#8「resonanceⅠ -共鳴-」

 バイオリンの伸びやかな音色が響く。

 朝日を浴びる訓練学校の中庭で、白露・ルドルフ・ハースはひとりバイオリンを弾いていた。

 誰もいない早朝。教官たちの点呼にみなが叩き起こされる前の時間帯を利用して、気ままに演奏するのが白露の日課だった。

 わざわざ早起きしてまでこんな時間に中庭へ来るは、白露ただ独りだけ。つまり、今この巨大な円筒形の宿舎を囲う、丸い天窓から降り注ぐ光を浴びることができるのも、白露のみ。

 蒼ざめた薄闇に包まれた灰色の世界が、陽射しと共に鮮やかな色彩を取り戻し、緑の植栽は朝露を輝かせ、木漏れ日は温かく、生まれ変わった世界を祝福するかのように優しく降り注ぐ。

 まるで聖画像イコンのごとき光景が、今は白露一人だけのもの。

 そんなささやかな優越感を味わうように、軽やかに弓を弾く。

 例えそれが、灰色のコンクリートに囲われた鳥籠のような施設の中で、そこで人を殺すためのすべを叩き込まれた子供たちが、やがて地獄のような戦場に投げ出される運命にあるとしても――今このときは、世界は光に包まれている。

 温かな陽射しを浴びて、そんな世界と語らうようなこのひと時は、白露にとってかけがえのないものだった。

 微睡まどろむように音色を奏であげ、空へと――。

 どこまでも青い空を越えて、せめてこの音色だけでもどこかへと届くように。

 充実した演奏時間。わずかな満足感と名残惜しさ。その余韻を噛み締めるように長々と弓を弾いてから、演奏を終える。

 自分以外の誰も聴く者のいない、独りきりの独奏ソロ。一人で礼をして、踵を返す。

 そこまでが白露の日課だった。繰り返されるルーチン。いつも通りの当たり前の朝。変化のない日常の一幕。

 だが、その日はいつもとは違っていた。

 白露のほか誰もいないはずの中庭に、突如割り込む不協和音。

 パチ・パチ・パチ・パチ――朗らかでリズミカルな

「素敵な演奏、ありがとうですダンケシェーン♪」

 予期せぬ賛辞。白露は去ろうとしていた足を止めて、わずかな驚きと共に振り返る。

 真ん丸の天窓から降り注ぐ朝日――キラキラと輝く木立の下で、木漏れ日を浴びて屈託なく笑う、

 鮮やかな白金の髪。青空のような瞳。白い肌を包むワンピース。

 だが白露は、何よりも少女のその声に軽い衝撃を受けていた。

 まるで天から降ってくるような、真っ白に澄んだ声音に――。

「はじめまして、素敵なバイオリン弾きさん♪」

 それが白露と彼女、夕霧・クニグンデ・モレンツとの出逢いだった。


 ザリザリと雑音ノイズ/ザクザクと素足で砂を踏む。

 焼ける熱砂――顔・首・胸・背・腹からダラダラ流れ落ちる汗。

 喉が渇く/日射しに目が眩む/一糸纏わぬ体が、焼けるように熱い/砂を踏むたびに足裏の人工皮膚が焼ける――朦朧とする意識。

 それでも白露は、ただひたすらに砂漠を歩き続ける。

 果てのない――それはまさに

 進むべき道もなく・帰るべき場所もなく・ただ彷徨さまようばかり。

 自分がなぜここにいるのか分からない――それでもただ歩く。歩く。歩く。まるで壊れたブリキの人形みたいに――。

 そう――白露はかつて人形だった。――生きている振りをしながら、無為に存在しているだけだった。

 ソレヲ ガ カエテクレタンダ。

 ザーザーと砂音――耳鳴り/幻聴/残響――感情を失った物質が上げる悲鳴――それが自分の身体なかからも聞こえる。

 ――調律の狂ったバイオリンの音色/白露の調律も。いつしか恐怖や焦燥も遠のいて、全てが曖昧にけてゆくのを感じた。

 不思議な感覚だった――日射しはこんなにも熱いのに、体の芯は真冬のように冷たい。冷めた鉄のように。凍えるような寒さ。その中で、曖昧に融けた自我が凍りついてゆく。

 全てが氷に閉ざされて――あらゆる事象の境界性が揺らぐ。

 揺れる――振動――世界が振動する。世界と共振する。

 ――物理学者によれば、この宇宙の物質を構成する最小単位である素粒子は、のように振動しているのだという。振れるひも――多元的な広がりを持ったげん――バイオリンは弦が振動することで音を奏でる。そう――

 音とはすなわち空気を伝播する振動でもある――物体の振動が空気を振わせ、音を伝える――そして外部から特定刺激を受けた物質は、固有振動により共振・共鳴現象を起こす。

 共鳴レゾナンス=音が物質を共振させる/

 だから彼女は歌う――声帯の発する音=自らの作り出す歌声で、世界と共鳴するために――――福音を。

 一体僕は何を考えているのだろう――そうした認識をもたらす自己の存在すらも、次第に曖昧になってゆく。

 その前に、辿り着かねばならない――その想いが白露を動かす。全てが曖昧になる前に/消える前に――ただひたすら歩き続ける。

 ふと目の前の景色が揺らいだ――蜃気楼のように砂粒が集まり、幻がチェロ弾きの少年の姿となって現れる。

 ――やれやれ、君は諦めが悪いな。どっちが多く得点スコアを稼げるか競い合ったときも、君は興味がない素振りをしながら、頑なに譲らなかった。つまるところ、君は自分で思うよりずっと我が儘なんだよ。そうやって

 皮肉げに笑う少年の後ろ姿を追いかける――楽器を持った少年の幻が、砂漠の果てに融けるようにして

 また目の前の景色が揺らいだ――蜃気楼のように砂粒が集まり、幻が小柄なユダヤ少年の姿となって現れる。

 ――僕たちは生きている限り色んなものを失くしていくのかも。でも、失くしたと諦めていたものが、ある日部屋を掃除してたらベッドの下からひょっこり出てきた……なんてこともあるよね? だから

 無邪気に笑う少年の後ろ姿を追いかける――小柄なユダヤ少年の幻が、またも砂漠の果てに融けるようにして

 また目の前の景色が揺らいだ――蜃気楼のように砂粒が集まり、幻が丸刈り頭に剃りを入れた少年の姿となって現れる。

 ――手遅れじゃァゆーても、勘違いじゃった……なんてこともよーあるけェ。つまり生きるちゅーことはよォ、おどれんナカの信念ちゅーやつに、どう折り合いつけるかァゆーことじゃないんかのォ? 

 ガハハと笑う少年の後ろ姿を追いかける――大柄な丸刈り少年の幻が、やはり砂漠の果てに融けるようにして

 それでも白露は歩いてゆく――歩いて・歩いて・進み続ける。

 ただ孤独に前へと進む――自分の中から消え去ったモノたちの残響に、背中を押されながら――それだけが、残された心の欠片――空っぽの匣の底に、最後に残った希望なのだと。

 渇望――喉が渇く――おぼろげな歌/それを求めて。

 切望――眩暈がする――いつか聞いた歌声/それをもう一度。

 願望――音が遠のく――あの子に/

 そして――白露は辿り着く――砂漠の丘――その場所へ。

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