3、鏡

 乗せたのはスーツの男と、少しサイズの大きなレディススーツに身を包んだ女性のふたりだ。

「そうなんですかー? わたし、そういうのよくわかんないんですよねー」

「そういうもんだよ。キミは男性に対して考えを改めないとだーめ」

「えー、なんでですかー」

 ふたりは後ろの席で仲良く話をしている。私は無言のままタクシーを走らせた。

 しばらく後ろからの賑やかな会話を聞き流しながら運転し、やがて目的地についた。ふたりが並んで降りるわけではなく、降りたのは男だけだ。

「じゃあまた明日ね」

「はーいお疲れ様でーす」

 女性だけが残り、私は男から次の行き先を聞いて、タクシーを走らせる。

「あーあ」

 後ろの席から息を吐く声が聞こえ、鞄からなにかを取り出す音がした。

「うっざ」

 続けて聞こえてきた女性の声に、私はわずかに眉を寄せた。

 バックミラーから後ろを見ると、彼女はスマホをいじっていた。

 一瞬、目が合う。ほんのちょっとの気まづさに私はすぐさま視線を反らすが、

「だって、うざってーじゃん」

 そんな私の視線を見てか、彼女ははっきりとした口調で言う。

「つまんねー話に巻き込まれるほうの身にもなれってんだよな、相槌打つのも大変なんだっての」

 息を吐くようにして言う。

 私は再びバックミラーを見ると、彼女と目が合った。

「男ってしたり顔でなにもかもわかっているー、みたいな話するじゃん。ホント、いい迷惑」

 こちらを向いたまま言葉を続ける。私は言葉を返すことができなかった。

「あ、ヒロ? ウチ~」

 私が言葉を出せずにいると、彼女は電話を始める。声のトーンが、先ほどの独り言とも、男と話していたときとも違う。本命の相手だろうか。

「うん、今終わったとこ~。また前に言ってたクソ上司と一緒だったー、サイテー」

 彼女は電話に向かってそんなことを言う。

 クソ上司、か。

 先ほど、そのクソ上司と話しているときはそんなことを言うような人にはとても見えなかった。

 彼女の本性はこちらなのだろう。そして、きっとそのことをそのクソ上司さんは知りもしない。

 人から向けられる好意を利用し、自分の立場を、立ち位置を確立している。

 それも賢い生き方だとも思う。

 クソ上司さんはそのことをおそらく知りもしないだろう。彼女に対する下心や、恋心もあるのかもしれない。その相手にこんな風に言われているなんて、きっと、思ってもないだろう。

 きっと、彼女が表面的に見せる笑顔に好意を持った。その内側が見えないのか、それとも、見ようともしないのか。

 前者なのだろう。きっと人は、人の隠していることなんて見えやしない。

 その奥にあるものに気づけば傷つくかもしれない。気持ちが揺らぐかもしれない。

 それは、怖い。

 いくら好きな相手でも、そうだ。

 もし、自分の想い人が、とんでもない秘密を抱えていたとしたら……

 その胸の痛みに耐えられる人間が、この世界にどれほどいようか。

 私は小さく、静かに息を吐いた。

 他人の胸を無意識に締め付けていることにも気づかず、彼女は本命の相手に笑顔と猫なで声で話を続ける。

 やがて目的地に到着しても彼女は電話をしたまま、無言で料金を払い、確認もせずに釣りを受け取り、そのまま車から降りた。

 人に対して向けらえる、好意。

 それに対してどう答えるか。もちろん、必ずしもそれに対し、好意的な感情を抱く必要性はない。

 でももし。その気持ちに対して、悪意のある接触をしてしまったら、そのときは。



 まさか、2日連続で同じ客をタクシーに乗せるなんて思ってもなかった。

 だが彼女のほうはそんなの気にもしてないのか、それとも単に気づかなかっただけなのか。

 あるいは本命の彼と話をするのに夢中だったからかもしれない。

 昨日のピシッとしたレディススーツは、真面目で誠実そうなイメージを抱かせた。が、今の彼女の姿はまるで真逆だ。肌色でない部分を探すほうが難しい。

 しかも例の本命の彼の腕を抱き、ぴったりとくっついている。正直、本命だけにするのであろう特徴的なねっとりとした感じの猫なで声がなければ、彼女だと気づかなかったかもしれない。

「ねえヒロ、次の休みいつなのさ~」

 私という存在が見えてないのか、運転手だから無視しているのか知らないが、必要以上にベタベタしながら、猫なで声で彼女は言う。

「悪いな、次のシフトまだ確定してないんだよ」

 本命の彼のほうからは彼女に近づくでもなく離れるでもなく、ほぼ動かないまま言葉を返す。

 それでも時折、彼女のほうに笑顔を向ける。そのたびに彼女は嬉しそうに笑い返し、ますます抱き寄せる腕に力が入る。バックミラー越しにも、それがわかった。

「じゃあねヒロ、今日とっても楽しかった♪」

 やがて、昨日彼女が降りた場所にたどり着き、私はタクシーを寄せる。男は降りないようだ。

「俺もだよ。休み決まったら連絡するから、またなんか食べに行こうか」

「うん! ヒロだーいすき!」

 窓越しに会話する。最後にふたりは窓越しに唇を重ねた。

「じゃあね♪」

 そして、手を振って彼女は去った。男も小さく手を振り返し、そして、私に向かって次の目的地を告げる。

「はあ」

 車が走り出すと、男は小さく息を吐いた。

 なんとなく、その展開に覚えがある。そして私は、その次にどんな言葉が出てくるのかなんとなく予想がついた。

「うっぜ」

 私はなんともいえない表情を浮かべた。バックミラーを見ると、男と目が合う。

「人前であんまりくっつくなって何回言ってもわからないんだよあいつ」

 スマホをポチポチといじりながら、まるで独り言のように呟く。

「いい加減めんどくさくなってきたな」

 次の言葉はため息まじりだった。

「恋人さんですか?」

 私はいままで何度か口にした言葉を、彼にもぶつけてみる。

「まさか」

 彼はすぐさまそう答えた。

「向こうはそう思っているみたいだけど」

 そして、次に聞こえてきた言葉はとても残酷な言葉だった。

 クソ上司さんは、彼女にあまりよく思われていないことを知らない。

 彼女は、本命の相手にこのように思われていることを知らない。

 そして、この男も。

 きっと誰かに、同じように思われている。

 人にしたことは、必ず自分に跳ね返るのだ。

 疑った分だけ疑われ、嘘をついた分だけ嘘をつかれる。

 信頼を裏切った分だけ裏切られ、人を嫌った分、人に嫌われる。

 すべては鏡に映った自分なのだ。

 この男が、彼女が人に対して嘘をつき続ける限り、彼らはずっと、嘘に巻き込まれる。

 そんな彼らに幸福が訪れることがあるのだろうか。

 おそらく、嘘をつき続ける限り、彼らに幸福が訪れることはない。そう、思う。

 そうでないとこの世界はとても残酷だ。人に嘘をつく人間が、人を疑う人間が、人を騙すような人間が、幸福になんてなってたまるか。

 この世界は残酷で、愚かしくて。

 それでももし、神様というものがこの世界にいるというのであれば。

 彼らが嘘をつく限り。

 彼らには、過酷な運命を。

 私はただ、そう願う。



 それから男は、おそらく本命であろう女性と電話を始めた。

 声のトーンがまた変わる。それも、どこかで見た光景だ。

 物語は回り回る。彼とその本命にも、なにかあればいいと思う。

 この世界が、正しくあってほしいがために。

「ありがとう」

 男は降り際、そのように口にした。

 他人に対して、ちゃんと礼を言えるような好青年だ。そんな彼がなぜ、他人を裏切るようになったのか。嘘の笑顔を振りまくようになったのか。

 興味はある。だが、それと同時に聞きたくないとも感じる。

 もし彼が、私と同じように、とあるきっかけによって人との接し方を変えたんだとしたら。

 私と彼は、同じ穴の狢という奴だ。

 一緒にされたくない。でもきっと、本質的に、彼と私は一緒なのだろう。

 サイドミラーに映る彼の姿は、マンションの自動ドアに消えていった。

 彼が、彼女らのこれからの物語は、どうなるのか。

 それは、私の知ったことではない。

 彼らが不幸になろうがどうなろうが、私には関係ない。

 私は息を吐く。実に感傷的になっている。

 すべては鏡。自分に跳ね返る。

 なら、今この場で彼らの不幸を願っているこの私は。

 きっと、不幸になるのだろう。

 そう、思った。

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