序章 2

 冷え切った沈黙が、時間の感覚を狂わせる。


 重責を負った男は、いつまで経っても終着地点に到達しないことに苛立ちと覚えるのと同時に、心のどこかで安堵していた。


 自身の本能が、この極限の状況から逃げてしまいたいと願っていることに気づいたマリーニンは、軍事訓練を受けていた若き頃のように拳を握り包んで指の関節を鳴らし、自らを鼓舞する。




 しばらくして、大統領の目がエスカレーターの終着地点を捉えた。彼がその床を踏みしめた瞬間から、立ち止まっていられる猶予は終わる。




 決してのがれられない現実との対峙まで、あと三十メートル。


 輸送対象が終着地点に近づいたことを感知した高速エスカレーターが徐々に速度を落とし、乗員がバランスを崩さないよう緩やかに停止して、仕事を終えた。



 大統領の靴底が、地下十五キロメートルの地を鳴らす。



 高速エスカレーターを下りた先にある長い廊下には、赤い絨毯が真っ直ぐに延びており、その両側には、黒いつや消し塗装が施された二百体の大柄なロボット兵がずらりと並んで敬礼し、困難に立ち向かうあるじを迎える。


 大統領は、大男が特注した甲冑のような風貌のロボット兵や、その背後に見える幾筋もの通路に視線をやることなく、真っ直ぐ前を見据え、緊急執務室へと続く廊下を行く。


 高級感あふれる厚い赤絨毯の上を歩く十二名のくぐもった足音が心拍音のように聞こえ、彼らの緊張を煽る。




 通路の両側に整列するロボット兵の背後の壁に飾られている、穏やかな顔をした歴代大統領の肖像画が、絨毯の上を歩く現大統領を見送る。


 それらの肖像画は、深刻な事態に陥りながらも鷹揚自若おうようじじゃくに対応して国家を防衛しなければならない大統領を鼓舞するために飾られているのだが、マリーニン大統領の目には入らなかった。彼の頭の中では怒りが膨張し始めており、周囲の光景に気を払うことなどできなくなっていた。




 門番のように立っている二体のロボット兵が、黒檀で組まれた荘厳なダブルドアを左右に押し開き、金の装飾がなされた大きなシャンデリアが印象的な緊急執務室に大統領を迎え入れる。


 マリーニン大統領は歩く速度を緩めず、未だ一人の閣僚も辿り着いていない無人の緊急執務室を突っ切って上座に向かい、豪壮な椅子に腰を下ろして、次々に飛び込んでくる状況報告に目を通した。補佐官と十人の大統領近接警護担当者たちは散開して、部屋の隅で置物のように立っている。




 報告書を読んで新たな状況を頭に入れたマリーニン大統領は、地下通路を急ぎ歩いているであろうノヴィツキー外務大臣に通信を入れた。


「報告がないということは、中国首脳からのメッセージは届いていないということだな?」


 感情の水面下で激高しつつある大統領の声を聞いたノヴィツキー外務大臣は、震える声を噛み殺すように、一音一音をはっきりと発音しながら答える。


「はい、届いておりません」


 ドアの奥から聞こえてくる足音が、眼鏡型端末を介した通信先から聞こえる足音と重なる。ノヴィツキー外務大臣は入室して自分の席に向かいながら、話の続きを直接報告した。


「こちらから何度も接触を試みていますが、まことに遺憾ながら無視されています」


「連絡の一つも無しか」




 マリーニン大統領は露骨に溜息を吐き、心の中で悪態をついた。


 能無しめ。大方、軍部の手綱を引き損ねたのだろう。それとも飼い犬に手を噛まれて、全てを失ったか。どちらにしろ、愚かなことをしてくれたものだ。




 外務大臣に続いて、首相、国防大臣、連邦警護庁長官、司法大臣、大統領特殊プログラム総局長、対外情報庁長官、連邦保安庁長官、連邦宇宙局長、そして内務大臣が緊急執務室に到着し、席に着いた。みな一様に黙り込んで、大統領の言葉を待つ。


 マリーニン大統領は閣僚の面々を凪ぐように見たあと、努めて冷静に言葉を放った。


「すべきことは済ませた。あとは防空に注力しながら、各国との緊密なやりとりをする以外に、動かすべき駒はない」


 イワノフスキー内務大臣が、いやに青白い肌に浮かぶ汗をハンカチで押さえながら言う。


「大統領、我が国に核攻撃をせんとする国はないのでしょうか?」


 ドミトリチェンコ国防大臣が丸刈りの頭の生え際に青筋を立てて、マリーニン大統領の憤りを代弁する。


「端末に届いた状況報告を、しっかりと読みたまえ。情報は常に更新されているのだぞ。まあいい、改めて説明する。現在のところ、北大西洋条約機構と東南アジア・オセアニア条約機構の加盟国は、中国との交戦に注力しており、我が国への攻撃の兆しはない」


 マリーニン大統領が言葉を繋ぎ、補足する。


「ただし、中国との交戦が終結したのち、我が国への先制攻撃が行なわれないという確証はない。楽観はしないように」




 すらりとした長身を誇るペトロフ対外情報庁長官が挙手をして、大統領の言葉を遮った。


「大統領、スパイ衛星によって得られた情報の分析結果が出ました。西側諸国は、中国から放たれた大半の多弾頭核ミサイルの迎撃に成功したらしく、ほとんどのミサイル基地は、ほぼ無傷の状態を維持している模様で、引き続き、中国への核攻撃を行っています。対する中国側は、迎撃に失敗して壊滅的な被害を受けています。そう長くはもたないでしょう。日本は、中国から距離が近いこともあり、超音速高機動無人ステルス攻撃機での局地的核攻撃によって壊滅状態に陥っています。日本のロシア大使館にいる駐在員との連絡が取れないので詳細を確認できませんが、衛星画像による分析に誤りはないでしょう。日本に対する警戒は、もう必要ありません。今後は、北大西洋条約機構加盟国のみに照準を絞るのが適切かと」


 突然、ドミトリチェンコ国防大臣が低い声を上ずらせながら報告した。


「報告します、大統領。中国が再度、大規模な核攻撃を実施しました!」

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