第18話 花火大会

 数日が経過して、土曜日の夜。薬見川河川敷付近の通りには、煌々と電球の光やライトの明かりが瞬き、浴衣姿の住人達が賑やかに行き交い、屋台を回って花火を待っていた。

 天候がやや曇りがちなものの、風は涼しく湿度も高くないため条件としては悪くない。 一は大通りから横へ入ったところの、なだらかな坂になり折れた道が続く横丁の往来に佇んでいた。時折スマホを取りだし、着信が入っていないか確認していると。

「うーす」

 すぐ隣から気持ちけだるげな声がかかる。肩をひねって振り向けば、そこには浴衣姿の部長が立っていた。一はスマホをしまい込む。

「遅かったですね」

「ごめん、思ったより着付けに時間がかかってさ……」

 と、困ったように両腕を上げて裾を伸ばす。浴衣は青を基調とした爽やかな色合いで、錨の柄が随所にちりばめられており、変に着飾らない感じがよく本人の特色を出しているように思える。

 常日頃より伸ばし放題枝毛放題のぼさぼさ髪も今日ばかりは梳かされた上で整えられ、特徴となる白い一房もこめかみの前あたりで輪になって、赤紫の紫陽花をモチーフとしたかんざしでミディアムに纏められていた。

「……何さ、じろじろ見て」

「え、ああいや、イメージ違うなと」

 普段のありえない駄目な感じが払拭され、突然女性めいた落ち着きが醸し出されている。もちろん本人の性格が矯正されたわけではないだろうが、服飾のマジックとは恐ろしい。

「そ、それより今さらですけど、本当にいいんですか、俺なんかで」

「あんたがいいって言ったんでしょ。ここまで来てとんぼ返りするつもり?」

 話題を変えようとするのだが、逆に自分を追い詰める感じになってしまった。

 なぜこうして一が部長と待ち合わせし、あまつさえこれから一緒に屋台巡りへしゃれ込もうとしているのかというと、事は一昨日に遡る。

 放課後、たまたま呼子も新寺もいない余暇部の部室。唐突に呼び出された一は、部長から花火大会を回ろうと持ちかけられたのだ。

 もしやこの間の体育祭のお礼参りでもされるのかと警戒したが、どうも伊勢の差し金らしく、迷っているのなら一を誘って行けばいい、と焚きつけられてその気になったようで、一自身も断って根に持たれたくもないので了承してしまった。

 そうしてこの当日、どうせ常日頃と変わらない芋のような風体だろうと油断していたところに、この手のかかった浴衣姿である。驚くなという方が酷というものだ。

「……俺だって別に嫌じゃないですけど。でも、大丈夫なんですか。最近部長、妙に寝てる事が多いじゃないですか」

 体育祭以降、部長は良く眠るようになった。ソファでくつろぐ姿は見慣れたものだが、それでもその頻度が前と比較しても明らかに増しており、ちょっと心配になるほどなのである。起こそうとしてもほとんど反応がなく、熟睡している事もしばしばだった。

「全然平気だって。昨日も十八時間くらい寝て、今日なんかぱっちり目が冴えてるし」

 それが気になるのだが。まあ部長に限って大事にはならないだろう。単に怠け癖が悪化しているだけかも知れないし、と一は部長を伴って横丁を進む事にした。

 一年の前半と後半、計二回開催される花火大会という事もあり、規模はこぢんまりとしているにしろ密度はぎっしりとしたものだ。

 綿飴、焼き鳥、鯛焼き、焼きとうもろこしなど定番の食べ物を売っている屋台や、昔ながらの射的や金魚すくいといったゲームも様々出店されている。

 そこかしこではしゃいでいる客の声が上がり、肉を鉄板で焼く香ばしい煙が上がり、使い古された提灯がぱちぱちと点滅していた。花火が始まればまた一段とこの渋滞は増すはずなので、それまでに一としては屋台巡りを済ませておきたかった。

(人ごみ、苦手だしな……)

 そんな事を思いつつ同行している部長の様子をちら見する。下駄を履いているせいか、少し部長の方が目線は上だ。こうして並んで歩くのは何気に初体験かも知れない。

「みっずあーめわったあーめりんごーあめっ!」

 部長は祭りの熱気に当てられたみたいに上機嫌で歌い、それが浮き立つように楽しげなせいか周りの子供達にも歌が伝染していた。おかげで注目を集め、一はごまかすように。

「全部飴ですよねそれ……そんなにたくさん買えるんですか?」

「え? 曲輪の奢りじゃないの?」

「何ナチュラルに人の財布をあてにしてるんですか!」

「いやいや、奢るって言ってたじゃん。夜。刀蔵の時に。トラックで」

 思いついた側から口にしているのだろうが、それで一も得心する。納得はできないが。

「……言いましたね。分かりました、約束は守りますよ。でもあんまりたくさんは――」

「よーっしゃ! おっちゃんここにある飴細工全部ちょうだい!」

「ちょっとー!?」

 まあそれは冗談としても、今夜はひっきりなしに部長に振り回される羽目になりそうだ。

「曲輪ーちょっと動かないで、首に引っかけるから」

「ちゃんとターゲットの方を狙って下さいよ!」

 ――ある時は輪投げを楽しみ。

「曲輪ーこれ鉄砲使うよりコルクを指弾で撃った方が早いし確実だと思うのよね」

「真似する人が出かねないんで最低限のルールを守って下さい……」

 ――ある時は射的を楽しみ。

「曲輪ー見て見て! こんなに金魚いっぱい取っちゃったんだけど!」

「あれだけ振ったのにポイが濡れてすらない……じゃなくて飼う気がないなら返してあげて下さい!」

 ――ある時は金魚すくいを楽しみ。


「……疲れた……」

 げっそりと肩を落として歩き続ける一。一方部長は満面の笑みで幸せそうに綿飴を頬張っている。

「まだ花火は始まらないのか……早めに来すぎたのかな。これじゃ体力がもたない……」

「あーやばい、テンション弾けすぎ。曲輪をいじるのも爽快だし」

 やっぱり今までの無法の数々は確信犯だったのだ。保身のためとはいえ部長のお供を受け入れてしまった事は後の祭りとはいえ悔やまれる。

「おおう、一と部長なのだ」

「こんばんは、二人とも」

 と、屋台の列が少し間隔を開けている団子屋の前で、部員二人と行き会った。店自体は開いていないものの軒下にある赤い布のかかった長椅子へ仲の良い姉妹のように並んで腰掛け、屋台で手に入れたお菓子や玩具など、戦利品を袋に入れて隣に置いているようだ。

「うーすヨビーにかなちー。浴衣似合ってるじゃん」

「そ、そうかな……? そう言ってくれると嬉しいよ」

「一はどう思うのだ? 似合うと思うか?」

「え、俺……?」

 一は部長の半歩後ろから、呼子と新寺をそれぞれ眺める。呼子はひまわり色の生地に桜の柄という、健康的で元気な印象を与える浴衣だ。髪には手をつけていないようだが、頭の横にお面屋で購入したとおぼしき愛嬌のある猫の面を引っかけている。

 一方で控えめに微笑んでいる新寺はダークレッドという艶のある生地をチェック柄でさらに深みを増させており、渋みのある赤い髪もポニーテールに結い、くせっ毛のままの先端をうなじから前側へ垂らして引き立たせていた。

 なんというか子供っぽさと大人っぽさが同居したような、色んな意味で呼子とは対照的なデザインだ。一はぽかんと口を開けて交互に二人を見やるしかなかった。

「ちょっと、女の子がせっかくおめかししてるんだし、何か言ってやったら?」

「ええ……? そ、そうですね……」

 部長に腕で乱雑にはたかれ、一は必死で頭を回転させる。

「あー……佐倉はイメージ通りでいいんじゃないか? 新寺は……凝ってる感じがして美人でもあり……かっ、可愛くもあり、なんか意外だな」

「香苗よ、一が呼子達を褒めているぞ」

「うん……あんまりそういうナンパな事は言わない人だと思ってたから、なんか意外」

 相手にもなんか意外と言われてしまった……どうすれば良かったのだ。

「まあまあ及第点じゃないの、曲輪の賛辞はさ。木訥としすぎてるけど。――それからかなちーにはほんと苦労かけちゃったわね、わざわざ着付けまで手伝ってもらっちゃって」

「え、そうなんですか?」

「前日急にメールで呼び出されて、浴衣を着たいって言うものだからびっくりしちゃって。それで佐倉ちゃんにもピンチヒッターを頼んで、三人で町の呉服屋まで出かけたんだよね」

「一を驚かせてやりたかったのだ。呼子の浴衣は呼子が選んだのだぞ」

「そ、そうか……」

 つまり部長と新寺の二つはほぼ新寺が一人で選び着付けた事になる。素晴らしい女子力だった。仲間はずれにされたような気分もしたが、事が事だけにしようもあるまい。

「部長ははりきりまくっていたのだ。呼子も一を誘うつもりだったが、なんとなく威勢で押し切られてしまったぞ」

「そうなのか……?」

「こらヨビー、余計な事言わないで。あたしはただ甘いものが物色できるっていうから」

 そっぽを向いた部長の目元や耳が赤い。ちょっと前から紅潮していたような気がする。

「ほんとかなあ。私は部長さんから、曲輪の目玉を飛び出させるようなー、って注文を受けたから、てっきり曲輪くんのために着飾りたかったんだなって……ふふっ」

「かなちーまで! まったくもー……近頃部員どもが反抗的すぎる」

 髪をぼりぼり掻こうとしたようだが、肝心の髪が結い上げられているせいでうまくいかず、ぶすーっと頬を膨らませている。それを見て新寺と呼子はくすくすと笑い合った。

「ずいぶん楽しそうだね、君達」

「あ、新寺パパ」

 部長が驚いたような声を上げた先には、刀蔵の一件以来となる、紺のポロシャツを着た新寺勇が歩み寄って来ていた。娘をはじめとして会話に花を咲かせる一達を、見守るような目顔で微笑を浮かべている。

「あの、先日はどうも。……その後お変わりないですか?」

「ああ、大丈夫だよ、ありがとう。君は確か、曲輪君……だったね? そっちの君は佐倉ちゃんかな。浴衣姿、とても似合っているよ」

「ふふん、呼子は大人なのだ」

 呼子の態度にも気を害した様子はなく、勇は人通りの多くなる屋台通りを振り返り、それから雲の切れ間から月明かりの差し込む暗い空を見上げる。

「……花火はもう少しで始まるから、もうちょっと待ってもらえるかな。私もさっき、準備の具合を確認して来たところだからね」

「準備って……町内会のですよね?」

 そうだよ、と勇はおっとりした調子で目線を戻す。

「私も一応、町内会の役員の一人だから。みんなが仕事をできているか監督する役割がある――なんて言えば聞こえはいいが、実際には使い走りみたいなものだよ」

「あぁ……分かります。大変ですよね、使い走り」

 年の差はあるものの、一は勇に深い共感を覚えた。そう、本当に辛いのだ、パシリは。

「新寺パパが町内会だってのは初耳だわ。かなちーも先に言ってくれたら良かったのに」

「そうなのだ。もしかしたら刀蔵の時も、その町内会のみなさんに言えば手を貸してくれたかも知れないのだぞ」

 それは一も同意できるくらい、呼子の指摘は鋭かったが、新寺は申し訳なさそうに俯き。

「うん、その通りなんだけど……ちょっと事情が特殊っていうか、複雑っていうか」

「いいんだよ香苗。あれは私に全ての責任があったんだから。佐倉ちゃん達の言う通りさ」

「だけど、お父さん……」

 何だろう。二人の問題は解決したはずなのに、このもったいぶったような、含みのある感じは。一は呼子や部長とも顔を見合わせるが、疑問符が返ってくるのみだ。

「まあ、それはともかく、こうしてお礼を言うのはまだだったね。ありがとう。君達のおかげで、私達はやり直せそうだ……一人の親として、家族として」

「そんな……俺はただ部長の命令に従っただけで」

「そこは素直に受け取っておきなさいよ。なんでこういうところで変に遠慮すんの」

 また部長にはたかれて背中に熱が残るが、一はこういうお礼を言われ慣れていない。

「他に大した事はできないけれど、香苗とも仲良くしてあげて欲しいし、それにせめてこの花火大会は楽しんでいって欲しい――ん?」

 突如携帯の着信音が鳴ったと思ったら、どうやら勇のポケットから聞こえているようだ。

「ちょっと失礼……何かありましたか? ――え? 火薬がない? ……花火の方は? ……はい……はい、倉庫はどうです? まだ使える……でも無理はしない方が」

 なぜか勇の表情が固くなり、困惑したように通りの奥へと視線を向けている。

「分かりました。私も向かいますので、時間は間に合いますかね? はい……失礼します」

 携帯を戻すと、すまなそうにこちらへ振り返った。

「ごめんね、向こうの方で何かごたごたしてるらしくて、私も手伝いに行かなきゃ……君達はそろそろ土手に行った方がいいよ。今ならいい席が取れるから」

「あ、はい」

 それじゃ、と勇は早足で人の波に紛れ、奥へと歩き去っていく。一は首を傾げた。

「なんか不穏な感じだったけど……大丈夫なのかな」

「大の大人なんだし、別に気にしなくていいんじゃない? 前から準備してたろうし、こんな土壇場に来て今さら大きな問題が起こるとは思えないし」

「呼子も同感だぞ。それより早く土手に行くのだ、席が取られてしまうのだ」

「まだ佐倉ちゃんの席って決まったわけじゃ……」

 結局いつもの四人で土手へ。ぽろぽろと人は集まって来ているものの、良さそうな前方はところどころ空いている。一達はできるだけ中央部に陣取り、シートを敷いて座った。

「後少しで七時……花火が始まる時間帯だけど……あ」

 ぱあ、と目の前が明るくなり、とっさに顔を上げると、折良く雲の晴れた夜空に一発の花火が打ち上がっていた。一気にあたりから歓声が上がり、呼子なども興奮している。

「すごいのだ、花火が咲いているぞ! 手を伸ばせば届きそうなのだー……!」

「勢いあまって川に落ちないでよヨビー。……でもほんと、キレーなもんだね」

 ひゅーっ、という音を吹き上げて次々と火種を帯びた光条が上がっていき、天空で大きな丸形が開いて花弁を広く舞わせたり、流星が落ちるようだったり、砕けた丸から無数の火花が飛び散ったり――色とりどりの華やかな花火が披露されていく。

 ばん、ばんと断続的に響き渡る炸裂音にもキレがあり、一はまぶたを上げて見入っていた。こんなものテレビやネットで充分と思っていたが、こうして生で見るとなるほど、わざわざ大会などと大層な名をつける理由も頷ける。

「すごいねぇ……去年もだけど、職人さん頑張ったんだね」

「ひなっちやみなみんも見てるかな……ついでにヤスも」

 探せば近辺にいるのかも知れないが、今はとりあえずこの花火の様を目に焼き付けたい――そう思った一は、すぐ近くから優しい香りが顔をくすぐるのに気がついて、ついと横を向く。

 そこには、微笑みを浮かべて絢爛に色の変わる空を眺める部長がいた。はしゃいでいる間に距離が近づいていたのか、息もかかるほどの側。ごくり、と無意識に喉が鳴った。

「……ん? どしたの曲輪?」

 部長の瞳がこちらを向く。月や花火が彩る夜空よりもなお澄み切った双眸に、一は硬直した。この目だ。潤んでいるとか、流し目であるとか、女性的な魅力とはまったくほど遠い少年のように無邪気で純粋で――けれど何よりも……何よりも。

「あ、いや……その」

 食い入っていた事の恥ずかしさのあまり声を出す事で思考をぶち割り、一は視線を逸らそうとして――やめた。代わりに無理矢理に頬を歪ませ、懸命に笑みを貼り付けて。

「綺麗……ですね。……空」

「うん、そうねぇ。いい席が取れた事も大きいかな……新寺パパには感謝ね」

「今日……来て良かったです……よね。俺も……良かったと思ってます」

「あはは、そう? じゃああたしが誘ってやった甲斐もあったかな、このインドア小僧」

 視界いっぱいの部長が、晴れやかに笑った。青や黄色に変わる景色の中、その頬はいっそう赤くて。

「部長って……その、星みたいですよね」

「へ? な、何よいきなり」

「太陽みたいに率先してみんなを照らすわけでもなくて、月のように静かに見守るのでもなくて……いつも気ままに空で瞬いていて、でも振り仰げば、色んな温かい色を見せてくれて、一人じゃないんだって思わせてくれて……」

「ちょっとあんた、元文芸部だからって急に変なポエム言い出すのやめてよね。そんなキャラだった?」

「……あ、す、すいません。その、俺だって時々は雰囲気に呑まれる事もありますよ。花火綺麗ですし」

 ふーん、と部長は気のない返事をするものの、心なしか目が落ち着かなげに泳いでいる。

「まあ、でも……俺にとってはそんな感じなんです、部長は。退屈な日常に降り注いだ、一条の流れ星――いや、願い星かな。毎日のように願ってたら叶ったみたいな」

「何を願ってたの」

「星が落ちて来て世界が滅亡しないかな、とか」

「どんだけ退屈してたのよ!? てかあんたにとってあたしは破壊神か何か!?」

「ある意味では、そうです。おかげで退屈は死んだんで。部長といると、そいつが顔を出す隙間もないんです」

「喜べばいいのか分かんないんだけど、とりあえずどういたしまして?」

「また次も、来たいですよね……花火大会」

 なぜか、その言葉に対して部長は呼気が詰まったように、一瞬答えなかった。

「部長?」

「え? ……い、いや、そうよね、当然、みんな誘ってまた来るわよ! ……ったく、どうしたの今日は。調子狂う事ばっか言って。いつもの生意気さはどこへ――」

 瞬間、一際大きな爆発音が響き渡り、部長の声がその中に呑み込まれ――それが晴れた直後には、土手のあちこちから悲鳴が上がっていた。

「お、おい……今の、そこの川に落ちなかったか?」

「危ねぇな……火の玉が目の前を横切ってったぞ」

 見れば、河川敷を隔てた薬見川の水面ではいくつもの火花が散っている。どうやら落下してきた花火が燃えているらしいが、それでさっきの騒ぎが起きたのだろう。

「危ないのだ……さすがの呼子も動じかけたのだぞ」

「佐倉ちゃん今、すっごい垂直に跳ねたよね……座ったままの体勢で」

 とはいえ事故とも呼べないほどの可愛いミスだと、浮き足立つような事もなく土手では観賞モードが続き、あっても不安そうな呟きが漏れ聞こえて来るだけだ。その間にも次の一発が打ち上がり――。

「……え?」

 天高く昇るかと思われた一筋の光。しかれども、それは空へ向かうどころか、川を突っ切るように目もくらむような軌跡を残してこちらへ迫って来て。

 鼓膜が割れるような爆音とともに、視野が真っ白に染まった。今度こそ、本物の恐怖をたたえた叫び声が連続する。強烈なまでの熱気が肌を焼き、一は後ろの坂へでんぐり返るように倒れ込んでいた。

「な、なんだ、今の……!? 燃えてるぞ、河川敷が……!」

「あ、熱い……! だ、誰か、服に火が……っ!」

 慌ててうつぶせの匍匐状態になり、坂から顔を出して様子を見れば、土手の向こうは地獄絵図だった。そこかしこで花火が割れて炎をまき散らし、人々が爆風に薙ぎ払われて煙が上がっている。その上から降り注ぐように、無数の火の粒が舞い踊っていた。

「なんだよこれ……! じ、事故なのか? ――そうだ、佐倉、新寺……部長ッ!」

 さっきまで隣り合っていた部員達の名前を呼び掛けると、一拍置いて煙の中から部長が飛び出して来た。とどまる事なく爆裂する花火から背を向け、両腕で守るように呼子と新寺を抱えている。

「曲輪、ここにいたの!? ……まあいいや、ヨビーとかなちーをお願い」

「え、そんな……ぶ、部長は!?」

「ほっとくわけにもいかないでしょ」

 二人を一に押しつけるようにしてから、やれやれと肩をすくめ――部長はとって返すように再び煙の向こうへ駆け出していく。部長、と一は叫ぶが、今度は応答はなかった。

「助けてくれぇ!」

「熱いよぉ……! 誰か、火を止めて!」

「おい、カメラ向けろ、早く! すっげ、マジで人が燃えてる! こわっ」

 土手、そして河川敷に取り残された人々は錯乱の中にあった。やみくもに逃げ惑う者、身体から火を振り落とそうとする者、他人を突き飛ばして逃げる者――もはや誰にも制止する事のかなわない、大惨事へと転がり落ちていくばかりかと思われた。

 しかし、その刹那。

 直線を貫く猛烈なまでの突風が吹き渡ったかと思うと周囲の煙が一気に晴れ、火の粉も見事に消し止められていった。

 その時一は見た。下駄を投げ捨て、裸足のまま河川敷を駆け抜けていく部長の姿を。そして理解する。今のは部長の仕業だと。

 常識のらち外にある膂力を華奢な腕へ伝わせて振り抜き、そうして繰り出される局地的な竜巻めいた風圧であたりの煙を散らしたのだと。

 怪我人が出ていないのがその証拠。うまく彼らの頭上をかすめるように打つコントロールはさすがの一言だ。

「みんな逃げるのだ! 今のうちなのだ!」

「川じゃなくて、土手を上がって来て下さい、早く!」

 呼子と新寺が混乱する人々へ呼び掛けている。彼らも理屈は不明だがとにかく視界が晴れ、ようようよろめきながら土手を上り始めていた。しかし。

「お、おいおい……嘘だろ?」

 これだけの惨事にも関わらず、まるで見えていないかのように花火はいまだ打ち上がり続けていた。真下でこれだけの悲鳴が上がっているのに、それを呑み込むように空が明るくなり続けるのはもはや狂気めいており、しかも。

「やばい、また来るぞ――ぶ、部長!」

 またしても空で欠けたように花火の一部が降り注いでくる。一がその事を伝えるよりも早く状況を見越していたのだろう、部長は躊躇もなく川へ向かって姿勢も低くダッシュして。

 高く、ただ高く。何十メートルもの上空へ踊るように跳躍して見せたのである。

「おらあぁっ!」

 花火の音にも負けぬかけ声一つ、部長が襲い来る花火めがけて横一閃の蹴りを放つ。リーチは足りていないものの、その差を補うかのように強烈な暴風が巻き起こり、土手めがけて落下する花火を打ち払うように吹き飛ばしていた。

「もういっちょ!」

 中空でくるくると回転しながら遠心力をつけた部長は、立て続けに降ってくる花火を薙ぎ払う。さながら撃ち込まれる矢を跳ね返すかのように反対側の土手まで吹っ飛ばす様が部長の不機嫌さを表すようで、一は顔を引きつらせながらも変な笑みが出ていた。

「こいつで終わり!」

 滞空する部長を撃ち落としてしまおうとでもいうように、恐らくはトリを飾ると思われる巨大花火の球体が飛んでくる。あんなものが直撃すれば人はもちろん、土手や河川敷が吹っ飛んでもおかしくないような威力だろうが、部長はただ静かに構えていた。

 そう。左手を前方へまっすぐ伸ばして手のひらを立て、手首を右手で固定する、あの。

「……鬼気砲」

 呟いたのは部長ではなく、網膜に焼き付けようとでもするように見つめていた一で――直後、周囲から音が消え、迫り来る花火が五本の指で攪拌したみたいにたわんでいき。

 どんな花火よりも高らかで鮮やかな、破壊を告げる爆音が鳴り響く。放たれた大爆発はその火の玉を火焔の顎で食らうように包み込み、この地上から消失させていた。

 煙が完全に晴れるのを待たず、一は土手を駆け下りていく。河川敷に着地した部長は裸足のまま俯きがちにこちらへ歩いて来ており、一はどんな言葉で賞賛しようか思案しながら、側まで近づいて。

「部長、さっきのは凄くて……! ……部長?」

 一が声をかけても、部長に反応はない。ただどこか、千鳥足のような動きでもたもたと一の目の前までやって来て、軽くぶつかるようにして止まる。

「部長、どうし……え?」

 きょとんとした声が出た。部長が寄りかかるように頭を一の首もとへ寄せたのだ。結っていた髪はほどけ、けれども予想外に柔らかい感触に一瞬心臓が飛び跳ねそうになったが、どうしてかそのまま、力なくずるずると倒れかかっていくのに気がついて。

「……部長? ……部長っ?」

 後ろから呼子と新寺も走り寄ってくる。でも一は構う余裕もなく、沈み込みかける部長の身体を腕で支えた。

 ――細い身体は浴衣越しにも分かるくらい汗で濡れていて、火傷するほどに熱かった。

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