4話 女神の夢

 咲織の姫は、黒々とした髪を木の床に広げて、横たわっていた。薄物だけを纏って、体の上に領布ひれをかけただけの姿で。無防備で、無残な姿だった。


 篝野は咲織の姫のそばに駆け寄り、持ってきていた織布を木の床に敷いた。

 咲織の姫を抱き上げ、そこに横たえてから、領巾を丁寧にかけ直す。


「なんという、おいたわしい姿だ」

 直杜が、愕然としたようにつぶやいた。どういうことが起きたか聞いていたとしても、実際に見た衝撃はちがったのだろう。


「生きているのか」

 社の中は狭い。中には入らず、皆の後ろに立っていた拓深が篝野に問いかけた。

 篝野は拓深を振り返って睨みつけ、応えなかった。


 都波は咲織の姫のそばに寄って、篝野の隣に膝をつく。横たわる少女の顔を覗き込んだ。

 白いかんばせ。ほんのりと色づく頬。あかい唇。黒々と艶を帯びた髪の、美しい少女だった。

 生気に満ちている。


 都波はそっと、咲織の姫の手を取る。あたたかい。

「大丈夫、生きてる。眠っているだけだよ」

 領布の下の胸も、かすかに上下している。


「どうか、目を覚まして」

 都波は、咲織の姫の手を両手で握り締めた。

「わたし、珠纒の桜を見に来た。あなたに会いに来たの」

 みんなあなたを待っている。こんなにもあなたの事を心配している。あなたの神垣が、何かに巻き込まれようとしている。


「わたし、あなたと話してみたい」

 都波の呼びかけに応えるように、姫の睫毛が、少し震えた。



 気がつくと都波は、薄曇りの空の下にいた。

 雪の山に分け入る娘たちの後ろをついて歩く。知らない場所だ。娘たちは手に籠を持って、寒さなど感じさせないくらいはしゃいでいる。


 ――若菜摘みだ。

 抱えた籠を見ながら思った。自分の手足のはずなのに、なんだか別の人のものみたいに遠い。


 若菜摘みは、神垣で毎年行う行事だった。社の巫女たちが先頭に立って、集落の人々と一緒に、雪の下に萌え出た若菜を摘みに出かける。

 それはこの日のために、特別に植えられた菜だった。宝を探すように。新しい年に、実りが豊かであることを願う、大事な行事だ。


 神事ではあったけれど、社の巫女たちはいずれ集落に帰る若い娘たちだから、巫女たちも集落の若い男たちも少し浮かれる祀りだった。

 若菜摘みで、生涯を添い遂げる相手を見つける者も多い。


 颯矢太たちは当然、神垣の行事には参加しないから、都波はいつもつまらなかったけれど。


うたいの姫にお越しいただけるなんて、今年もよい実りが期待できますわ」

 はしゃいでいる娘たちの中で、少し年かさの娘が都波を振り返り、嬉しそうに笑う。


 ――謡いの姫?

 都波は首を傾げた。

「責任重大だわ。がんばらないと」

 笑い含みに応える。


 口にしたつもりもない言葉に、都波は慌てた。それからようやく、遠い感覚なのがなぜなのか分かった。


 これは夢の中だ。

 娘たちと別れて、都波は一人で山野を歩く。薄曇りの空の下を流れる風は、冴えているけれど、清々しかった。


 ひとり身をかがめて足元の菜を探し、手に抱えた籠に入れていく。

 例え神垣でも、こんなにも若菜が採れることなんてないのに。実りの多さに驚きながら、都波は夢中になっていた。


 しばらく経った頃、背の高い野草をかきわけてくる足音に気がついて、動きを止めた。


 すらりと背の高い男がひとり、近づいてくる。

 さっきまで一緒にいた少女たちは、神垣の人間と同じ、黒い髪と瞳だった。

 でもこのひとは違う。青みかかった銀の長い髪を風に遊ばせている。


 都波は男に微笑みかける。

「まさか、いらしているとは思いませんでした」

 都波の言葉に、男は足を止めて笑った。


「あなたがいらしていると聞いたから、足を伸ばしてみた」

 静かだけど力強い声だった。深い青緑の瞳がまっすぐに見つめてくる。


 このひとは、里の人間じゃない。トリでもない。――それなら。


 池野辺の蛇神も、人とは違う色を持っていた。

 きっと、神々の一人だ。

 けれど目の前の男神は、池野辺の蛇神とは随分違う。雄々しく揺るぎなく、いたずらな笑みが誰かに似ている。


「若菜の季節は、花の祀りが近いことを思い出させて、落ち着かなくなるな。あなたが春を謡う日が楽しみだ」

 都波は、少し困った声で応えた。


「またそのような戯れを」

 けれど心の中で首をかしげる。


 男神の言う花の祀りとはなんだろう。さっきの娘は、都波を謡いの姫と呼んだけれど。思ってから気づいた。


 春を謡う姫。――花信風の女神のことだ。凍つる桜を咲かせて、春を告げていた女神のことだ。


 これは夢じゃない。記憶だ。人々にまぎれて神が歩いていた頃が、本当にあったのだ。

 花信風の女神には再会を約束した男神がいたと、神垣の娘たちが好きな恋物語だと、トリは言っていた。


 あの桜は待っている。女神が帰ってくるのを。

 そして女神は待っている。再び出会う日を。



「おい」

 強く肩を揺さぶられて、都波は目を瞬いた。拓深の金茶の瞳が都波を覗き込んでいる。


「急に動かなくなるから、お前までどうにかなったかと思ったぞ」

 安堵とあきれの混ざったような声で、拓深が言った。


「姫」

 篝野が息を飲む気配がする。

 咲織の姫の瞼がゆっくりと開いた。黒い眼があらわになる。


「ご気分は? どこかすぐれぬところはありませんか?」

 篝野が、そっと呼びかける。


 けれど咲織の姫の、夢見るようなおっとりとした瞳は、反応を見せない。まばたきすらもない。

 眠ってはいない。けれど、様子がおかしい。目が何も見ていない。


「……姫?」

 恐る恐るというように、篝野が呼びかけるが、返る声はない。

「どうした」

 拓深が問いかける。篝野はそれには応えなかった。


 愕然として、直杜がつぶやく。

「心が壊れてしまったのか」

 その声は揺れていた。

「まさか」

 篝野は強く声を出す。それから、弱々しく続けた。


「まさか、咲織の姫は芯の強いお人だ。まさか、そんな……」

 でも。そんなことは絶対にないなんて、誰が言えるだろう。

「ずっとここで眠ったままだったんだ。もしかしたら、そのうち意識がはっきりとされるかもしれない」

 篝野は不安を振り払うように、自分自身に言い聞かせるように、強く声を出す。

 篝野の言う通りかもしれない。けれど、確かなことではない。


 やっと会えた巫女姫は、都波に答えを与えてくれそうにはなかった。咲織の姫は、眠ったままだ。――眠ったままのようなものだ。


 だけど都波は落胆していなかった。

 あれが記憶なら、花信風の女神のものだ。誰が見せたのかと言えば、咲織の姫だとしか思えない。姫に触れて見えたのだから。


 皆が願うように、咲織の姫が女神の再来なのだとしても。

 姫は毎年の早降りの祀りで、凍つる桜に祈りをささげると言っていた。それなのになぜ、桜は咲かないのだろう。


 ――何かが、足りない。

 都波にできるのは、呼びかけることだけ。きっかけを与えることだけだ。椿が雪の中に咲いて、春を思い出させるように。目を覚ましてと囁きかけるくらいだ。

 自ら呼び声に応えてくれなければ、何も起きない。


 きっと凍つる桜は、目を覚まそうとしている。だから、そのまわりに雪をよせつけなくなった。咲織の姫も、水の宮の中に入れてくれた。


 みんな変わるのを願っている。ただもう少し、何かが足りない。


「どうする。担いで珠纒に連れていくのか」

 篝野に問う拓深の顔をまじまじと見る。さすがに拓深はたじろいだようだった。


「なんだ」

「拓深、どうして珠纒に来たかったの」

「言っただろう。おもしろそうだからって」

「そうだけど。それだけじゃなかった」

 ――何かを探さないといけない気がしてたと言っていた。


「何を探してたの」

「話を聞いてないのか。何か分かれば苦労はしない」

 あきれた声で言われて、都波は頬をふくらませる。そういうことを聞きたいんじゃないのに。

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