蘇る獣

 ケントは、霰弾壁さんだんへきの小岩に抉り取られてボロ切れ同然となったコートを壮絶な向かい風に靡かせながら、線路を過ぎ行く電車を次々に追い越して真っしぐらにT市へ向かって疾走する。

 吹き抜ける風の冷たさは認識できても、それはもはや彼を凍えさせも震えさせもしない。


 アヤカ。

 その名一つを頼りに、ケントは朝焼けに照らされた人気のない荒地を、見覚えのない田園風景を、山道を、線路伝いに駆け抜けた。

 道に迷う心配はなかった。見知らぬ土地を一人で行く孤独もなかった。何故だかケントは、自身の行く手を照らす明確な何事かを感じ、その衝動に突き動かされるままに際限なく湧き出る力を何の呵責もなく奮い、途中で足元を掬わんとする植木や石垣、木立を薙ぎ倒し、稲穂を踏み散らかしながら、ひたすら駆けに駆けた。


 ……が。


 根拠のない妄念による確信と、それがもたらす快感はそう長くは続かなかった。

 一つのビルが目に入ると、ケントの身を焦がす衝動は一気に削ぎ落とされた。さらに一つ、二つ、三つ四つ……人の匂いが濃厚に染み付いた、冷厳たるビル群は高ぶった気持ちを瞬く間に消沈させた。

 人里へは意外にも早く辿り着いた。いつか見た、閑散としたT市の通り。朝靄あさもやに包まれ、人通りはない。ケントは今朝になって初めて確固たる「孤独」を感じた。


 先ほどまで、もはや脅かされることなど何もないと確信を持っていた筈の体を、いつもの如く両腕で抱き竦めるようにして、それでも恐る恐る通りへと一歩を踏み出した。


 アヤカ。

 その名がケントを突き動かす。しかしこれは一体何だ?

 一度背を向けた彼女に、なぜ今になって会いたがる。そう、この身は昨晩散々に穢してきた。いやそれどころか、この身などはもうないのかもしれない。

 自分は間違いなく霰弾壁に身を投げ、かつて自分であった物の残骸をその壁面に見たのだ。

 本体は波にさらわれたか、地獄に引きずり込まれたか……


 何にせよ、今ここに立っている己は己ではない。何一つ変わっていない筈の早朝のT市の景色が、今のケントには全くの別物に見えた。

 そして遂に、朝靄に紛れる一つの人影が見えた。言い知れぬ恐怖感がケントのうちに込み上げる。


 アヤカ。

 その名がまた、一層強く頭に響く。

 この人影は誰のものか。女性のものであってほしい。あわよくば、アヤカであってほしい。

 いや、或いはそうでない方が良いのかもしれない。一体今の自分は、何を求めて、何を恐れてここに立っているのだろうか?


 ……やがて姿を見せたその人は、女性であった。薄茶色のトレンチコートに身を包み、それよりも明るい茶髪をマフラーに差し入れた、若く派手な女性。

 かなりキツい香水をつけているようで、車線二つ隔てた程の距離のある今でも激しく匂ってくる。が、ケントはまたとてつもない違和感を覚えた。

 そんな香水の匂いを突き破って、女の体臭が己の鼻を刺したのだ。


 ケントは己が、全身の血が逆流する程の劣情に駆られているのを感じ、己を抱き竦める腕を一層強くして、転げ回るように裏通りへと逃げ込んだ。


 何だこれは……何が起きた……


 それは、ケントがアヤカを見るにつけ感じていた劣情や、また彼女に言い寄るチンピラを見るにつけ感じた同族嫌悪などを、遥かに上回る強烈な欲望であった。

 己の中に忌まわしきけだものを見たケントは、条件反射の如くボロ切れと化したモッズコートの袖を捲って左手首を見た。そして目を剥いて驚愕した。


 そこには、折につけ散々に刻み込んだ「自罰の傷跡」が、のだった。

 裏通りへ隠れても、女は平然と歩行を続ける。その甘い体臭がケントの鼻孔を突く。忌まわしい獣が体内で暴れ回るのを感じる。


 ガリッ


 ケントは不意に傷の消えた自らの左手首に、思い切り噛み付いていた。

 メリメリと音を立てて、歯は確かにその手首に食い込む。


 が、痛みは感じない。血も出ない。傷口からは代わりに、まるで芋虫の体液の如き緑色の汁がドロドロと滲み出てきた。


「ヒッ……!?」


 ケントは思わず小さく悲鳴を上げ、地面に倒れ込んだ。ブルブルと震える左手首からは尚も暫く汁が溢れていたが、やがて止まった。傷口は煙を上げて塞がり、漏れ出た体液は深緑のモッズコートに染み込み、すぐに乾いた。


 何だ、俺の体は……俺は一体どうなった


 女の匂いはいつの間にか遠ざかっていたが、尚も錯乱するケントの頭に、またユミコの嘲るような声が響いた。


『ヤっちゃえば良かったのに』


 ケントは憤激のあまり歯が粉々に砕けんばかりに噛み締め、姿の見えない声の主を睨みつけるように、狂気に満ちた四白眼を天に向ける。そして荒れた呼吸を整え、フラフラと立ち上がる。


 表通りは危ない。裏通りを行こう……


 アヤカ。

 その名は尚も、ケントの頭から消えはしなかった。


 会ってどうする。どうなっても知らんぞ、仰木おおぎケント。


 自問自答は絶えず爆発しそうな自我を苛んだが、ケントは歩くことをやめなかった。

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