終ー2.


 ――。


 ――――。



 話は一日前、日曜日に遡る。


 朝、いつも通りにミヅキに起こされ――なかったんだこれが、実は。


 前日の夜――つまり筑波山に荒川探しに行った日の夜、深夜徘徊を終えて寝ようとしていた俺のもとにミヅキがやって来て、こんなことを言ってきた。


 「エドっち、明日さ、ちょっとお出かけしよ」

 

 どこに出かけるのかと問うと、


 「自転車屋さん。エドっちが好きそうな自転車のお店、私知ってる」


 自転車を買う云々の話は宮から聞いていたのだろうから、自転車屋に行こうと言われるのは百歩譲って良しとしても。


 俺が好きそうな自転車というのは想像がつかなかった。俺が自転車嫌いなのはミヅキが誰よりも知っているところだから、急にそんなことを言ってくる彼女の意図が掴めない。


 しかしミヅキの押しは強く、


 「いいから。騙されたと思って、ついてきて。行くって約束するなら、明日の朝練ナシにしてあげる」


 俺が彼女の言葉に従うことにしたのは、つまりそういうことだ。この時もミヅキ教官による鬼の朝トレーニングに備えて寝ようとしていたわけで、それがなくなるというなら、自転車屋に出かけることくらい屁でもない。行くだけならタダだし、その提案を受け入れない理由が俺には見当たらなかった。


 そんなわけで朝はゆっくり寝ることができた昨日。その前の土日はろくな睡眠が取れなかったため、久しぶりの安息に思えた。荒川のことでモヤモヤしていたところはあるけれど、とにかく身体的には十分休息を取ることができた。


 リフレッシュした体で俺は、のんびりとした朝の時間を過ごした後、ミヅキとともに外出。向かった先は、地元の街のとある自転車屋だった。


 その店のこと自体は、俺も知っていた――と言うかそこに何か店があることくらいは、記憶にあった。でも興味もない店だったし、注意して見たこともなかったのでずっと、そこに何かしらの店があるくらいの認識でしかいなかった。


 そしてこの日、ミヅキに連れて行かれることによって俺はその店の全貌を知ることとなる。


 店名は『ザ・イーバイク』(ハワイっぽい感じのアルファベット)。


 何の店かと言えば、それは、ということだった。


 「電動アシスト自転車? 何だそりゃ」


 俺はその名前なるものを知らなかった。だから店内に入ってその名前を知った瞬間、そこにいた店員の目の前で呟いた。 


 店員(アラサーと思われる綺麗めの女性)は懇切丁寧に教えてくれた。


 「電動アシスト自転車っていうのはね、名前の通り電気でアシストしてくれる自転車なんだ。モーターが内蔵されてて、それがペダルを踏む力を補助してくれるから楽に自転車を漕げるようになるっていう仕組みなの。元は子どもを乗せる親とか力の弱いお年寄りの人たちのために開発されたんだけど、それが欧米の方ではさらに発展してね。eバイクって言って、モーター付きのスポーツ自転車まで今はあるのよ。子どもから大人、おじいちゃんおばあちゃんまで誰もが自転車を楽しめるようにする技術、それが電動アシスト。eバイクの類は日本ではまだ流行りそうにないけど、当店では時代を先取りして海外から最新モデルを取り寄せちゃってますよぉ。日本だと規格から外れちゃうから、アシスト範囲は時速二十四キロに抑えられちゃってるんだけどね。どう、試しにどれか、乗っていってみない?」


 そんなものがあるのかと、俺は素直に感心した――しかし、試しにどうかと言われて乗ってしまうほど俺はやはり自転車が好きなわけではない。


 自転車屋に行くという条件は達成した――これでミヅキも文句ないだろう。本当にただ来ただけだったけど、それでも来たということに変わりはない。店員には悪いが、そろそろお暇させていただこう――そう思って外へ足を向けようとしたのだけれど。


 ミヅキに止められた。


 「エドっち。いいから乗ってみて。騙されたと思って乗ってみて」


 騙されたと思ったら普通は乗らなくないか?


 そんなことを思いながらしかしやはり約束は約束。自転車に乗るということまでは条件に含まれていなかったので、それに従う必要は存在しない――俺はやはり帰途につこうとしたのだけれど。


 「もし乗ったら、これから朝練のメニューちょっと減らしてあげる。どう、それなら乗ってくれない?」


 そこまでしてこの電動アシスト自転車なるものに乗ってもらいたいのか。そんなことをしても無駄だということをミヅキ以上に知る者はいないと言っても過言ではないのに――ここまで執拗に言ってくる彼女を少し意外に思いつつ、またもしかしたらミヅキはステマかもしれないと疑いつつ、俺はその条件を呑んでやることにする。


 今一回自転車に乗るだけで毎週恒例の朝トレーニングの負担が減るのなら乗らない手はないだろう――別に乗ったところで、自分の信念を一から否定されることになるわけでもないし。余計に自転車なんて乗りたくないという気持ちが大きくなるだけだろう。まあ別にそんなことになったって、俺の知ったことではない――そうして俺は至極楽観的に、電動アシスト自転車なるものに跨ることになる。


 「設定は色々いじれるんだけど、初めてってことだし、一番基本のモードにしておくね。ギアを変えるのはここ、こっちのレバーでシフトアップ、こっちのレバーでシフトダウンだから。ま、乗ってみないと何もわかんないよね。じゃ、転ばないようにだけ気を付けて!」


 店員の声援を受けながら、俺は自転車を漕ぎ出す。


 自転車に乗るなんて、覚えている限りではやはり幼稚園の頃に練習をした時以来だ――しかし意外と人の身体というのは優秀なもので、それでも乗り方は覚えていた。サドルに跨り、ハンドルを握る。ペダルに足をかけ、漕ぎ出す。


 数メートル進んだところで、止めようと思っていた。バランスを取れないとかテキトーなことを言って、断念しようと思っていた。そもそもどうせまともに乗れりゃしないさ――乗り方を覚えていたところで、バランスを取れるか取らないかは別の話だ。自転車は縦方向前後に並んだ二輪で走る以上、乗り手がバランスを取らないといけない。


 ツーや荒川のようなバランスにおける才能を持っている者ならいざ知らず、運動もろくにしたことのない俺が十年前のバランス感覚を維持できているはずもない――そう思って、甘く見ていた。


 そして走り出す――俺は、しかし止まらなかった。


 まず一つ。予想外にバランスも取れた。足が勝手にペダルから離れた地面についてくれることを望んでいたものの、そうはならなかった。俺はしばらく、地面から足を放したままだった。


 そして、もう一つ。俺の世界が変わった。


 変わった――一瞬で変わった。こんなにも簡単に見える世界って変化していいのかってくらい、変わった。


 何が変わったかってそりゃ――めちゃくちゃ楽だった。足に力を入れていないのに、勝手に自転車が進む。そんな感じ。チョー楽。全然疲れない。あれれれ?


 自転車ってこんな乗り物だっけ。俺の思ってた自転車はもっと、重くて疲れる、乗るだけ体力の無駄な鉄の塊みたいなモンだったはずなんだけど……。


 「それが電動アシストのスゴいとこなのよ! 全然力いらないでしょ? これなら誰だって乗れる。簡単に乗れて、どこにだって行ける。電動アシスト、及びeバイク――これは自転車界の革命よ!」


 店員は熱を込めて言った。俺も同感だった。


 とりあえず、自転車くらい乗ったことある人がほとんどだと思うから、乗っている時の想像をしてほしい。自転車に乗っている。サドルに座っている。しかし自転車は勝手に進んでいる。ペダルに足を乗せているだけで、勝手に進む。スピードを出したくて踏ん張る必要もない、登り坂で辛い思いをする必要もない。


 言わば、自転車の形をした動く椅子――そんな感覚だ。何これ。めっちゃ移動楽じゃん。


 店員の許可を得て、学校まで行ってみた。いつも三十分ほどかけて歩く道のり。それが自転車だと、十分もかからない。しかも歩きより疲れない。することと言えば、サドルに跨って風を感じるだけ。他に何もない。毎日ここを歩いていたのがバカらしくなるくらい、イージーでスムーズ。


 「これ下さい」


 店に戻った瞬間、俺は店員に告げた。価格にして十三万のところを十万にまけてもらった。


 自転車で十万円なんて数十分前じゃ頭おかしいと思っていたけれど、これが価値観の変容というヤツか――貯金は十分にあるし、他に使う予定もない。この登下校の楽さを手に入れられるのなら――それくらい、安いもんだ。俺の脳はこの短期間にそんな考え方をするように思考回路が組み変わっていた。


 「じゃ、私も買う。エドっちとお揃いのやつ」


 さりげなく自分の分も買うミヅキ。俺が選んだシティサイクル型(ハンドルが手前側に逸れていて、前後ろにカゴがついている。ザ・ママチャリって感じのタイプだけれど、さすがは最新モデルだけあって各部にまで手が入っているようで、チャチな部分がどこにも見えない。スカイブルーとシルバーで近未来感が演出されている)と同じタイプでフレームが赤色のものを買っていた。


 「――ってミヅキお前、そんな簡単にこんな高い買いモンしていいのか?」


 ミヅキの貯金は少なくとも、俺よりも数年分少ないはずだった――それに兄とは違い、ミヅキはよく友達と出かけたり服を買ったりと支出が比較的多い。そこまで金銭的な余裕はないはずなのだけれど……。


 果たしてミヅキは、我が意を得たりとばかりにニヤリと口元を緩めると、


 「この前のサッカーの大会で優勝したお祝いにって、パパがお金出してくれた。だから大丈夫。エドっちは何にもしてないから、自分で買わないとダメだよ」


 オーマイ……。


 初めて妹に対し嫉妬した瞬間だった――っていうか、元々お金を持っていたということは最初から自分も買うつもりで来てたってことか。それすなわち、俺も購入する気になるということを予め予測していたというわけで――つまりこの日のことは全て彼女の計算済みだったということになる。


 果たしていつから我が妹はそんな策略を張り巡らしていたというのだろうか――その真相は、彼女の笑顔の裏に今も隠されている。追究する気は特にない。別にする必要だってないだろう。


 俺が自分の自転車を買った。それも誰かに言われたから仕方なく買ったのではなく、あくまで自分の意思で購入した。自分の好きな自転車を手に入れた。その事実さえあれば、事は全て上手く運ぶはず――ついでにこれから登下校がめっちゃ楽になる。


 一石二鳥この上ない――万事解決だぜ。

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