第5話

「K626が全く動きません」

 と諏訪研究員から私に報告があった。

「死亡確認をしたいのでチーフ立会をお願いします」

 あの牛頭人身の異形の怪物の絶食テストはすでに九日目になっていた。もういつ息絶えてもおかしくない頃合いである。私は諏訪研究員と共に収容棟まで歩いた。収容室の鍵は私が持っているのだ。

 白衣姿の何とも清楚な諏訪研究員は二十六歳。私より六つ若い。そして私と同じく既婚者である。私と違うのは彼女には二人の子供がいることだ。旦那様はお堅く市役所に勤めているとか。いつも控えめで穏やかな諏訪研究員はきっと家庭でもよい奥さん、よいお母さんなのであろう。私は彼女が人の陰口を言ったり愚痴をこぼしたりしているのは聞いたことがない。

 私はそれなりに色の白いのが自慢の女なのであるが、諏訪研究員の透明感溢れる柔肌の前ではその自慢も恥じらいに変わってしまう。女として私の持っていない全てのものを彼女は保持していた。柔らかく、優しく、甘いものである。そのため私はしばしば諏訪研究員に嫉妬していたが、最近はもう嫉妬にも疲れて来て、彼女のようになれたらどんなにいいだろうか……などと諦めの心境になっていたところだ。前にも言ったが生物というのは変わって行くのである。逆に言うと環境に対して変化しなくなってしまうと、それは生物として終わっていることになる。変われる以上私はまだ大丈夫なのだろうか?

「K626」は白く狭い収容室の隅で横たわっていた。生臭い独特の異臭が彼の周りに静謐に満ちていた。

 どうやら絶命していたらしい。

 私は内心いくらかホッとしていた。肩の荷が下りたような。

 いくら新生物とはいえ餓死などという最も残虐な方法で死に至らしめるというのは研究者としても心苦しい所があるのである。

「ここに来てから九日ですが……この子もよく頑張ったと思います」

 諏訪研究員が低く落ち着きのある声で言った。「この子」などと実験動物に対して無用な愛着を示してしまうのは女性研究者の悪い癖である。だが今の場合に限っては彼女のそういう優しさが神聖なものに感じられて私も深々と頷いた。

 しかし

 そんな白衣の女二人が死亡確認のためにこの獣に近づいた時、その獣の耳がピクリと動いたように私の目に見えた。その微かな動きは諏訪研究員の目にも入ったらしく彼女は慌てたようにしゃがみ込んで、獣の手首を握った。

 私は私で立ったまま改めて「K626」の全身を見つめた。巨体は骨と皮ばかりに痩せこけているかといえばそうでもない。むしろゴリラのような逞しさが維持されている。暗灰色の体表の所々に大小様々な腫瘍が盛り上がっている。全裸の体のその股間には人間の男性と同じような外部生殖器がだらりと垂れ下がっていた。その生殖器もまたピクリと動いたかのように見えて、私は息を飲んだ。

「脈が……あります。生きています」

 静かな声で諏訪研究員は言った。その声音には妙な熱っぽさが籠っていた。

「脈拍は……一分間に十回ぐらい……まるで冬眠中の熊並みですが……生きています」

 彼女は自分の腕時計と睨めっこをしていたので、獣の体に起こった更なる大きな変化には気づかなかった。私は思わず悲鳴に近いものを漏らしかかっていた。

「K626」の口から舌が伸びていたのである。あの舌が。

 私に飛びかかって来た時のような敏捷さではなく、ゆっくりと。まるでピンク色をした蛇のようにヌラリと。どっぷりと粘液をまみれさせながら……その舌はしゃがみ込んだ諏訪研究員の顔面に近づいて……そうして彼女の愛らしい口元をドロリと舐めたのである。

 諏訪研究員は自分の身の上に何が起きたのか理解していないようだった。まるで強烈な右フックを食らったボクサーのようにフラフラと頭を振ると、その場にペタリとへたり込んでしまった。そうだ、あの獣の粘液は私の体にも衝撃を与えた。もし体質的に私よりももっと敏感な人がいるならば、きっと今の諏訪研究員みたいな反応をしたに違いない。

 ヌラリとした舌はそれ自体で意思を持っているかのようだった。諏訪研究員を驚かせるのに大いに成功したはずなのにそれだけで満足することなく……更に彼女の口元を舐め上げた。その唇に沿って横に動いた。どこか狭い所を、暗くて温かく湿った所を探しているかのように。彼女の優しい体内に入り込もうとしているかのように。

 諏訪研究員は短い悲鳴みたいなものを上げたが、しかしその場から動けなかった。しゃがみ込んだその膝も背中もガタガタと震えていた。震えながら彼女は獣のキスをその愛らしい口に受けていた。おぞましいのに、しかし拒絶することができない。まるで生まれて初めての性行為に戸惑う処女のように。

 獣の舌が二度三度と求めるように諏訪研究員の唇を突くと……彼女は催眠術にかかったかのように抵抗心を失った。へたり込んだまま両腕が下げられ、あごが持ち上げられた。唇が花のように開かれて、おぞましく太太した先端部分が彼女の口腔にヌラリと入り込んだ。

 私は何かを叫んで諏訪研究員の白衣に包まれた体を抱き起こした。獣の舌は手で振り払った。そうして抱き起こした時に――私は彼女の膝の下に水溜まりを見た。わずかな色とアンモニア臭。

 獣を体に受け入れた時、彼女は床の上に失禁していたのだ。

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