第4話 英雄機攻ヒロイックアサルト13話Bパート

 殴り飛ばした拳に、拍子抜けするほど軽い感触があった。

 それから、骨の砕けるたしかな手応えも。

 飛び散った緑の血が、ゆるりとアーチを描く。

 呪詛の言葉一つを残し、恐るべき速度でとび退った女王を追って、本郷みかんは冷たい軽合金の通路を蹴った。

 ロケットのような勢いで、前に出る。


 高速で行く手を塞ごうとするハッチに、腰だめに構えた拳を叩き込む。

 月面の重力は、地上のわずか六分の一に過ぎない。

 対して、みかんは標準的な十六歳より、少し小柄な程度。

 常識的に考えれば、人間は弾かれるか、閉じる質量で腕が弾けて終わる。


 だがもはや、みかんは常識的でもなければ、人間ですらなかった。

 みかんの素肌に蒸着した黒と、四肢を覆う金色の装甲は、すなわち英雄機攻ヒロイックギア

 人の信仰を集め、意志を一つにし、現実すらも捻じ曲げる情報子ミーム兵器。

 強襲繁殖異生物群きょうしゅうはんしょくいせいぶつぐんハイドラに対抗しうる、原人類オリジネイターの残した最後の切り札。


 いまやみかんは、一柱の戦女神であった。


 剛性弾性を一切無視して、紙細工のようにハッチが螺子切れる。

 ねじ切れた瞬間、猛烈な風が起こった。ハッチの向こうへむけ吹き出した。

 閉じかけたハッチの向こう、黒い宇宙にひとつ、青い星が輝いている。

 地球だ。

 月面基地の外郭が破壊され、凄まじい勢いで空気が流れ出している。


 おおよそ、人類ならば必ず死に至る罠であった。

 人類ならば。


 風の流れすら意に介さず、みかんは動いた。

 五体で扉を貫通し、そのまま、飛来する槍状触腕を跳ね除ける。

 反らしそこねた槍の穂先が、唯一黒の蒸着がない顔面、頬を浅く切り裂いた。

 血は、流れなかった。


 月面基地が遠ざかってゆく。英雄機攻ヒロイックギアが敵を指し示すまま、みかんは飛んだ。


 青の星の下、灰色の月の荒野が広がっている。


「呪わしや。人間ども。よもや原人類の呪いを成就しよるとは」


 そこに、女のような姿をしたモノがいた。

 ドレスにも見えるシルエットは、全身を覆う不定形の偽足だ。

 ハイドラの女王。強制遺伝子交配きょうせいいでんしこうはいにより森羅万象を汚染侵食する悪夢の王。

 その風貌は人に似て、あまりに、絶対に、美しい。


 牡であれば、その美だけで、人間であることを捨てるであろう。

 一目で屈従を誓うであろう。

 ばかりか、その身体の一片すらも媚毒である。

 血が、吐息が、香りですらも、ただ牡を従え、眷属と変えるためにある。


 そのように、原人類に創られたのだ。

 絶対遺伝子保存機構ぜったいいでんしほぞんきこう強襲繁殖異生物群きょうしゅうはんしょくいせいぶつぐんハイドラ。その女王は。


 だからこそ、殺すものは女神でなくてはならなかった。


「みんなを、返してもらうよ」


 みかんは月の荒野に降り、一歩を踏み出した。

 もはや、空気を震わす声でのやりとりでは、ありえなかった。

 同じ原人類の遺産同士、何らかの意味交換が行われている。

 意識する必要すらなかった。


「返すとは笑わせる。妾を滅ぼして、貴様は何を残すというのだ?」


 拳で砕かれた顔を歪め、満身創痍のまま、荒れ果てた荒野で。

 ハイドラの女王は笑う。みかんは黙って、一歩を踏み出した。


「我の眷属として、享楽に生きることを拒む。それもよかろう」


 拳を固める。加速する。


「だが、貴様の眷属となるとは、永遠に死するも同じではないか?」


 振り抜く。

 硝子の砕けるような音が響いた。


 歪んだ笑みを貼り付けたまま、ハイドラの女王が弾け飛んだ。

 緑色の血煙となり、それも月面で見る間に凍てついて、消えていく。

 ハイドラでなくなった体液は、ただの水を基質とした液体に過ぎない。


 月面、視界のはるか外、あるいは地球上のほとんどの場所で。

 活動していたハイドラ化生物群が、すべてその動きを止め、死滅した。


 情報子ミーム兵器、絶対絶滅機構エクスターミネーター

 生態系を侵食するハイドラ、その侵食のみを殺すため創られた凶器。

 ハイドラの中枢たる女王から、

 英雄機攻ヒロイックギアの最後の鬼札ジョーカー


 あっけなく。

 あまりにあっけなく、戦いは終わった。


 みかんは青い星を見上げた。

 そこから、確かな思いを感じる。みかんへだけ、集められた思いを。


 みかんは目を閉じた。涙は流れなかった。

 頬の真新しい傷をなぞると、ざらりとした感触があった。

 血ではなく、銀の砂が流れ落ちていた。


「ごめんね」


 そのくちびるが、小さく、誰かの名前をつむいだ。

 真空に、吐息の音すら響くことはない。


 もう一度。

 拳を固める。

 みかんはそれを、祈るように胸の前で合わせた。


「これが、きっと、私にできる最後のこと、だから」


 硝子の割れるような音が、もう一度、響いた。

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