんな時に誰かが倒れていた。助けられるなら助ける。余裕があるからな。しかも男ではなく女であり、人間ではなく聖霊の民だった。人間の男を助けるよりも若干親身になれた。そして折角助けたのだから放置してむざむざ死なせたくなかった。だから一晩砂浜で治療を進めつつ魍魎を退けようと思った。そこに大量の虫が現れてしまった」


「あの時の事は覚えています。………あんな……」


「あれはな。逃げても奴等には囲まれる。ならあそこで二人共助かる様努力しようと思った。一つでも釦を掛け違えていれば俺たちは今頃バラバラで虫の腹の中だ。そこから後は流れだ」


「なかなか出来ることではありません。感謝しています」


「ここで終われば話も早いがこれから先のことを考えなければならん。………でもその前にお前の、ナウラの事を聴かせてくれ」


料理はまだ来ない。聴く時間は十分にある。人間に対して好意的な感情をもたない聖霊の民だが、流石に恩人であるシンカに対し話を渋るそぶりは見せなかった。

ナウラは低く静かな声音で語り始めた。


ナウラはシンカの見立て通りエンディラの出身だった。

年の頃は17との事。

里のある高地をあまり出ることはないエンディラの民ではあるが、ナウラは幼少時から好奇心が強く、父と母が病で他界したのを機に里を出る事にした。そして数ヶ月後に北部の海岸沿いで人間に捕縛され船に乗せられたという。その後隙を見て逃げ出そうとした際に見つかり、暴行を受けながらも何とか海に飛び込もうとしたが背中を切られてしまったということだった。


「海に飛び込むとは……海は森より恐ろしいぞ」


「そうなのですか?」


「よく無事でいたものだ」


「お陰様でございます」


ナウラの話を聴き終わった頃に食事が運ばれて来た。

良い香りが漂っている。


「いいか、具材がドロドロになるまでよく噛んで飲むこと。ナウラの胃袋は今弱っている。消化しにくい物を食べて負荷を掛けるべきではない。明日になれば魚を食べてもいいから今日は我慢しろ」


「わかりました」


素直にうなづくと食事を開始した。

食事中は会話もなく食器が触れ合う音だけが食卓に響く。

自然と周囲の会話が耳に入る。


「最近中央がきな臭いですな。武器防具が飛ぶように売れています」


「マニトゥー、ロボクの同盟軍が非難声明と共に宣戦布告ですか。ま、クサビナ王国は大陸最大の国家ですからな。高々2国の同盟では落とせませんでしょうな」


「いやいや!それがクサビナは何を考えているのか青鈴軍しか動かない様なのです」


「なんと!では王都は?」


「王都は王国直属の赤鋼軍が動くでしょう。西部はファブニル公爵の黄迫軍が守る。しかし立地的に攻められるのは東部のはず。青鈴軍とその他諸侯軍だけで食い止めるにはちと荷が重い」


「みすみす国土を削り取られる真似をするとは国王は何を考えているのやら。ま、我々は武具を流し込んで点いた火がなるべく保たれるよう努力するだけですな。情報の提供感謝致しますぞ」


「何。以前監査の情報を教えて頂いたお礼ですよ」


武器商人らしい二人の男の不穏な会話が耳に入る。

カヤテと公爵令嬢の暗殺事件の影響か。苦しい立場に立たされているのだろう。ま、尤もシンカにどうこう出来る話ではない。


食事を終えると食後の温かい茶が出される。

一口啜り、柔らかい背もたれに体を預けるとナウラの顔を見る。


「それで?これからどうするつもりでいるんだ?」


問われたナウラは直ぐには口を開かず俯いていた。


「……この街で働いてお金を貯めます。その後は、やはり大陸を巡ってみたいと思います」


「聖霊の民がこの街で金を稼ぐならどうすれば良いか分かっているか?」


「土と火の聖霊様の御力を預からせて頂いております」


「一昨日の夜の俺を見たか?お前らが幾ら行法に秀でていても森は開かれない。それはお前らが一番わかっているはずのことだろう?武器は使えるのか?」


「………」


あまり得意ではないようだ。


「例えギリギリまで行法を使ったとしても、多くの魍魎を狩れるものではない。それに、言い方は悪いが聖霊の民は人間から蔑まれている。買い叩かれるのが落ちだ。怒らないで聞いてほしいが、この街でお前が上手くやっていこうとするのであれば身体を売るしか無いだろう」


「………そう、ですね。………分かってはいました」


身体を売ったとしても買い叩かれ、落ちるところまで堕ちて行くだろう。

これ程美しい女が似つかわしく無い薄汚い人間の手で汚されていく事実は見過ごせない。


「提案がある」


そう口に出したシンカに対しナウラは警戒したようだった。


「俺の弟子になれ。俺の知識を全てお前に伝える。お前ら聖霊の民は人よりも長く生きる。俺から受け継いだ知識を1人だけでもいいから次世代に残せ。約束して貰えるなら俺の大陸を巡る旅に連れて行ってやる。簡単な事じゃないのは分かるな?」


「薬師としての知識でしょうか?私にとっては魅力的に聞こえますが」


「辛いと思うこともあるだろう。だが逃げる事は許さないぞ?」


「考えるまでもありません。世の中の様々な物を見せて頂き、知識まで与えてくださる。私にとっては申し訳なくなるくらい好条件です………ですが、何故?」


その質問には答えなかった。


こうしてシンカは弟子を得た。




ナウラが弟子となってから数日。完全な復調を確認すると旅を始めた。狩幡である程度の旅装束は購入したが、森渡りの装備としては不十分極まりない。


魍魎を狩って装備を作り込む必要があった。


弟子としてのナウラは優秀であった。復調までの数日は座学に費やしたが、嫌うことなく覚える努力をしていたし、実際覚えも良かった。


ナウラに武器の扱いも教え込まなければならない。特別器用ではないがナウラは足が速く、力が強かった。武器の扱いは兎も角身体能力で困ることは無いだろう。

街を出ると注意して森の浅層を歩き、実地で知識を教え込んだ。


もともと聖霊の民としての知識も持っており、特に植物の知識は豊富だった。しかし魍魎の知識はあまり無い。


森渡りという民については直ぐに話した。


10日も掛けて南の山脈に辿り着く。ナウラは周囲の景色を楽しみ、魍魎から隠れて緊張し、軽食の合間の座学に耳を澄ませた。


正直に言えばシンカはこの旅を楽しんでいた。

一人で森を渡るのは僅かな緊張と共にある日常だったが、しかし自身の事を語らず親しい付き合いをせずに生きるのはまだ若いシンカにとってはある種の閉塞感を抱くには十分過ぎる生活だったのだ。


決して不満がある訳ではない。だがじわじわと孤独が心を蝕んでいたのは確かだ。


来るときにも抜けた洞窟を通り、2人はロボク側に出た。

更に南下し街道に出る。


「………見ろ。街道が踏み荒らされている。馬の蹄鉄ていてつと、深い足跡。鎧を着込んでいる。こう言う違和感を見落とすなよ」


「はい先生」


返事をし、指摘した足跡を指でなぞるナウラ。

彼女はシンカのことを先生と呼ぶ。余り好ましくは思っていないのだが、選択肢がシンカ様か先生か師匠しか存在しなかったのでやむを得ない。


「ナウラと初めて飯を食った所でクサビナとロボク、マニトゥー連合の対立について商人が話していたのを覚えているか?」


「……申し訳ありません」


「歩く時、飯を食う時、酒を飲む時。どんな時でも周りに意識を向けろ。街の中で。人間の世界で生き残る為の術の一つだ」


「はい。肝に命じます」


「うん。まあ怒ってる訳じゃないからな。足跡を見てみろ。ふらふらと真っ直ぐ歩いていないものが多い。これは充分な訓練がされていない雑兵だからだ。ロボクは兎に角兵を掻き集めて数を増やすつもりだ」


「はい。……それは、悪いことなのでしょうか?」


「質が悪ければ同数での戦においては不利となる。しかし数の暴力ともいう。クサビナと比べればロボクは人口が少ない。兵も精強とは言えない。農民から徴兵し数を稼ごうとしているのだろう」


「ロボクに勝ち目はあるのでしょうか?」


「恐らくクサビナ王国は内部で分裂しているものと考えられる。話では今回ロボク、マニトゥー連合に対するのはグレンデル公爵家の私兵と近隣領主の混成軍だ。王国の盾、赤鋼軍が出ないのはおかしい。グレンデルが破れるようクサビナ内部とロボク、マニトゥー間で密約が交わされているのかもしれない。今回の戦で東部貴族の領地が削られ、その責をグレンデル公が負う。ロボク、マニトゥーは東部の1地域を手に入れ、グレンデル公を邪険に思う誰かは彼を失脚させる事が出来るという筋書きだろう」


「同じ国の人間が同じ国の人間をおとしめると言うのですか?」


ナウラは無表情で首を傾げた。

その疑問は最もだろう。

聖霊の民は民同士で争わない。ましてや同じ里の者で争う事は無いと聞く。


「ナウラ。それが人間だ。お前がこれから知らなければならない相手だ」


街道を避けて森を通り、更に南下する。目的地はグレンデーラだ。

やがてロボクとクサビナの国境が近付く。


「わかるか?森が騒がしい」


ざわざわと、姿は見えずとも森の魍魎達の声、肉の軋みが其処彼処から聴こえてきて、森を騒々しく彩っている。


「魍魎の気配が……これは、怯えている?小型の魍魎では太刀打ち出来ない何かが起こっているのでしょうか」


「正解だ」


木々の間を抜け、森が開ける。開けた先は大きな平地となっていたが、そこは二つの軍がぶつかり合う戦場であった。


凄まじい数だ。これほどの規模の戦闘は見たことがない。これは国と国との戦争だ。


散発的に矢と行法が飛び交い、兵達の雄叫びと剣戟けんげきの音で耳鳴りがする。大地は踏み荒らされて緑の下草が倒れ、黒い下土が所々飛び散っている。


シンカ達の手前、北に陣取るのは鈍色にびいろに所々黒い布で装飾が施された甲冑。旗印は白地に剣で串刺しにした爬だ。ロボク王国の兵装である。しかしその正規軍は前面には出ず、逆に最前線で遮二無二剣を振るうのは統一感の無い寄せ集めの兵だ。兵数は合わせて4万程度だろう。


対するは銀に輝く鋼に青い布の装飾。旗印は赤地に鬼の首。

クサビナ王国の兵数は2万程度。常であれば倍の数相手に勝つ事は出来ない。

戦いは数とも言う。しかし、良く防いでいる。

青鈴軍の前線で縦横無尽に動き回り敵を切り倒し火球を撒き散らす小柄な兵士の姿がある。カヤテだろう。


「これは………これは何ですか?こんなに大勢で、こ、殺しあっているのですか!?」


ナウラは戦争を知らないのだ。言葉では知っていても。人の醜さを知っていても。人間がここまで醜悪になれると言う事実は実際の戦争を見なければ理解できないだろう。ここで青鈴軍が破れればクサビナは侵略され、土地の人々は酷い目に遭うだろう。財どころか食料まで奪われ女は犯される。


「世の中に醜い物は沢山ある。だが戦争はその中でも最も醜く、凄惨せいさんだ。見ろ。死んで行く兵士を。彼らには父が居て母が居て、兄弟が居る。嫁や子供も居るかもしれない。彼らは只、平穏に暮らしていた。隣国の土地なんぞを求めてはいない。それを権力を持つ人間が欲の為に煽動し、こうして戦わせる。あそこで死んで行く誰一人として人殺しなんて望んではいない。そしてそんな特徴の無い普通の人達がここで鬼となる。平気で人を殺し、略奪し、女を犯す鬼畜となる」


「先生……私は怖いです。私もあの様な、鬼になってしまうのですか?」


「ナウラ。俺にもそれは分からない。只、自分の中にしっかりとした基準を設けるといい。そして俺は、この戦を黙って見ているつもりは無い」


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