第21話 琴の爺様

 ゴールデンウィークが過ぎた。思えば去年のゴールデンウィークに初めてゆりに会ったのだ。ゆりのお蔭で琴は楽しい自転車ライフを知ることができた。そして、ようやく心に秘めていたびっくり箱を爺様にプレゼントできる。


「はい椎名です」

「もしもし爺様?」 琴は爺様に電話した。

「あれ、琴かな?珍しいね、姫様はご健勝かな?」

琴の爺様はたった一人の孫娘である琴を姫と思っている。

「あのね、今度の土曜日にそっちに行ってもいい?」

「それはまた珍しい、勿論いいけどどうしたの?」

「それは秘密だよ。見せたいものあるんだ。でね、お付の人が二人いるんだけど一緒にお邪魔しちゃう」

「へえ、助さん格さんかな?」

「ん?誰それ?」

「お、知らんか。まあいいや、瀬田駅まで迎えに行くよ」

「ううん、ちゃんと行けるから心配しないで。お付の人はナビゲータでもあるんだ。着く時間もお昼頃だけどはっきりしないの」

「ふうん、ま、気長に待ってるわ。泊まってくんだよね」

「それが日帰りなの。あんまりゆっくりする時間ないと思う」

「あれれ、せっかくなのにな。ま、助さん格さん連れてるなら仕方ないか」

「うん、じゃ、マダムにもよろしくね」

「はいよ、気を付けて来るんだよ。楽しみにしてるよ」


取り敢えずこれでよし、だ。ちょっと不審がってるけどまあいいだろう。

因みにマダムとは琴のおばあちゃんのことだが、絶対おばあちゃんとは呼ばせない。琴が小さい頃、意味も判らぬままマダムという呼び方で妥協したのだ。

琴はヨシノさんにメールした。コウヘイさんにはヨシノさんから連絡してもらう。この程度の刺激なら、ゆりは許してくれるだろう。


 迎えた瀬田ツーリングの日。コウヘイさんに言われたように予備チューブを2本携行し、ママから言付かったお土産をリュックに入れて、琴は集合場所にやって来た。ヨシノさんは既に来ていて、コウヘイさんは途中の駅の所で待っているという。


「おはようございます。あー、なんか緊張するなあ」

「おはよう、私もよ。だって琴ちゃんの保護者みたいなんだもん」

「事実そうなんです。保護して下さいね。今日は山の中を走るんですよね」

「まあそうだけど、坂は小さな峠が一か所だけで、後は気持ちのいい道よ」

「あーでも爺様なんて言うだろうな」

「それが楽しみなんでしょ。じゃ、行きましょうか」

「はい、出発ー」


 駅まで来るとコウヘイさんが待っていた。コウヘイさんが琴の後について、ヨシノさんを先頭に、まずは木津川サイクリングロードに乗り入れた。途中の山城大橋を渡って国道に入ると、ダンプカーや大型トラックがひっきりなしに脇を走り抜ける。

「次の信号から先が徐々に登っていくわよ。路肩もあんまりよくないから慎重にね」

「はーい」

「後ろから来る車に気をつけて。でもまあ、真っ先にやられるのはコウヘイだから心配しないで」

しれっと恐ろしい事言うなあ、コウヘイさん大丈夫かなあ。

信号で停まった時、ちらっとコウヘイさんを振り返った。

「大丈夫ですよ。僕がクラッシャブルゾーンだそうだから」

「はあ、なんか、すみません」


しかし、その実、コウヘイさんの心の中はやや波立っていた。平常心平常心…。コウヘイさんは心の中で唱える。何しろ2月以降、ヨシノさんからは何の話もない。忘れちゃった…筈はないだろ。駄目だ駄目だ、今日は走る事に集中。


「あの、ヨシノさんなかなか厳しいですね…」そうっと琴は言ってみた。

「はは、大丈夫ですよ僕は。慣れてますから」

ううむ。眼は笑っていない。妙な間に挟まれちゃったな。

「信号変わったよー。行くよ」ヨシノさんが振り返る。

「はーい」


確かに徐々に坂道になって行く。初めのうちは大したことなかったが、温泉施設を過ぎて暫くするとカーブにかかり斜度は増した。道幅も狭くなり、路肩が殆どない上に、大きなトラックが対向で来るものだから、琴は本当に怖かった。フラフラすると途端にトラックに当たってしまいそうだ。山肌が迫るSカーブを幾つか越えて、ようやく明るい下り坂に出た。


「一旦停まりまーす」ヨシノさんのハンドサインが出る。

「ちょっと怖かったでしょう?」

「はい、凄く怖かったです。スレスレなんだもん」

「バイパスみたいなのができると大型車が減るんだけどね」

「できるんですか?」

「いや、よく知らない。でも高速ができるから、幾らかマシになると思うんだけど。ねえ、コウヘイさん」

「はいです」

「何よその返事。まあいいや。ここから下るよ。T字路に当たるから、そこを左折ね」

「はーい」


上った分の坂を下り、左折すると道は森をかすめる。途中短いトンネルがあって、すぐに宵待橋に出る。この橋を渡ると瀬田川沿いの宇治川ラインだ。それは左に瀬田川のまったりした流れが見下ろせる絶景ロードだった。

「きれい!」

琴は目を瞠った。新緑の山を縫うように流れる深緑の川。ところどころに砂洲があって、もじょもじょと草が生えている。あー気持ちいい! 琴は走りを楽しんだ。暫く走ると大きな橋を渡って川の反対側に出る。鳥の声が響く中を、三人はひた走った。周囲は次第に開けて行き、人家も見え出した。

立木観音の麓を抜けると、瀬田川は迫力のあるホワイトウォータになり、リバーカヤックの練習場があった。カヤック乗りが妙なスカートのようなものを履いて屯している。きっとあれはあれで意味があるのだろう。自転車乗りの格好だって、ずっと琴は妙な恰好と思っていたのだから。

 そして遂に南郷洗堰。堰堤を渡って、瀬田川沿いを少し走って三人は爺様のマンションに到着。琴はマンションの下から爺様に電話した。


「もしもし、琴だよ。今着いたから、爺様下に降りてきて」

三人は居住まいを正した。


ややあって、玄関ホールから出てきた爺様は、琴のヘルメット姿をを見るなり期待通りに絶句した。

「え? ええー? 琴?」

「へへー。びっくりしたでしょ?爺様。こちらがヨシノさんとコウヘイさん。一緒に来て頂いたの」

「あー、いやいや、でかしたぞ琴!いやあ素晴らしい。琴がロードに乗るなんて!すみません、琴がお世話になってますようで、私は祖父の椎名です」

「お爺様ですね。琴ちゃん、もう立派な自転車乗りですよ」ヨシノさんが挨拶する。

「何て言ったらいいんだろ。鳥肌立っちゃうよ。ま、取り敢えず自転車持って上がって下さい」

びっくり箱大成功だ。琴は爺様とヨシノさんとコウヘイさんを順番に見てほくそ笑んだ。


 爺様の部屋の前に三台のロードが並んだ。部屋に入るとコウヘイさんが

「あ、ガノに乗ってらっしゃるんですね。素直なバイクですよね」

と愛想を言う。爺様も満更ではないようだ。

しばらく自転車メーカー談義が弾んだ後に爺様が言った。

「でもなんで急に琴がロード乗り出したの?」

「あのね、同じ高校の友達の羽田ゆりちゃんって子がね…」琴は経緯を説明した。

「本当はゆりちゃんと来る筈だったんだけど、今病気で乗れなくなっててね、リハビリ頑張ってるんだ。そうそう、ゆりちゃんのお爺ちゃんも自転車乗るんだよ」

コウヘイさんが付け足す。

「羽田さんって、ウチの近所じゃちょっと有名なロード乗りなんですよ。僕よりずっと元気な感じで」

「ああそうなんですか、羽田さんねえ。うん?奈良の羽田さん。なんか、昔一緒に走ったような気がするなあ」

「えー?爺様それ本当?」

「随分昔だけど、とびしま海道を一緒にツアーで走って、トンネルの中をやたら飛ばして次の上りで一緒にバテちゃった人が羽田さんっていう名前だったような気がする」

「わ、ちょっと、ゆりに聞いてみる」

琴はその話をLINEした。


みんながマダム特製のランチを食べ終える頃、ゆりからメッセージが入った。

「すごい!すごいよ!ゆりのお爺ちゃんだ。爺様と一緒にバテたの。ゆりが電話で聞いてくれたの。そしたらそういう記憶あるって。椎名さんって名前覚えてるって。すごいね。本当にみんな自転車で繋がってるよ」


興奮冷めやらぬ琴だったが、時間が押していたので、昔話を聞くのもそこそこにして爺様のマンションを後にした。爺様は本当に眩しそうに琴を見つめ、そして見えなくなるまでずっと手を振り続けた。


「帰りはコウヘイが先頭ね」

「あ、はい」

やっぱりコウヘイさんぎこちない。

ゆりは怪しいって言ってたけど、ヨシノさんは何でもないな。コウヘイさんが意識し過ぎだな。

「コウヘイさん、よろしくお願いします」

琴はコウヘイさんを立ててみた。

「あ、ゆっくり行きますけど、しんどかったら言って下さいね」

コウヘイさんは琴に笑顔を見せて走り出した。


瀬田川沿いを走り、大きい橋を渡る。90度のカーブを曲がると黄色いゼブラゾーンがあった。

「ここ、タイヤが滑るから気を付けて下さい」

コウヘイさんが叫ぶ。その後もクネクネと来た道を戻って宵待橋まで帰って来た。

ここから宇治田原へはゆるゆるの坂だ。往路ほどきつくはなかった。


来る時大変だった坂も下りは楽だ。大型トラックについてゆくように駈け降りると間もなく山城大橋。木津川サイクリングロードに入ると、琴はホームグラウンドに戻ったような気になった。

やっぱり百キロは時間がかかる。途中からライトを点灯し、集合したカフェの駐車場に戻った時には周囲は薄暗かった。

ま、爺様んちでゆっくりしたしな。ヨシノさんが自転車を立て掛けて言った。

「琴ちゃん、やったね。2回目の百キロ超え」

「はい、今日は有難うございました。コウヘイさんもヨシノさんも、ついて来て頂いてすみませんでした」

「いいえ、いい道走れて良かったし、琴ちゃんのお爺様とも知りあえて良かったわよ。サプライズもあったしね」

嬉しそうなヨシノさんの後ろでコウヘイさんがもじもじしていた。

「あ、あの、僕はこれで。ちょっとショップに寄りますんで、お先に失礼します」

「あ、コウヘイさん、有難うございました。気をつけて帰って下さい」

琴はぺこりとした。

そんな、そそくさと帰ってしまったコウヘイさんを、ヨシノさんはこっそり目で追っていた。

「ヨシノさんも暗くなっちゃうから」

「あ、そうね。レディには危ない時間だ。じゃ、私も帰るわ。琴ちゃんも気をつけてね」

「はい、有難うございました」


ふうん。あの二人怪しいってよくわからないけど、見えない糸があるような気がする。でも引っ張ってるのはヨシノさんだな。

琴は棒になった足を引きずりながらぼーっと考えた。やっぱ、大人になると高校生の好きとか嫌いとは、ちょっと違うんだろうか。


「ただいま~」

「お帰りー。爺様から何回も電話あったわよ。琴、帰ったかって。大丈夫かって」

「うん、何とか大丈夫。あ、それどこじゃないんだ。そう、爺様とゆりのお爺ちゃんってね…」

琴は汗まみれのまま、ママに長々と報告した。

「びっくりだよ、本当に凄い話だよ。超絆だよ!」

「へえ」ママも驚いた。

「縁ってあるものねえ。ふうん。ま、それはそうとして琴、お風呂入っておいで。あ、でもその前に爺様に電話かけて」

「はあい」


背後でママがパパに叫んでる。

「ねえパパ聞こえてた?爺様とゆりちゃんのお爺様がね…」


 夜、ベッドに入った琴は、今日のことを考えてみた。車輪って車の輪って書くよね。ゆりも爺様も医大の先生もゆりのお爺ちゃんもみんな輪になってて、それからヨシノさんもコウヘイさんも輪に乗っかってクルクル回って、二人は追っかけあって、どっちがどっちを追いかけてるんだ?あれ、私はどこにいるんだ?あーねむ。琴の夢の中を、羊ならぬ車輪がたくさんクルクル回っていた。

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