死?

 薄暗がりの中、再びいつものモッズコートに身を包んだケントは呆然と、目の前の断崖絶壁を見下ろしていた。


 ケントはこの場所を知っていた。

 至羅浜。霰弾壁さんだんへき。国内随一の自殺の名所だ。


 切り立つ崖一面に無数の小岩が突き出し、飛び降りる者の命を削り取る。正気でいれば見るも悍ましい崖だ。


 数十年前に肝試しに訪れた学生の一団が、一人残らず飛び降りて死んだ伝説の未解決事件「至羅浜霰弾壁集団怪死事件」発生以来同様の小事件が続出し、ケントが生まれる頃には本気の自殺志願者以外は決して訪れぬ禁足地きんそくちとされていた。

「霰弾壁は地獄の入り口」。まことしやかに、そう囁かれていた。


 そこに今、立っている。

 崖を見下ろすケントの傍らには、再びPコートとクローシェを身に付けたユミコが立っている。


 何のことはない。

 ユミコに導かれるままに部屋を出て、今にも崩れ落ちそうな朽木の階段を登り、湿気と苔の匂いが充満した廃屋を出ると、すぐ目の前に霰弾壁があった。ただそれだけの話だ。


「懐かしいんじゃない」


 自身の体験を当たり前に知っているユミコの言葉に、ケントはもう驚きもしない。


「うん、まぁ」

「そこ、前に立ってたとこと丁度同じぐらいの位置よね」


 ケントがここへ来るのは二度目だった。生きる気力を失いかけていたケント少年が立ち、シミズ神父と出会ったのがまさに、この岸壁だったのだ。


「『霰弾壁は地獄の入り口』。あなたが殺した奴らは、あなたの代わりにここへ引き摺り込まれたのかも知れないわね」


 ユミコの笑えない冗談を聞き流しながら、ケントは絶壁に突き出る無数の小岩を見た。薄闇に紛れてよく見えないが、その先端の至る所に黒血がこびり付いているような気がした。そして今にも、そこへ引き摺り込まれそうな気がした。


「あなたがそこへ飛び込んでも、そいつらと同じ所へは行けないわよ」

「うるせーよ、さっきから」


 ケントは視線を崖からユミコへと移した。まるで空洞のような虚ろな目を。


「いつもの怖い目、しないのね」


 ユミコは少し残念そうに笑ってみせた。ケントも少し頬を緩めた。


「もういいよ……疲れちった」


 悲しげな微笑だった。ユミコはケントに歩み寄り、その肩を抱いた。


「俺童貞ドーテーだったけど、あんた、一人目ってことでいいの?」

「……さぁね」


 ケントは苦笑した。


「ホント、結局何なんだよ、あんたはさ」


 ユミコはまたケントの肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。


「どうだっていいじゃない。どうせもうすぐ終わるんだから」


 ここ至羅浜は、その気になればいつだって辿り着ける場所だった。ケントが今日も乗っていた電車で。

 最後に見たアヤカの顔が頭に浮かんだ。心が死んでから、いや産まれて此の方ずっと送ってきた代わり映えのしないの中に僅かにあった甘い期待も、昨日の夕方、完全に途絶えた。


 「頃合いかも」と思っていたケントの心境は、ユミコには最初からお見通しだったわけだ。


「そうだな」


 ケントは力なく呟いた。


「私も一緒に飛んであげる」


 ユミコの言葉は、既にして抜け殻と化したケントの耳にも多少の驚きと共に伝わった。


「はぁ?」

「そうすれば、ずぅっと一緒に居られるもの」


 何を言ってんだ、この女は。

 ケントは流石に辟易した。同時に、この女はもしかすると死なないのかも知れない、などと思ってもいた。


「まぁいいよ……何でも」

「すぐ分かるわ」


 ユミコはそう言って、ケントを胸に抱き寄せた。夜風と海の匂いに紛れていたローズの香りが、再びケントの鼻孔を突いた。


ね。後は、痛くないようにしてあげる」


 また、わけの分からないことを。

 その真意を確かめるのも最早面倒だった。ユミコの腕の中から、横目に崖下を見下ろし、目を閉じた。そしてゆっくりとその体を横に傾け、力を抜いた。


 闇の中で確かなものは、背に回され強く自身を抱き竦めるユミコの腕と、鼻を刺すローズの香り。そして霰弾壁の壁面スレスレを伝い真っ逆さまに落ちて行く体を、切り裂くように吹き抜ける突風。


 やがてこの体を壁面から無数に突き出る小岩が襲い、砕く。が、ユミコの首筋に顔を埋めていると、そんな恐怖は不思議と、綺麗さっぱり消え失せた。

『痛くないようにしてあげる』。その言葉が今になって、不思議な説得力を持ってケントの心と体を包んでいた。


 やがて一度目の衝撃が、ケントの体を襲う。


 グシャッ


 惨たらしい音が鳴り、背中に違和感を覚えた。ケントは、背中が無くなったことに気付いた。


 ズンッ、メリッ、グシャッ


 体が少しずつ欠けてゆく感覚と共に、意識が遠のく。痛みはない。風が、失った体のそこかしこを覆うように吹き抜ける。


 ケントは心地よい終わりを感じた。


 あぁ、これで終わりか。こんなに気持ちのいいものなんだ。

 あの時、さっさと飛び降りちまえば良かったなぁ。

 無理に苦しむことはなかった。誰かを手にかけることもなかった。アヤカを苦しめることも、こんな女に関わることも……


 不意に、ユミコの声が耳に流れ込んだ。


「ごめんね」


 これまでにない、深刻な声。ケントは思い出した。


『そうすれば、ずぅっと一緒に居られるもの』


 ケントの頭に流れ込んだのは、両親と担任教師、クラスメイトの命を奪った記憶。人ならざるこの女に身を預けた記憶。辛うじて開く目の前には、確固たる「死」が迫る。だが……


 まだ、終われない?


『あなたの意志で飛んでね』


 死にゆく筈のケントが感じたのは、強烈な不安。

 直後、小岩に削り取られたケントの体は霰弾壁の麓に吸い込まれ、完全に砕け散った。

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