0x0108 ホモ・サピエンスの限界

 DOGの執務室が簡素なのはいつも通り。

 ただ、花一輪もなく、必要最低限の家具は、存在しているだけで寒さすら覚える。

 整理は行き届いており。モノトーンで統一されている部屋は中世らしくもなく、家具にも華やぐ模様はない。

 家具の木材はウォールナットなのだろう。濃い褐色に流れる年輪には、節目は一つもなく、磨かれた表面は端正で、目の底にも落ち着いた印象を与える。


「で、結局ジネヴラには追いつけなかった訳か」

 ガシュヌアが嘆息混じりにそう訊いた。

「ええ、足速いんですもん。それに坂道だし。運動しとけばよかった。ジネヴラって足早過ぎですよ。何度も呼び止めたんですけど。止まってもくれませんでしたよ。はあ、もう生きてけない。いっそ、殺して下さい。僕、死にたいです」

 ガシュヌアは執務席に座り、側に立っているドラカンを見上げた。二人がどうしようもない、という顔をしたのは見えたが、僕は精神的に投げやり状態だった。


 もう、何もやりたくねえ。

 ハッキングとか、もう二度としねえ。


「お前を呼び出したのにも理由があってな」


 あれ?

 ガシュヌアから地響きが聞こえてくるよ。

 でも、地球が滅んでもいいかな、とか思ってる僕に通用すると思ってもらっては困る。ただ、心の弱っている今は、優しい対応をお願いしたい。

 ネチネチ、パワハラとかされても、ジネヴラの件がショック過ぎて、軽く無視できると思う。ミジンコなりにシャーとか言って、足を伸ばして、威嚇できるかもしれない。


「ラルカンから、しきりにメールが来るんだが、お前はラルカンに何を吹き込んだ?」

「えっ!」

「午前中だけで1000通以上のメールが送信されてきてな。最初の一通は状況報告でいいのだが、他のメールはマルティナがどうしただの。そういうメールばかりなんだが、心当たりがあるか?」


 やっべー。

 これあれだよね。マルティナがガシュヌアの前カノが似てて、ひょっとしてくっつくかもって、言っちゃった奴だよね。

「おい、ユウヤ。額に汗が見えるが、何を吹き込んだ。一々目を通していられないんだがな。おい、聞こえているのか。俺の目を見ろ」

「あの、怒らないで下さいね」

 ガシュヌアはピクリとも動かない。執務席に深く腰をかけている。

 けど、人差し指がトントンとメトロノーム並の規則的なリズムで、肘掛けを叩いている。

 何だろう。時限爆弾が秒針刻む音みたい。

 今はテンポ50ぐらい。

 だけど、報告するに従って、テンポは200、500と上がっていって、最後には爆発するんだ。


 ここで爆発されてはたまらない。正直に話そう。

「ドラカンさんから聞きました。マルティナってガシュヌアさんの前カノに似てるんですよね」

 捨てられた子猫のように、僕はピクピク震えながら、上目遣いでガシュヌアの顔を見た。

 おや?

 動じていない。

 ガシュヌアの場合、無表情さを言葉で表現するなら、鉄仮面という言葉では正確性を欠く。

 もはや、アダマンタイト以上。言い換えるなら、ウルツァイト窒化ホウ素よりも硬度が高そう。

 

 前カノという言葉に反応するかなと思ったけれど、当てが外れたらしい。

 表情に変化があったら、そこをから話を広げようと思っていたのに。

 オペレーション・カムランが実現する日は遠い事だけがわかった。


「で、他には何を言ったんだ。正直に答えろ」

「ええとですね。ドラカンさんから聞いた話をそのまま、話しちゃいました」


 よし!

 これで、ガシュヌアの矛先はドラカンに向くはずだ。

 自分で自分を褒めてやりたい。

 シェルターの中でジックリと様子を伺おう。核戦争が起こったとしても僕だけは安全だ。

「ドラカン、ユウヤにどんな話をした?」

 ドラカンは相変わらずに微笑んだまま。

 心の中でラウンド・ワンの鐘がなった。ファイト!


 訪問者が僕だけなので、ドラカンは目を開けている。

 白磁のような白い肌。髪は雪の色をしていて、赤い瞳だけがポツリとアクセントになっている。

 濃いブラウンのスーツはイタリアン・シルエットらしい。Vゾーンは深く、柔らかな印象を与えている。

「いや。僕と君との出会いの頃の話をちょっとね。マルティナの容姿や表情はアンジェラそっくりじゃないか。だから、君にも思うことがあるのかなって話をした」

 アンジェラ?

 

 それが二人の間に挟まれた女性の名前らしい。

 可哀想。

 アンジェラさん、可哀想。


「全ては過ぎた話だ」

「あれから五年経つんだね。で、マルティナさんはどうなの、ガシュヌア?」

「仕事に私情を交えるのは感心しない」

「君はアンジェラに執着しすぎだよ。そろそろ、他の人に心を開いてもいいんじゃないかな?」

 憮然としたガシュヌアに、にこやかに絡むラルカン。


 計画通り。


 思わず、悪い顔して、ニヤリと笑いそうになる。

 が、ガシュヌアは僕の方へ振り返って言った。

「ソレはソレ、コレはコレだ。話を仕事に戻すぞ」


 何それ、流行ってんの、そのジェスチャー?

 思っても見なかったタイミングで、セルジアがやった”ソレはソレ、コレはコレ”が再演されてしまったので、僕は吹き出さずにはいられなかった。

 やっべー、これ止まらないヤツだ。

 緊張状態から弛緩状態に移行したばかりだから、変にツボに入ってしまった。


 目に見えてガシュヌアが不機嫌そうになってゆく。

 こうなったら、もう止まらない。意識は危機を感じてるんだけど、笑うことが止められない。



 ガシュヌアの説教は三十分間続いた。終わりのない説教は、絶え間なく僕の耳の穴にねじ込まれる。

「すいませんでした、ちょっと調子に乗っていました。今では反省しています」

 頭下げっぱなし。首が折れるかと思うほど頭を下げた。少なくとも下げ角四十五度は超えていたと思う。

 もう、床板の模様を覚えてしまうぐらいに頭を下げた。ちなみに床板一枚あたり平均34本あった。


「ラルカンが使い物にならない。しかし、要員と施設の場所が判明したのは何よりだ。次のフェーズに移る」

「それって、セル民族自治連盟の解体と隠蔽いんぺい化のことを言ってます? 殺人とか破壊工作とか嫌ですよ」

「その件については、食事会でEmmaを招くので、そこで話をして決定をする予定だ。デアドラと協力関係にあるからな。丁度、都合がいいことに、彼女の父親であるマッカーサー公は内務大臣。警察庁、国土開発庁を巻き込んだ方が話しは早いだろう」

 この前、ようやくドロドロしたのが終わったのに。

 また、泥沼の中に入らないといけないのか。そう思うと脱力感がある。

 どうして、いつまでもこんなドロドロを続けなきゃならないのか。そう思うと怒りを感じないでもない。


「えー、何ですか。それ。権力の私物化はよくないと思います!」

「ユウヤ、現在のセル民族はどんな状態か知っているのか?」

「わかりません。印象的には人間はセル民族を異種族と認識しているみたいで、セル民族の状態など無関心だろうと思われます。直接的な利害が発生するまで、この状態が続くでしょう。ラルカン、セルジアに代表される高等教育を受けてる層でこの反応です。サンプル数が二つしかないので、明確な答えにはなりませんけど」

 セルジアがエマの説明の時に言っていたが、人は自分の関係者でもない限り、無関心でいる傾向が強い。僕の住んでいた世界でもそうだった。隣人でさえ、何をしているのかわからない。


「前にも言ったと思うが、セル民族解放戦線SLOに感づかれると紛争の種になる。秘密裏に撤収作業を行う必要がある」

「そうして隠蔽いんぺい化を図る訳ですか? 悪魔も人間と何ら変わりないですね」

 皮肉を言ってみたが、ガシュヌアは涼しい顔。


「こうするのには理由がある。やがてお前は理由を知るだろう」

 イラっときた。

 人間世界にズカズカ踏み込んで、フィールドを荒らすのが悪魔の仕事なのか?


 冗談事では済まされない。

 僕の世界で、僕が追い込まれたのも、絶望したのも、全ては悪魔の仕業と感じたからだ。

 心に封じていた黒いモノの、枷が外れ、縛鎖ばくさが解かれようとしていた。


「情報公開する必要があるんじゃないですかね」

 僕でない僕が出てこようとしている。目元が暗くなり、視野が狭まる。

 封じ込めたはずの僕の闇が、心の奥底から蠢き始めている。


「時がくれば公開をするつもりだが、それを決定するのは俺ではない」

「あんたら本当に公開するつもりあるんですか? 見て見ないふりをするんですか? いっそ僕が公開しちゃってもいいんですけど?」

 苛つきに身体が焼かれてしまいそうだ。僕でない僕は、腹の中で動き出している。

 溶岩のように熱く、激しい、破壊衝動が喜悦を浮かべて、起き上がろうとしていた。


 ガシュヌアは表情を変えない。僕の目を真っ直ぐに見ている。

時宜じぎを図る必要がある。それに決定するのは俺ではない。今、公開したらどうなるか、お前は知っているはずだ。中国でのパイプライン事件後、世界はどうなったか覚えているだろう?」


 僕の中にあった破壊衝動は、封じていた箱をあばき、様子を窺っている。


 コワソウカ。

 コイツモコワシテシマオウカ。


 ガシュヌアは意も介さず言葉を続ける。冷えた声に感情の音調トーンは乗ってはいない。

「ホモ・サピエンスの限界を、お前は知っているはずだ」


 心のざわつきは、鳥肌となって心身に現れ出てくる。僕はそれを撫でながら、過去の自分を振り返る。

 ガシュヌアとドラカンは僕の言葉を待っているらしい。この部屋に沈黙が居座った。



 何分経っただろう。いや、何時間経ったのだろう。

 夕日が窓に差し込んだ頃、破壊衝動は姿を消し、胸の奥底へと還っていった。蓋は再び封じされた。


「……そうですね」

 口を開くと、唇が乾いてしまっていることに気付いた。

「どうせ、彼らは、彼女らは理解はできない。ホモ・サピエンスとは、そういう生き物だ」

「ちょっと疲れたんで、ソファーに座らせてもらいますね。それと、昔の話は止めて下さい。余り思い出したくないです」


 僕が客用ソファーに腰掛けたのを見計らい、ガシュヌアとドラカンが甲高い足音させ、対面したソファーへと座る。

 僕は溜息をついた。


 ドラカンが口を開いた。いつものように微笑みを絶やさずに。

「それでも地球は動いている、って言葉。ユウヤ君は知っているよね?」

 ふて腐れた子どもみたいに扱われている。鬱陶しいと思ったが、答えるだけの気力は残っていた。

「知ってますよ。ガリレオ・ガリレイが異端尋問で漏らした言葉ですよね」

「そう、本当に言ったのかどうかは置いといて。なら、ソーカル事件って知ってるかい?」

「何を言わせたいのか知りませんけど、知っています。アラン・ソーカルがデタラメに書いた論文をソーシャル・テキスト誌に送りつけ、他の研究者がデタラメを見抜けるかどうかを試した事件ですよね。お笑いです」

「結果はどうだった?」

「ニューヨーク大学物理学教授という権威に欺され、ソーシャル・テキスト誌は賞賛の言葉付きで発行されました」

「さて、今度は君にとって、卑近な例で尋ねてみよう。君が居た世界のセキュリティ業界についてはどうだった?」


 ドラカンは僕の言葉は音楽のようだった。スルリと耳から入り、脳に入って意味を組み上げてゆく。大した話者だ。


 さすがは悪魔。僕が悪魔になってるのにも関わらず、僕の脳をファックしてきやがる。

「僕の国ではセキュリティ情報は、日本語訳しただけの記事が、掲載されているだけでした。ただ、他国でも同じ様なもんです。誰かが書いた説明をコピペするだけで、意味など理解していないケースの方が多かったですね」


 何を言わせたいのか、おおよそ理解はできる。

 僕が金融関係者なら、サブプライムローン問題時のS&Pを取り上げたんだろう。

 彼が証明したいのはホモ・サピエンスの限界だ。


 満足そうな笑顔を浮かべ、ドラカンは席を立つ。そして、僕のソファーの後ろへとゆっくり歩む。

「そういうことだよ、ユウヤ君。ホモ・サピエンスの特性として、七万年前ぐらいから認知革命なるものが発生し、知の蓄積が行えるようになった。火を使えたり、狩猟で道具を使えるようになったりし始めたんだ。そうして、言葉を使うようになる」

「……」


 僕の背に立ったドラカンは、両手をソファーに付き、耳元で囁きかけてきた。

 ソファーに置かれた手の甲は、氷原を思わせるほどに白く、血は通っている気配がない。

「言葉を使いはじめ、ホモ・サピエンスは、虚構、すなわち架空の物事を作り、共有できるようになった。この架空の物事っていうのはわかるかい?」

「神話、もしくは宗教とでも言えばいいんですかね?」

「その通り。現在のユウヤ君の価値観はそれまで積み上げた知の集積だよ。何万年と積み上げてきたホモ・サピエンスの知はバベルの塔のようだね。天国になど届くわけもないのに」

「かつて、ホモ・サピエンスだった僕に言われてもね。続けるとこうなりますね。知の集積は分業化され、結果として権威を作った、でしょ?」

「いいねえ。権威の中でホモ・サピエンスの多くは自分で考えることを止め、権威へと考えることを譲り渡した。それは政治であったり、学会であったり、芸術、演芸や技術なんかもそうだよね。だけど、権威なるものが正しく動いてるとは限らない」

 簡単な話だ。

 知の集積が分業化した後、正否判定するはずの権威が、正しく動いているか無関心になってしまっていたのが僕の世界だった。


 知の無視はガリレオだけに留まらない。

 権威は無関心の中に残され、権威に関わった人間の欲望に、沿うようにして動き出す。

「ガリレオ、ソーカルの教訓は残らなかった、と。つまりはそういうことですよね?」

「そう。君達の世界のホモ・サピエンスはマックス・ウェバーが発行した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によって、どうしようもなく変化してしまった、と僕は思ってる」


 ドルカンは僕の背後から動き、自分のソファーへと向かう。そして、喋らないでいる僕に再び言葉を投げかけてくる。まるで、洗脳されているかのようだ。

「禁欲ではなく、強欲は合理的であるとしてしまったんだね。結果として隣人愛など微塵も残らず、物質至上主義へと変わってしまった」

「聖書が正しいとでも言いたいんですか?」

「僕はそんなことは言っていない。聖書はただのそれまで存在していた宗教文書を集めただけだからね。ただ、ホモ・サピエンスにとっては、快である為に蓄積された知の集合ではあった、とは言えるかもね」


 ドラカンが椅子に座った後、今度はガシュヌアが口を開いた。

「聖書学で文書仮説というものがある。旧約聖書内にあるモーセ五書は四種の原資料から書き起こされた創作物だ。神の呼び名も時代背景も全く異なる。単なる創作された文書群でしかない。俺やドラカンも別にこれが正しいとは思っていない」

「じゃあ、何が正しいって言うんですか?」

「そんなものは幻想だ。時代によって変化してゆく。そもそも絶対的なものなど存在しない。例を上げてみよう。シェークスピアの「ヴェニスの商人」は知っているか?」


「知っていますよ。悪魔は目的のためには聖書でも引用するThe devil can cite Scripture for his purpose。そんな言葉もありましたね」

 苦笑を漏らすガシュヌア。だが、彼は足を組み、肘掛けに身体を預けながら、こう言った。

「お前の認識では、シャイロックは加害者か、犠牲者か、どちらだと思う?」

「アントーニオやポーシャの方がよっぽど悪人ですね。シャイロックは集団リンチにあった哀れな被害者としか思えません」

「書かれた当時と、お前が居た世界の現在とでは、それほどまでに価値観が変わってしまっている。古びた権威に縋って導き出された、”現在の正しい”は、”後世の正しい”とは異なるということだ。時間を一次元でしか観測できないホモ・サピエンスの限界を知れ」


 僕は何も言えなかった。

 相手が悪魔であるにも関わらず、返す言葉すら持たなかった。


「だから、ユウヤ。セル民族自治連盟に関しては、ホモ・サピエンスに決定させろ。用意をするのは俺達だが、決定するのは俺達ではない。Emmaの次の食事会の卓上にて、これを決めさせる」

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