アヤカの嘘

『己を律するための自傷……?』

「あぁ、そう言っていたらしい」

『はっはっはっはっ! なんだあいつ、本物の気狂いだな』

「くくっ、生まれつきだろう。何せあいつは……くっくっく……」

『何せ、な。くっふっふっふ……おかしい。それで狂っている自覚がないんだから余計におかしい』

「全くだな……ところで、この件はどうする。報告するか?」

『あー……いや、いいだろう。それならそれで、今やっていることがそのまま最高の拷問になる。計画以上の成果だ』

「問題はいつ明かすかだな。中途半端に気力が残っている状態でやれば殺されかねん」

『いや、それはもう大丈夫だ。あいつはもう殆ど生きた屍。既に計画は達成されたも同然だ。後はもう道楽だよ、道楽。いずれにせよ、もう少し仲良くならせてから明かした方がより面白い』

「そうだな……そう言えば、明日アヤカは休みだぞ」

『本当か! よし、なら昼から行こう』

「あぁ、来い来い。ではトモコとケントは適当に外出させて……」



 ♦︎



 翌朝。昨晩、失血によって気絶するように眠りに落ちたケントを、窓から差し込む朝日が強引に叩き起こす。

 照らされた部屋に、新品のまま埃を被って散らばっている本は、ノガミに勧められた精神医学関連の本やエッセイなど。


「私の更生」、「アドラー心理学」、「神に与えられた体を傷つけてはいけない十三の理由」……


 こんなもの、何の役にも立たない。ケントの煩悶はひたすら己の内側から生ずるもの。周りがどうあっても変わるものではないのだ。


 今日は何をしようか……


 埃まみれの床に投げ捨てていたコートを摘み上げ羽織り、部屋の戸を開けた。

 が、部屋の外へ足を踏み出すことはできなかった。そこにアヤカが立っていたから。


「あっ、ケントさん……」


 出てきたケントの青白い顔を見上げながら、アヤカは口をパクパクさせて立ち竦む。

 ケントは何も言えず、何も考えられず、ただ無意識に目の前の彼女を観察していた。


 既に支度を整えている彼女の服装は、薄茶色のPコートにロングスカート。長い黒髪はグレーのストールに差し入れられ、ふんわりと丸くなっている。

 そう言えば、今朝は随分冷える。冬の匂いに目の前のアヤカの香りが混ざる。数年前、出会いの日を思い出し、ケントの胸は高鳴った。


「おはよ」


 無遠慮に見過ぎていることにようやく気付いたケントは慌てて目を伏せ、同時に小さく挨拶した。


「お、おはようございます。実はこれには訳が……」

「これ?」

「えっ、あ、あの」

「あっ、あー、そうか」


 そう、ここは男子用の別邸。女子は、ノリコも含めて立ち入り禁止であるはず。動揺のあまり中々気付けなかったケントは、照れ隠しにキョロキョロと辺りを見渡し、頭をかいた。


「今日バイト無かったはずなんですけど……欠勤が出たからすぐ行かなきゃいけなくなって。それで、ケントさん呼んでおいでってノリコさんが……」

「あぁ、そうなの。そりゃまた……うん、分かった。すぐ行くよ」

「あ、あのっ、急いでくださいっ……す、すいませんけど……裏口から出ましょう。その方が近いし」

「え? 正面からじゃないとミツルさんが」

「き、今日はいいってノリコさんが言ってました!」

「……そうなの?」


 ケントはアヤカの態度と言葉の端々に違和感を覚えながらも、ともかく言われた通りに動くことにした。



 ♦︎



 いつになく強引なアヤカに押されて、半ばなし崩し的に裏口から屋敷を出たケントは、やけに早足にホテルへの道を急ぐ彼女の様子を訝しんだ。

 いつもなら自分が先に立って歩き、それを彼女が追う。無言なのはいつも通りだったが、彼女の後を付いて歩くというのが初めての体験であった為、ケントは気分が落ち着かず何度か足を縺れさせそうになる。


 考える間も殆どなく、すぐにホテルに着いてしまった。アヤカは従業員口に手をかけ振り向いた。


「あ、あのっ、すいませんでした……突然」

「いや、いいよ。バイト頑張ってね」

「ハイ……あの、ちょっとここで待っててくれませんか?」

「え、なんで?」

「あ、あの……ノリコさんが、ケントさんにお話があるって」

「ノリコさんが……」

「そ、そのっ、お願いしますっ。動かないで下さいねっ」


 言うが早いか、アヤカは従業員口を開けて中へ入っていってしまった。

 取り残されたケントは呆然と立ち尽くしながら、膨らむ疑念に頭を悩ませた。


 おかしい。


 いくら急ぐからと言って、ノリコが前科者しかいない男子邸に女子を入れさせるだろうか?

 当日欠勤がそれほど重要なこととも思えないし、そこまでアヤカを急がせておいて、話があるからここで待たせろ、なんて指示までしたのか?

 全部勘繰りでしかなかったが、アヤカの態度も、やたらと出て来るノリコの名前も、何もかも嘘臭かった。


 ミツルに一言も告げず出て来て良かったのか? なぜ何も言えず、ここまで着いて来た……


 自責の念と不安から腹痛が起こり、しゃがみ込もうとした瞬間に従業員口が開いた。

 ノリコか? ノリコなら、この不安は全て杞憂だったことになる。が……


「あ、あの、ケントさん……」

「あれ……」


 出て来たのはアヤカだった。


「どうしたの?」

「その……ノリコさんが、やっぱり今日いいって……」


 またノリコ。不自然過ぎる。彼女なら自分が出て来るはずだ。


「そうなの……話も?」

「はい……」


 極めてバツが悪そうに言っているが、これは果たして徒労をかけたことへの申し訳なさから来るものか。そうでないとしたら、一体何を考えている?


「……じゃあ、帰ろっか」

「いや、あの」

「ん?」


 アヤカは俯き、モジモジと手揉みしながら歩み寄る。


「折角なので、何かお詫びさせてくれませんか?」


 絶対におかしい。

 疑念は確信に変わったが、高鳴る鼓動がそれを口にさせてはくれなかった。

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