うつし世とかくり世のはざまにて

雨伽詩音

第1話舞人

もろき人にたとへむ花も夏野かな 芭蕉


あの晩の葬送の調べは、未だ耳から離れない。村でもっとも秀でた舞人だった兄は、わずか十七歳にしてこの世を去った。見よ、夏草のそよぐ高原の空、真白い昼の月の向こうに兄はいる。ずいぶんと遠く、手の届かぬ彼方へ去ってしまったものだと弟は嘆息した。 月影の下、白くたなびく衣を纏い、兄が舞っていたのは夢かうつつか。あれはたしか村長の娘の葬儀の折であった。彼女に淡い恋心を抱いていた兄の捧げた「挽歌」は、この世ならざる美しさをたたえていた。 長い袖をはためかせ、結った髪が風に揺れ、裳裾が大きく弧を描く。水中に身を躍らせる魚のように、高らかに舞う貴い鶴のように。楽の音が哀悼の調べを紡ぐなか、舞踊の神が乗り移った兄は、舞台を蹴って飛び上がり、首をそらしてしなやかに手を上げ、法悦の心地に達したように思われた。あのとき兄は村長の娘の魂との交合を果たしたのだろうか。薬指に婚礼の紅玉の指輪をはめないうちに兄は逝った。裸身の薬指は白く清らかで、人差し指に翠玉の指輪がはめられていたのを弟は思い出す。舞踊の神と契った証として、あの家の当主となる子息は、代々伝わる翠玉の指輪を身につけ、絹糸で新緑の葉を織り込んだような衣を着る。受け継いだ夜には、素肌にそれらを帯びて、夢のあわいで舞踊の神と交わるという。風のたよりに聞いた話だ。弟の知らぬ夜の世界は、まばゆく妖しくかがやいている。

弟は村を捨ててきた。舞を受け継ぐことなく父母に背き、身一つで村を出た。立ち寄った村々のなかには、彼に思いを寄せる者、彼を裏切り謗る者、年若くして死にゆく少女、長寿を誇る老婦人、ありとあらゆるさまざまな輩がいたが、すべては過ぎ去ったことだった。記憶の波は寄せては返す。弟は都城のはずれで踊り子を買った。元は宮廷で随一と呼ばれる踊り子だったというが、帝の寵愛を失して後宮を離れた。薄衣を身に纏い、孔雀の羽の扇子で男を惑わす彼女と枕を交わしたものの、踊りの巧みさ、あでやかさに悪酔いしたのが運の尽き、翌朝覚めれば財布は空という有様。なるほど帝も愛想を尽かそう。あやめもわかぬ男女の道理。名高い踊り子を抱いてみれば、兄を抱いた舞踊の神の心地もわかろうかと思ったのが浅慮であった。身ぐるみはがれぬうちに都城よりまろび出て、こうして野山をゆけば風が通る。風に乗って月影の向こうに兄は舞う。弟の懐には翠玉の指輪が光る。

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