第3話

 品川は東京で最大の要塞町だ。人口は約四万人。元は二十一世紀の生き残りの人々の集まった小さな漁村に過ぎなかったが、海上の水利を使った物流の拠点として発達し、観光業を起爆剤にして更に大きく発展し、その成長は今も続いている。誰が呼んだか東京湾の女王とはこの品川の異名だ。生き生きとした血液の脈動の如く多くの物や人がこの町を出入りして、旧世界の廃墟の森の中の心臓として常に活気に溢れている。

 海上に浮かぶモンサンミッシェルを思わせる島が元の品川の本島であるが、今は陸地側にもその領地を広げて、私たちの研究所もその陸地側にある。ただ厳格な意味での本土ではなく海岸沿いの出島に立地している。隔離しておかねばならない生き物がそこにいるからだ。

 品川には何でもある。

 学校もあるし、病院もあるし、警察もある。旅人のためのホテル、無数の飲食店、大きな書店、海水浴場、孤児院、そして街中に立ち並ぶガイドたち。

 ガイドというのはきちんとした制服に身を包んだ観光ガイドの女たちであるが、その実体は売春婦である。私の大嫌いな女たちであるが、この女たちを目当てに東京中から多くの男たちがこの町に集まり、そうしてお金を落として行き、この品川の経済的繁栄に貢献しているのもまた事実だ。

 昔からそうしたものであるが、娼婦というのは専業の娼婦とは名乗らない方が値打ちが高く見られるものである。「援助交際」などという言葉がその昔流行ったが、専業の売春婦が売春をするより一般の女子高生や主婦がアルバイトとしてそういうことをする方が顧客である男は喜ぶのだ。万葉集に登場する遊行女婦、中世の白拍子、あるいは歩き巫女、傀儡などなど、表向きは別の職業に従事しているようで、裏の顔として売春も行うというパターンが昔からあった。近世娼婦は女郎などと呼ばれたが、この女郎なる言葉は元々貴族のお嬢様を指す言葉である。ヨーロッパの高級娼婦が○○男爵夫人などと名乗るのと同じ原理で、さらには昔のテレビタレントの「枕営業」も同じことなのであるが、娼婦は娼婦とは思わせない方が高く売れるというのは逆説でもなんでもないのだ。

 品川にはおおよそ二千人ものガイドがいるという。これは品川に住む女の十分の一に相当する数である。この中には専業のガイドではなく休日だけガイドとして働く一般のOLや主婦なども含まれているという。中には裕福な階級の奥様がガイドを勤めることもあり、以前に一週間の限定だったが市長夫人がガイドを勤めた時は大変な話題になったものだ。

 端正な制服に身を包んだその姿は品川の町を飾る花そのものであり、繁栄の象徴たる栄光の盾のようであり、品川の少女たちにとっては将来なりたい職業のナンバーワンであるとか。私などとは全く別の感覚であるが、元々結婚相手をその収入によって決めようとする傾向のある一部の女にとっては、お金の代価として自分の体を売るという行為にさして違和感を覚えないのかも知れない。特にそれが一時的なものならば尚更である。

 


 コバルトブルーの海に白いカモメが舞い、そして大小様々な船が白い帆を上げて品川の港を出入りして行く。広重の浮世絵のように美しい光景であるはずだが、観光客ならぬ地元の人間である私などにとってはすっかり見慣れた風景であるので心動かされることも少ない。美の美たる所以はその希少価値にあると誰かが言っていたが、ここでは美もインフレを起こしてしまっているようだ。それは丁度ハダカやセックスの垂れ流しがポルノをポルノではなくしてしまうのと同じことなのだが、これは例えが粗末であろうか。

「ユリカモメの頭が黒くなっている。もうじき北に帰るのだろう」

 そう言う夫の言葉に私は機械的に頷く。海の近くのカフェレストランである。私も夫も白衣姿のままでここに昼食に来ていた。

「大きなセグロカモメも北に帰る。夏になっても残っているカモメはウミネコだけだ。あのニャーニャーと鳴く奴だね」

 私は米コーヒーをすすりながら、ぼんやりと四月の海に目をやる。季節は冬から春になり夏となる。色々なものが移り変わって行き、海もカモメも夫も常でいることはない。

 近くの席の老人が新聞に目を落としながらブツブツと独り言をしている。そういえば夫もこの頃独り言が多くなったような気がする。まだ三十代であるが、はっきりと老化の兆しは表れているのだ。いわゆる大恋愛の末に優秀な夫を選んだつもりだった。だがその優も秀も不変であるはずもなく、この人もいずれあんな風な独り言の老人になるのかと思うと私は少し暗い気分になった。

「ウミネコは鳴き声以外にも尾に黒い帯があるので判別しやすい。ユリカモメの若鳥も尾に黒帯はあるのだけれどユリカモメの嘴と足は赤い。伊勢物語にも記述のあるユリカモメの一大特徴だね。もっともそのユリカモメも若鳥の時は嘴も足も黄色いからややこしい……」

 夫はまだ得意気にカモメの話をしている。何年も結婚生活を続けていながら、私がカモメなんぞには興味もないのも知らないらしい。私は無意識的に脚を組み直し、パンプスのヒールで床を二三度小突いた。海からの風が少し寒く感じられて、白衣の上から黒いカーディガンを羽織った。

 別れることなどは考えない。

 それは自分を否定することである。

 この男を選んだ自分の判断を否定することである。

 そうして惨めな独身者という地位に転落する。

 友人知人たちは憐れみという視線で私を見下すことだろう。

 想像するだにおぞましいことだ。

 私は軽く首を振って息を吐いた。

 私たちの隣の席に制服姿のガイドが座った。その対面に中年男が座る。ガイドの客なのであろう。ニヤニヤとした中年男の顔に私は強い不快感を覚えた。

「出ましょう」

 と夫に短く言って、飲みかけのコーヒーに湯気を立てたまま私は席を立った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る