04. チャンスはある(4)

「クロエ、クロエ」

 呼ばれ、振り返る。

 夕陽が入らなくなった部屋は、ランプのオレンジ色の光で溢れている。照らされた友達の顔は、不思議な笑みを浮かべていた。

「なに? どうしたの?」

 問うと、彼女はうふふと声を上げた。

「リュシアンよ、見て」

 窓の外を指差す。

 女子寮の玄関前に立っているのは、紺色のジレを着た少年。


 大股で走った。


「わざわざ来てくれたの!?」

 正面に立つ。リュシアンは、本を小脇に抱えて、真っすぐ立っていた。

 その彼は、クロエの背中の向こうに、寮の玄関から漏れる灯りが見えているのだろう。零れてくるのはそれだけではない。

 わざと低められた声。不躾に向けられる視線。

 きゅっと胸の底が縮み上がる。

「ちょっと、移ろう」

 白いシャツの袖を引っ張って歩く。数歩離れたトネリコの木の蔭で、はあ、と息を吐いた。

 彼はやっぱり無表情。

――でも、あんな言われていたら厭でしょうに。

 しゅん、と俯いていると、鼻の先にすっと物が突き出された。

 顔を上げるとリュシアンと目が合った。彼が右手で本を差し出してきたのだ。

 両手で受け取って、じっと見つめて、呟いた。

「……違う、本じゃないのね」

 革張りの手帳だ。小さな鍵まで付いている。

 リュシアンは、ちゃり、と音を立てて、ポケットから何かを取り出した。鍵だ。指の先ほどの大きさの、鍵。

「これを使うのね」

 じっと顔を見る。何も言わないし、変わらないけれど、多分肯定だ。

 左手で受け取って握りしめ、笑う。

「ありがとう。しっかり読むわ」

 彼は右手をそのまま差し出してきた。

「なあに?」

 首を傾げる。

「わたしは渡せるもの無いよ?」

 クスクス笑って、右手を重ねた。そして、また明日、とだけ言おうとしたのに。

 リュシアンは握った右手をそっと捧げて、唇を寄せてきた。

 息を止める。

 爪の先に触れるか触れないかのそれは、騎士が貴婦人に捧げる接吻そのものではないか。

 じわじわと指の先が、頬が熱くなる。

「えっと……」

 何を言えばいいのか。

「あ、ありがとう」

 何への礼だ、と思ったが、彼はこくんと頷いて踵を返した。

「き、気をつけて帰ってね!」


 男子寮まで一本道、ほんの数分の距離。

 彼があちらの玄関を潜っただろう頃になってようやく、クロエも中に戻った。

 そしてまた浴びる視線。笑い声まで聞こえる。

 それらを裂いて、先ほどリュシアンの来訪を教えてくれた友人――ヴァネッサが瞳を輝かせて寄ってきた。

「リュシアンとペアを組んだんですってね」

「う、うん」

 ぎゅっと胸の前で手帳を抱きしめて頷く。ヴァネッサは栗色の瞳をさらに大きく見開いて、クロエの顔を覗き込んできた。

「どう?」

「……何が?」

 頬が赤いのがばれませんように、とわざと低い声で返す。

「何がって、卒論の進捗よ」

「今日始まったばかりじゃない」

「始めが肝心っていうでしょ。で、どうなの?」

「だから、なにが、どう?」

「ヴァネッサ、駄目よ。もっと具体的に訊かなくちゃ」

 混ざった声に二人で振り向く。別の友人――アメリーが近寄ってきた。

「リュシアンとどうやって話し合うつもりなのってね」

 きゅっと吊り上がった唇。クロエより上にある瞳が、キラキラ輝いている。

「だって、誰も彼の声を聞いたことないのよ。アランが言ってた」

「それ、エヴラールも言ってた!」

「そうでしょう?」

 四つ目の声。シャルリーヌも満面の笑みで近寄ってきた。

「彼、筆記試験は抜群なんですって。喋れないのに、どうやって情報を集めてくるのかしら」

「それ、誰からの情報?」

「やあね、ランベールに決まっているじゃない」

 髪をかき上げた彼女に、アメリーが手を叩く。

「そうだった――いいなあ、アンヴェルス公爵家なんて、一番じゃない」

「駄目よ、羨んじゃ。今の相棒ナイトを大事にしなきゃ」

 そういうヴァネッサの唇は尖がって、突き出されている。

 シャルリーヌの笑みは崩れない。ゆっくりゆっくり、アメリーとヴァネッサを見て。クロエを真正面から見てきた。

「せいぜい頑張って」

 化粧を落としていない顔が、艶を増す。

「いつも落第ぎりぎりのあなたと、筆記しかできないリュシアンと、とんでもない負け組ペアなんだもの」

 どっと笑いが沸く。ぎし、と歯を噛みしめて俯いた。



 納得がいかない。

 クロエはともかく、何故リュシアンまで『負け組』と言われなければいけないのか。

 彼が何に負けているというのだ。



 友人達は夕食後のお喋りに没頭しているようだ。一人先に寝室に戻って、手帳を開く。

 鍵を差し込むときの鼓動は、多分今までの人生で一番大きかった。

 革張りの表紙を捲った一頁目。

『親愛なるクロエ』と書き出された文章。力強く流れる筆記体は、聴いたことのない彼の声を思い起こさせた。




――親愛なるクロエ。


 今日はありがとう。ペアを組んでもらえて嬉しかった。

 満足のできる仕上がりになるよう、全力を尽くすよ。


 早速、卒論の主題について僕の意見を述べたい。

 僕はマドモアゼル・セシリアのアドヴァイスどおり、鉄道の敷設政策についてまとめてみたいと思っている。


 今現在のベルテール王国の領土の東には広大な平原プレンヌ・メルヴェイユーズが広がっている。

 かつてその向こうから“野蛮なる一族”がやってきて、この地を蹂躙した。それに抵抗して彼らを追い払い、この土地を再び耕し始めたのが初代の国王だというのはこの国の人なら誰でも知っていると思う。

 そして僕の家、ブランドブール辺境伯家は、その国王の一の騎士が初代当主。建国以来王国の東の守りを担ってきた。今は、王国の権威を外に広めていく最前線となっている。


 広大な平原プレンヌ・メルヴェイユーズの先に何があるのか。まだ野蛮なる一族がいるのか。それはこの先調査されていくと思う。

 同時に東の平原を耕され、人が住まう土地へと変わっていくだろう。

 その時、鉄道はさらに東に延ばされて、人々の暮らしを支えるに違いないと僕は考えている。


 東にだけではない。

 線路は、国中のいたるところに敷けるだろう。


 煤煙や振動の害があると、鉄道の敷設に反対する人は多い。

 だからこそ、鉄道の欠点も長所も知り尽くしていれば、何処にどのように敷設すれば国の発展に寄与できるのか、考えられるのではないだろうか。


 僕の個人的な興味で申し訳ないけれど、是非一緒にやってほしい。



 尊敬を込めた友愛の情を送ります。

 リュシアン・ベニシュ――

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