第4話 薔薇の棘

 次の週、店の定休日に私は一人で図書館に出向いた。薔薇についてもっと知りたいと思ったからだ。満開の黄色の薔薇のアーチをぬけて、図書館のドアを開け中に入って行った私は途中でハッと立ち止まった。なぜなら先週と同じテーブルに、白いTシャツにサーモンピンクのセーターを肩にかけた沖田さんがいたからだ。

「やあ。勉強しに来たの? 感心感心」

 沖田さんにここで偶然に会えるなんて! 心が躍った。

「毎週来るのですか、ここに」

「ああ、毎週ではないけれど、時間がある時はね。ここは僕のお気に入りの場所のひとつなんだ。今日はお天気もいいし、ローズガーデンで薔薇の観察をしようよ。」


 ―――――――


 その日から店の定休日の水曜日は、約束や誘い合わせることなどなく、私と沖田さんは図書館にいた。


 七月下旬、大学が夏休みになり亜紀がこの町に帰省した。前回会ったのは6月の初めごろに2,3日帰ってきていた時なので、約2か月ぶりだった。その時と同じように亜紀はお土産を持って店に来てくれて、母と自宅で療養している父にきちんと挨拶をした。亜紀は自分の用事が無い限り花屋を手伝ってくれた。早朝の花の仕入れにも付き合ってくれて、私は将来、亜紀とこんな風に二人で花屋をやっていけたらなあ。と、その時心から思った。

 定休日の水曜日、私と亜紀は久々にデートをした。亜紀が言うには、朝の花の仕入れも私とのデートらしい。そんな可愛らしいことを言う一段と美しくなった亜紀を私は気が付けば何時いつも見つめていた。カフェでオーダーする亜紀、紅茶にミルクを入れてスプーンで混ぜる仕草。パンケーキをナイフとフォークで小口から切って口に運ぶ動作、すべてがエレガントだった。「いやだわ。コウちゃん、じっと見つめたりして」とはにかむ亜紀を愛おしく思った。

 亜紀と楽しい時間を過ごしている中、私は、沖田さんのことを考えていなかったわけでは無かった。今日、図書館に行かなかったことが胸の奥でチクリとする。けれど別に私たちは毎週図書館に行く約束をしている訳でもないし、今日は行けませんと連絡するにも連絡のしようがない。図書館に電話をかけるのもなんだか違う気がした。正直、亜紀との時間が楽しかった。どういうわけか、亜紀と一緒に図書館に行くという選択肢は無かった。


 次の日のフラワーアレンジメントクラスで、私は沖田さんに会うなり、

 「昨日は、図書館に行けなくてすみません」

 と謝った。

 「ああ、僕も用があって昨日はいけなかったんだよ。別に謝らなくてもいいんだよ。あっ、そうだ、八月いっぱいは水曜日は忙しくなるから僕はいけないけど、君は一人でもしっかり勉強をしてくれたまえ」

 と冗談ぽく言った。それを聞いて気分が軽くなった。そして、沖田さんが図書館で私を待っていてくれたかも。と少しだけ思い上がってしまったことを私は恥ずかしく思った。


 そうして亜紀がこの町にいる八月の間、定休日の水曜日は亜紀と過ごし、図書館には行かなかった。


 ――――――


 それは忘れもしない、亜紀が大学に戻った次の日の八月三十日のことだった。フラワーアレンジメントクラスが終わりみんなが帰った後、教材で使った花を沖田さんと二人で片付けていたとき、

「弘二くん薔薇の棘、気を付けてね」と沖田さんが言った矢先に、私は指先にシャープな痛みを感じた。

「痛っ」

 見ると右手の中指の先にぐっさりと薔薇の棘がささっていた。

「どうしたの?」

「棘がささっちゃいました......」

「見せて」

 沖田さんは刺さっている棘をその美しいほっそりとした指先でさっと取り除き、私の指を、彼のその淡いピンクの薔薇のつぼみのような口角がきゅっとあがった形のいい口にすっと含んだ。

「あっ」


 ―――身体中に電流が走った。


 私は何が起こったのかわからないまま、身動きもとれず、ただ立ち尽くした。意識が薄れていく。もう少しで倒れそうだった。ただただ心臓の音だけが鳴り響いていたと思う。どのくらいの時間が経ったのだろうか。


 沖田さんはポケットからベージュのチェックのピシッと折り筋の入ったハンカチを出し、私の中指に巻いて、

「もう大丈夫。絆創膏がなくてごめんね。ハンカチ大きすぎて不格好だね。アメリカンドッグみたいになっちゃった」

 と、いたずらっ子のようにクスッと笑った。


 私はその夜、右手の中指の傷を見つめながら今日のことを思い出していた。もし、それが私ではなく誰か他の人だったとしても沖田さんは同じことをしたのだろうか? もしかして、これは私が図書館に行かずに亜紀と会っていたから?その戒め?と一瞬思ったけれどそんなことは絶対、絶対無い。沖田さんは亜紀のことを知らないし、第一、沖田さんも八月は図書館には行ってないし、戒めの理由がないじゃないか。と速攻打ち消した。また思い上がってしまった自分が恥ずかしい。一人で赤面しながら、やわらかな彼の唇の感触、ぬくもりを思い出していた。私は中指を口に含んだ。沖田さんがそうしたように。


 完璧な美を目の前にすると人はこんなにも愚かになるものなのか。物事の良し悪しの判断もできなくさせる。すくなくとも、私はそのようだ。


 沖田さんのハンカチを丁寧に洗って乾かし、アイロンをかけながら、次のクラスの時に返そう。そう思っていた。でも、返したくないと思う自分がいる。ハンカチを四回折って畳んでアイロンをし終わって、私は彼のハンカチにそっと唇を寄せた。私はハンカチを返さないことに決めた。


 私はこの日から、亜紀には沖田さんと会ったことをクラスの友達と会ったと言うようになった。なぜだか自分でもわからない。私と沖田さんの間柄は講師と生徒なのだから、沖田さんは美しい人で、見つめられると男でもドキッとする瞬間があるみたいなことを、亜紀には最初のころからよく言っていたし、それにあの出来事も私が怪我をして彼が手当てをしてくれた。それだけのこと。何も後ろめたさを感じることはないのだ。けれども、なぜ亜紀に"沖田さんと会う"と素直に言えなくなったのか。亜紀の前で沖田さんの名前を出したくなくなったのか。それは、子供じみた言い方をすると邪魔されたくなかった。ただそれだけなのだけれど、今までは普通に亜紀に言えたことが言えなくなったということは、私のなかで何かが変わった。何かが芽生えた。それはどうしようもない事実なのだ。


 九月の第一水曜日、私と沖田さんは約束も誘い合わせることもなく、図書館にいた。

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