06. 負け組の来た道(2)

「お嬢様、クロエお嬢様!」

 改札の向こうで、ふくよかな女が手を振っている。

「アンナ!」

 クロエは両手を広げて駆け出した。

「ああ、おかえりなさいませ。また一層、お綺麗になられて」

「わたしは何も変わってないわよ」

 豊かな胸にしっかりと抱きとめられて、クロエは笑った。

「アンナも変わりない?」

「ええ、ええ。変わりありませんとも。この乳母め、クロエお嬢様の花嫁姿を見るまで、倒れるわけにはまいりませぬ」

 そう言って、彼女は、クロエの後ろを歩いてきた少年に目を向けた。

 紺色の外套ルタンゴトに包まれていても分かる、しなやかな体躯。陽の光を受ける蜂蜜色の髪に、凪いだ湖の色の瞳。

「あなたがリュシアン様で」

 朗らかにかけられた声に、彼はぎこちなく頷いた。

「ようこそ、ドゥワイアンヌへ。何もない田舎でございますけれども、その分静かに過ごせますからね。ごゆっくりなさってくださいませ」

 それから、アンナは改札の前に停まっている馬車を振り仰いだ。

「ロイク! お客様の荷物をお持ちなさいよ!」

 呼びかけに応じて、屋根も幌もない馬車から、シャツとズボンだけの男が降りてくる。

「はいはい。人使いが荒いんだから」

「何を言うの、大事なお嬢様の大事なお客様だよ!」

「はいはい」

 髭の上に苦笑いを浮かべて、男はリュシアンに手を出した。

 それに彼は首を横に振る。それから、すたすたと歩き出した。

 アンナとロイクが、ポカン、と口を開ける。

 馬車の横まで行って、リュシアンは振り返った。

「……荷物を、荷台に置いてもいい?」

 クロエが問う。

「そ、そりゃあもちろん! 大丈夫ですよ!」

 ロイクが叫ぶ。

 リュシアンはひょいと、二つの手提げ鞄を荷台に載せてしまった。

――しまった、持たせっぱなしだった。

 僅かに、クロエは蒼くなる。アンナとロイクも少し蒼い。


 ガタン、と軋んで馬車が走り出す。

 椅子なんてない、ただの荷馬車だ。御者台にはロイク、荷台に三人が腰を下ろす。

――びっくりしてるかな?

 よく言えば牧歌的な乗り物の上で、クロエはリュシアンの横顔を伺った。

 いつもと同じ、無表情。

「本当、何もない田舎でございましょう?」

 畑の間の道を抜けるように、アンナの声も続く。

「私は王都の出身でしてね、最初来た時はそりゃあ驚いたんですよ。畑しかないって。でも、ここで育った梨は絶品でしてよ。一度、この地にお立ち寄りになった王様も褒めておいででした。私としてはねえ、もっともっといろんな人に食べてもらえたらいいって思うのに、旦那様がね『そんな遠くまで運べるもんか』って言うんですよ。確かに荷馬車に積んでってのには限界がございますものね」

 ガタン、と馬車が跳ねる。体もふわり浮く。

「運んでいる最中にこうやって跳ねると痛んだりもしますからねぇ」

「お喋りし過ぎだよ、アンナ」

 ロイクが振り向いた。渋面だ。

「お客様の返事が追い付かないじゃないか」

「何を言うの」

 アンナは口を尖らせる。

「ずっと黙ってるなんて、暇で仕方ない」

 それから、ぽつん、と。

「喋らない相手なんて、ねえ」

 胸の奥がちくんとなった。


 また大きく跳ねて、荷馬車が止まる。

「ここで降りてください。俺は裏に馬車を停めてきますから」

 ガラガラと車輪を軋ませる荷馬車を見送って、屋敷に――こじんまりとした二階建ての我が家を見上げる。

 使用人が四人で事足りる、小さな領地に見合った小さな家。

――ブランドブールのお屋敷と比べてたりとかするのかな。

 ずきんずきん、胸の奥は騒めく。リュシアンはやっぱり無表情で、両手に荷物を下げている。

「さあさあ、旦那様も奥様もお待ちですよ」

 アンナが手を叩く。

「クロエお嬢様は本当、のんびりしてらっしゃるんだから」

「ごめんってば」

 あはは、と笑うと、アンナは小走りで玄関に向かっていった。三段だけ登った先にある扉が内側から開く。

「あら、アルフォンスおぼっちゃま」

 アンナが両手を広げる。

「いつお出でだったので?」

「一本前の汽車だよ」

「教えてくださったらお迎えに上がりましたのに」

「いいんだよ。歩くのも楽しいもんさ」

 扉に手をかけているのは、今年二十歳の青年。クロエによく似た髪の色で、ニヤニヤと笑う顔の下、シャツと胴衣ジレが清潔なだけ。

「クロエが帰ってくるって聞いたからさ」

 玄関の枠に肩から寄りかかった彼はそのまま、うすら寒い視線を送ってくる。一歩後ずさる。

「よう、クロエ」

「……こんにちは、アルフォンス」

 知らず、声が低くなる。

「久しぶりだなぁ」

「そうね」

「去年の秋休みに会って以来、かな?」

「そうね」

「もっと嬉しそうな顔しろよ」

――無理です。

 年上の、頼りになる優しい従兄なんかでは決してない。その昔、ケーキを分けてくれなかったことを忘れはしまい。上っ面では仲良くできるのだが、大人の目が届かないところにくると途端に意地悪を始めるような従兄なのだ。

 彼も王都の同じ高等学校リセに通っていた。三つ上だから、在籍期間が被ることはなく、卒業した今は王都で働いていると聞いていたのだが。

「お仕事は?」

 低く問うと、ひょいと肩を竦められた。

「休暇を取ったんだよ。商会の仕事は、暇な時は暇なんでね」

「今は暇な時期なの……」

「ちょいと忙しいかな。まあ、いいじゃないか。卒論を始める時期だから、可愛い従妹を応援に来たんだよ」

 笑われる。背筋が震える。

「ペアは?」

 問われ、ぎゅっと両手でドレスを握りしめて、クロエは頷いた。

「彼。リュシアンよ」

 そう言って、斜め後ろで黙っていたリュシアンを振り向く。

 蜂蜜色の髪がさらりと揺れるのが見える。

 ふん、とアルフォンスが鼻を鳴らした。

「アルフォンス・ラクロワ=マニアンだ。クロエの父方の従兄だよ。よろしく」

 すっと右手を差し出してから、アルフォンスはわざとらしく肩を竦めた。

「荷物持ってちゃ、握手なんか無理か」

 それから、にゅっと唇を曲げる。

「喋れないから挨拶も無理、と」

「アルフォンス!」

 つい、高い声を出した。

「失礼じゃない」

「別に。本当のことなんだろう?」

 首を傾げて、アルフォンスは続けた。

「おまえが手紙で書き送ってきたんじゃないか。ペアの相手は喋れませんって」

「そう――だけど」

 顎がガクガク震える。

 ドレスを掴んだままの指先が強張る。

「だけど――」

「さあ、玄関前の立ち話は止めましょ!」

 一際大きな声を出したのはアンナだった。

「中で旦那様と奥様がお待ちなんですから」

「待ちわびてるよ。俺も、お茶の相手に飽きてきたところだったんだ」

 アルフォンスがまた肩を竦めて、身をずらす。

 その隙間を通って、アンナが中に入っていく。

「リュシアン」

 呼んで、見上げる。

「中へ、どうぞ」

――入りたくなくなるかしら。

 情けなく眉を下げたまま言うと、彼は無表情のまま一歩踏み出してくれた。

 外套の袖を引く。

 アルフォンスの正面に立った時が一番ドキドキした。

「ああ、そうだ。クロエ」

「なに……」

 呻いて、視線だけ向けると。

「バジルとクロードも来てるぞ」

 思わず、唸った。


――なんで三人ともいるの!?


 見つからないうちに帰ろうという思惑は、もう崩壊していた。

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