新生物

@ennoshin

第1話

 冷たい靴音が白い廊下に響く。

 白衣の女と男が一人ずつ。

 私のヒールの音は固く響き、吉沢研究員のサンダルの音は鈍い。その二つの靴音は一つのドアの前で止まった。

「K626」とそのドアのプレートに書かれてある。この部屋の番号ではない。この中にいる物の識別番号である。

「今日で七日目になります」

 吉沢研究員が私に言った。大柄で太めの体形をしていて、まだ二十代であるのに髪が薄くなりかけている男である。ドアに付いた小窓を開けて、鉄格子の隙間から中を覗き込み、それから一歩引いて私のためにスペースを作った。

「先ほどの計測で体温は三十三度。脈拍は一分間に十二回。体形の変化は見られません」

 吉沢研究員の説明を聞きながら私も小窓を覗いた。鉄格子の隙間から独特の臭気が鼻を突いた。腐った牛乳に糞尿を混ぜてドブ川の水を加えて温めたような……と表現すれば適当であろうか。我々研究者はもう慣れてしまっているが、この研究所が要塞町の出島に作られたのもこういう臭いが忌諱されたせいもあるらしい。

 三メートル四方ほどの白い部屋の隅でその獣は横たわっていた。

 いや、うっかり獣と言ったが、もしこの生き物を初めて見た人がいるならば、その人の目にはこれが「獣」には見えなかったかも知れない。「ナメクジ」が横たわっているように見えたかも知れない。そんな滑りを感じさせる暗灰色の皮膚をしていた。

 二本の脚に二本の腕がある。

 身長は二メートル二十センチほど。ただしこの数値はしばしば変動する。

 この「K626」の一番の特徴はその首から上で……牛か馬を思わせる長い顔をして、頭には湾曲した二本の長い角が生えていた。まるでギリシャ神話に登場する半獣半人の怪物そのものだった。

「一週間全く体形の変化がないとすると……ヴェネツィア型の可能性かしら?」

「そうですね。まだこの先どうなるか分かりませんが」

 吉沢研究員は優柔な性格なので断定的なものの言い方をしたがらない。私はいくらか気の短い方なので、吉沢研究員のこういう鷹揚さに反感と安堵の両方を覚えている。いやいや、夫を始め大部分の男を見下してしまうのは私の悪い癖だ。

 獣はぐったりとしたナメクジそのもののように床に横たわったままだった。この研究所に運ばれてから七日間、何の食事も与えていなかった。絶食テストの最中だった。

「さすがに大分弱っているよう」

「はい。今までの最高記録が二週間ほどで、最短記録が一週間ほどですから……」

「そろそろかしら?」

「そうですね。まあまだ分かりませんが」

 いつも何も分からない吉沢研究員に軽く苦笑しつつ私は鉄製のドアをコンコンと叩いてみた。部屋の奥にいる生き物はわずかに首を動かした。これで音に敏感な生き物なのである。あの神話の怪物も暗い迷宮の中で暮らしていたそうだが……。

 牛の顔の目が私を見て不気味に光ったように見えた。気のせいかも知れない。隣では吉沢研究員が私の獣に対する挑発行為に困惑したように頭を掻いたり足元を見つめたりしている。そんな風に俯くとこの男の薄毛はいやが上にも目立つ。これで本人も気にしているようで、研究所の外では必ず帽子をかぶっているとか。隠したからといって薄毛が治るというわけでもないのだが、本人はそうやって何かを誤魔化すことで満足しているようである。誤魔化せば問題が解決するというわけでもなく、かといって自らの薄毛に自信を持つまでには至らない。この吉沢というのはそういう男だった。

 私はもう一度神経質な響きでドアを連打してみた。あの獣が憎々しげな目をして私を睨んでくれたら面白いと思ったのである。私の意に反して獣はほとんど動かなかった。

「あれじゃあやっぱり長くないわねえ……」

 そう言って私が小窓から顔を離そうとした時、何かが私を目掛けて飛来した。

 その何かは、鉄格子の狭い隙間をものともせずに、鮮やかに私の顔面に命中した。衝撃とそして生臭い臭いによって、一瞬私の頭は真っ白になった。

 それは――舌だった。

 カメレオンが獲物を捕らえる時に長く舌を伸ばすように、あの獣は私目掛けて三メートルもの舌を矢のように放ったのだ。

 べっとりとした粘液が私の鼻と唇に引っ掛かった。臭いのきつさに私の顔は大きく歪んでいたはずだ。

「チ、チーフ」

「何でもありません」

 吉沢研究員が顔を青ざめさせていたので、私は殊更に冷静を気取らねばならなかった。

「まだあんな元気があるんじゃ二三日は持つでしょう。よく観察していてね」

「は、はいチーフ」

 獣の粘液はハンカチで拭い、そのあと口をすすいで臭いは流し去った。私達は研究者なので、あの新生物の体液に大した毒性などない事は知っていた。その事件とも呼べない小事件はそれだけの事だったはずだ。

 だが。

 だが……なぜか奇妙な痺れが翌日まで私の唇に残った。いや本当は翌日などではなく、あの異様な痺れはそのあとかなり長く私を支配していたのだ。支配という言葉はもしかしたら私を自己正当化してくれる言葉かも知れないので、私は自ら好んでそういう語彙を選んでいる。

 私の口に粘液を塗り付けたあの生物は、その瞬間あの牛の目でニヤリと笑ったように私の目には見えた。汚ならしい中年男のように嫌らしくである。


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