12. 逃げられる理由(4)

 また三拍子だ。

 チェンバロの旋律に合わせて、床が鳴る。ドレスが翻る。

 ラズベリー色の裾も流れに任せて揺れる。

 その間ずっと、右手は握られたまま。腰も抱えられたままだ。

 つっかえることない動きにただ引っ張られるままの自分がいる。

 確かにリュシアンは上手だ。それについていけないのが恨めしい。

――もっと、ダンスも練習しておくんだった!

 こんなところも負け組なのだ、と下を向く。

 それなのに、すいっと顎を持ち上げられた。顔を上げたら、リュシアンの水色の瞳が見下ろしてきている。

 ぽかん、と見上げた拍子に、爪先が硬い物の上に乗った。

 一瞬だけ、端正な顔が歪んで、すぐに元の無表情に戻る。

 クロエは自分の顔が蒼くなっていくのを感じた。


――足、踏んづけちゃったぁああああああ!


 その後、何曲ワルツが流れたのか憶えていない。

 チェンバロだけでなく、ヴァイオリンやフルートの音色も流れていたような気がするけれど、はっきりしない。

 疑うことなく憶えているのは、ダンスの相手をしてくれたリュシアンの足を踏んでしまった、という一点。

 凍り付いた笑みで、隅のソファに座り込んで、時間が過ぎることを祈る。

 部屋の中に茜色が差し込むようになって、少しずつ人が減っていく。残るのはブリジットの特に親しい友人たちらしい。

「君たちも寮の門限があるだろう?」

 ジェレミーに笑いかけられて、玄関へと招かれる。

 行きにも通ったホールまで来たところで、立ち止まる。

 見れば、門前に馬車が付けられていた。平凡な形なのに、凛とした佇まいのキャリッジだ。

「乗って帰るといい」

「ええ? 大丈夫ですよ、歩きますってば」

「あーあ、リュシーだけじゃなくて君までもか」

 あははっとジェレミーは軽い笑い声を立てた。

「迎えを寄越す、と言ったらリュシーに嫌がられたんだよ」

 つい瞬くと、彼は首を傾げた。

「君は遠慮で言ってくれたのだと解釈するけどね。リュシーは違う。あいつは君と二人になりたかったらしい」

「ええ……」

 顔が熱くなる。

 くすっという声を零してから、ジェレミーは反対に首を倒した。

「ランベール・エランを知っているかい?」

 突然の名前。クロエはきょとんとなってから、頷いた。

「知ってます。同じ学年だもの」

 栗色の髪を短く刈った、背が高くて引き締まった体躯の少年。アンヴェルス公爵の嫡男。シャルリーヌの卒論のペアの相手だ。

「彼とは入学したばかりの頃から親しくなったらしいよ」

「誰が?」

「リュシーが」

 ジェレミーの答えに、え、と呟く。

「知らなかった」

 と、同時に、納得した。

 この間講堂で、ランベールはリュシアンに話しかけていたではないか。シャルリーヌと出かけるのだと会話はそこで終わっていたが、ああやって普段から喋っているのかもしれない。

 うん、と頷く。

「僕はそれを知らされた時、嬉しかったんだ」

 ジェレミーは微笑む。

「リュシーが喋らないことを気にしないでいてくれる人が、僕たち兄妹以外にもいるんだという事実が嬉しかった」

 ちくん、と胸が痛んだ。

「わたしは」

 と俯く。

「ペアを組むまで、喋ったことも無かった」

「そうなのかい?」

「当たり障りなく居ようって、目が合ったら挨拶するくらいだったのよ」

「ふうん」

 ニヤリ、と。ジェレミーは口の端を上げた。

「よろしく頼むよ。願わくば、卒論だけでなく、その先もずっとね」

 すいっと彼の視線が玄関ホールから二階に続く階段へ移る。ちょうど、リュシアンが両手でカバンを抱えて降りてきているところだった。

「全部持ったのかい?」

 ジェレミーが言うと、リュシアンはこくんと首を振った。

「じゃあ、寮へ戻りなさい。荷物が重いだろうから、今度は馬車で行くんだよ」

 くすくす笑って。ジェレミーはクロエに右手を差し出した。

「よろしくね、クロエ。僕が提供できる卒論の資料は今リュシーに持たせたから」

「あ…… ありがとうございます」

「とんでもない。重ねて、リュシーをよろしく頼むよ」

 ふわりと座席に上がらされる。隣にリュシアンが乗り込んで、抱えていた荷物を下ろした。

 ぱたん、と戸が閉まる。

 御者台に乗った男は穏やかに微笑んで、行きますよ、と言う。蹄の音が呑気な調べを奏で始める。

「資料、頂けたのね」

 言うと頷かれた。

「寮に戻ったら、見せてくれる? わたしももうちょっと勉強しなきゃ……」

 鉄道と、高貴なる義務ノブレス・オブリージュと。考えることはあるのに、と目を瞑る。

――まずい、揺られていると寝そう。

 疲れた、と溜め息を吐くと、視線が下がる。二人の爪先が見える。

「あ」

 とクロエは勢いよく顔を上げた。

「足! 大丈夫!?」

 見上げた端正な顔は動かない。クロエは、眉を下げる。

「ごめんなさい……」

 俯く。ぎゅっと目を瞑る。

 すると、すいっと手を持ち上げられた。ゆっくりと当てられた指先が、一文字ずつ示す。

――大丈夫ça va

 ずきんずきんと胸の奥が締め上げられていく。

「ごめんなさい」

 呟いて、無理矢理笑みを浮かべた。

「わたし、下手で踊りづらかったでしょう?」

 リュシアンは首を横に振る。クロエもだ。

「情けないなぁ…… ダンスも下手で、駆け引きもできなくて」

 負け組の本領に目尻の端が熱くなるのを感じた。唇を噛む。リュシアンの指先は、クロエの掌を掴んだままだ。


 学園の門前で馬車を降りる。御者はリュシアンに食事をしっかり取れだの睡眠は大事だの一とおり捲し立ててから、去っていった。

 かぽっ、かぽっ、という音が遠くなっていく。日が沈む。

「リュシアン」

 また荷物を抱えた彼は静かに振り向いた。

 静かな湖の色の瞳には、間違いなくクロエが映っている。

「ごめんね…… 何にもできない」

 負け組の、クロエが。

「資料集めも、みんなリュシアンがやってくれて――」

 不意に。どさっと荷物が土の上に落とされた。外套の裾が翻って、リュシアンが寄ってくる。

 クロエの正面に立った彼は、ほんの少しだけ、唇を戦慄かせた。

 顔が近づく。こつん、と額と額がぶつかった音がした。

 ぎゅっと唇を噛みしめる。

 掌を取られる。

 また一文字ずつ綴られて。最後の一文字の後、クロエは息を呑んだ。



――僕はずっと、君に恋をしていた。Je suis tombé amoureux de toi pour toujours.

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