3-12.


 しかして本題に戻る――荒川が言おうとしていたこと、それは、彼女の本心に他ならなかった。本人の口から語られる、本当の気持ち。


 どうしてそんな気になったのか、ただふとそんな気になっただけなのか、その辺のことはよくわからない。とにかく彼女は、俺が彼女の母親に聞いたことを語った後、今度はそれを自分の言葉で、伝えてくれたのだった。


 「あたしのお父さんが、あたしが生まれる前に事故で亡くなったって話は聞いたよね。だからあたし、お父さんには会ったことないんだけど、プロ選手やるくらい自転車が好きだった人みたいで、その血の影響なのか、ただ自転車に囲まれてる環境のせいなのか、あたしも物心つく前から自転車が好きだったみたいなの。いつも自転車に乗ってばっかいて、でも別に、その頃は自転車が好きって感じじゃなくて、何ていうのかなぁ……ほら、小さい頃からペットと一緒に育ったっていう人はけっこういるじゃん? それに近いかな。自転車がペットっていうのはおかしいけど、とにかく一緒に育った、って感じ。自転車と一緒に、育ってきた。だから、小さい頃の思い出にはぜーんぶ自転車が絡んでる。もうその頃から、あたしから自転車の存在っていうのは切っても切り離せないものになってた」


 標高が高いので、吹く風も幾分か下より冷たい。


 流れる風に思いを乗せるように、荒川は語る。


 「小学校入ってすぐにBMXの競技始めて。それからしばらくずっと、夢中になってた。大会で優勝して、お母さんとかチームの人とかに褒めてもらって。それが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。学校はただ、練習と大会の合間に通ってるだけって感じだったんだけど、その頃は何も気にしてなかったの――とにかく自転車が楽しくてね。それ以外のことは考えられなかった。これをずっと続けていられれば、それでいいって思ってた――でもね、」


 

 「お母さんの提案で、日本を周るサイクリングに出かけてから、少し考えが変わったの。それまではずっとレースにしろフリーにしろ、好きだったのはBMXだったんだけど、別にBMXが特別好きだったってワケでもなくて、ただ自在に操れる乗り物っていう感覚が楽しくて、それが好きだったって感じ。でも、その時ロードに乗って思った――あたしはこの乗り物が好きだ、って。何がどうかって具体的には言えないんだけど、とにかく乗り心地が、あたしの感性にピッタリ当てはまってた。BMXは好きなように操れるって感じで、自転車に対して乗り手の方が優位にあるってあたしは思ってるんだけど、ロードは何て言うか、操るというより一体化できるって感じ――心を一つにできる、強いて言うなら、そんな感覚かな。自転車と一心同体になって走れる――一緒になれる。本当の友達みたいに――家族みたいに、色んな経験をともにすることができる。その感覚に虜になって、それからはずっとロード一筋だった。と言っても、BMXのジュニアチームに入ってたから、そっちも続けてはいたんだけどね。でも、心は完全にロードに傾いてた――このコたちとずっと一緒に生きていきたい。そう思うまでになってた」


 

 「それからはね、あたし、学校にもなるべくちゃんと通うようになったの。出席日数の話じゃなくて、授業とか行事に積極的に参加するようになった、って意味ね。それまでは自転車のことで頭がいっぱいだったから最低限のことしかしてなかったんだけど、ロードを始めてからは、何でなのかな、クラスのみんなともっと仲良くなりたいって思うようになったの。色んな所に行って色んな経験をして、色んな人と関わって、考え方が少し変わったんだと思う――とにかくもっと、友達が欲しいって思った。チーム関連の繋がりはあったけど、それだけじゃなくて、学校のみんなとももっと仲良くしたいって思うようになった。だから、クラスのみんなともっといっぱい話そうとした――でも、それが上手くいかなかった」



 「元々あんまり交流を持ってなかったっていうのもあると思うし、たぶん、あたしが、っていうのも大きかったんだと思う。自転車好きな変な女子、って目で見られちゃって。クラスの他の女の子たちはおしとやかな子が多かったし、男子よりも運動好きっていうのが、おかしかったんだろうね。誰も関わろうとしてくれなかった。それがショックで、あたしはしばらく自転車だけの毎日に戻った。元々そういう暮らしをしてたから、大して苦痛ではなかった――中学に入ったら、きっと今よりも上手くやっていけるって気持ちもあったから、やっていけた。でも、それも間違えだった。中学では、もっと辛い日々が待ってた」



 「自転車に興味がない人とはあんまり仲良くなれないって気が付いたあたしは、中学からは同じ趣味の人を探そうとした。探そうとして――作ろうとした。自転車仲間が欲しくて、クラスの人に積極的に話しかけていった。でもね、何でなんだろ――中学生って、みんな自意識が強くなって見栄っ張りな年頃だからかな。小学校の頃よりも偏見は強くて、クラスのみんな誰も関わろうとしてくれない。ひとりだけね、頼りにできそうな人もいたんだけど、まあ結局いい関係は作れなくて。他に自転車好きな人もいない、理解してくれる人もいない。あたしはどんどん孤立していった。その裏では、もっともっとロードが好きになってた。BMXも続けてたけど、BMXってどっちかと言うと魅せる乗り物だからね。技を決めて、カッコいい姿を観客に見せる――それはそれで楽しいんだけど、あたしはそれよりも、ロードが好きだった。だって別に、あたしは人のために自転車に乗ってるんじゃない――自分が好きだから、乗ってるの。ロードと一緒にいれば、どんなことだってできる――どこにだって行けるし、どんな走り方だってできる。街を、大地を自由に駆け回れる。その自由さにあたしは惹かれた――あたしがアリちゃんみたいにレースしないのは、それが理由なの。レースって、コースも決められてるし色んなレギュレーションもあってあたしには狭苦しい――それにあたしは別に、勝ち負けを競いたいわけじゃないからね。自分の好きなように、走りたかった――それがあたしがレースをしない理由。性に合わないって感じだね」



 「でまあ、そういうことだから、クラスで孤立するわどんどん学校から心は離れていくわで中学は散々だったの。それにつれて自転車への依存心も高まっていってね。自転車だけが心の支えだった。一回ね、クラスの男子がフザけて勝手にあたしの自転車に触ってきて喧嘩になって、三人くらいブチのめしてやったんだけど、何分相手が五、六人のグループだったからね。さすがに全員には敵わなくて、殴られ蹴られるで大変な目にあったことがあるの。その時は他の人が助けてくれたから良かったんだけど、まあそんな感じで、思い返すとかなり悲惨な中学生活だったなー。教室に自転車持ち込むなって言ってきた先生にも暴言吐きまくったら口聞いてくれなくなって、あー、何かこうして話してみるとあたし、ヤンキー女みたいだね」



 「そんなんだから高校に行く気なんて起きなくて。でもそういうわけにも行かないし、けどやっぱり行きたくない、じゃあ自転車と一緒に死んでやろうくらい思いつめてたんだけど、そこで意外なことになってね。正直、中学も退学させられそうな雰囲気だったんだけど、見たことも話したこともなかった先生がローレンスに推薦してくれてね。ギリギリ卒業もさせてくれた。何でそんなことしてくれるのか不思議で仕方なかったんだけど、その先生がどうしてもこの高校に行けって言うから。この学校ならきっと、あたしでも楽しめるって言うから。あたしとしても、できることなら死にたくなんてなかったし、お母さんにも是非行けって言われちゃって。だからとりあえず、入学するだけしてみることにした。正直、あんまり期待はしてなかった――って言うよりも、これが残された僅かな希望だって思ってた。どんなに小さな光だろうと、それを掴もうとするしかないんだって。藁にも縋る思いとはこのことだよね。じゃないとあたし、他に道がなかったからね。公立の小中とは違って、私立で規律もしっかりしたこの学校なら、もしかしたら望むような高校生活が送れるかも。自転車好きな人と仲良くなって、学校生活を楽しめるかも――そう自分に言い聞かせるようにして、入学した。もしこれで失敗したら、もう全てを放り出して放浪の旅にでも出ようかって考えてた。旅の途中で野垂れ死にするのも悪くないなー、って。それか、BMXのプロを目指すっていう選択肢もあったんだけどね。それも一応視野に入れながら、とりあえずは最後の望みに賭けてみようって――高校生活を楽しみたい、って思った。頑張ろうって思ってた」



 「正直最初は、ああまたダメか、って思った。全然自転車好きそうな人もいないし、自転車部もないし。推薦してくれたくらいだから自転車好きな人とか先生も多いのかなーって思ってたら、フツーに自転車持ってくるなって言われるし。中学と全然変わらないじゃん。校舎がキレイなだけで。ガッカリした。入学して間もないけど、諦めようかなーって思ってた――けど、そんな時、出会ったのが江戸君だった」



 「最初はほんッッとムカついたよ。いきなり自転車のことボロクソに言われて、何コイツ高身長なだけでただのクソ野郎じゃんって思ってた。ブッ殺したいって思ってたけど――ちょっとずつ、考えが変わった。純粋に自転車に興味がないだけで――それだけなんだって。根は全然悪い人じゃない、むしろ変なことばっかり言うけど心では人のことを決して貶めたりしない、いい人なんだなって。江戸君なら、理解してくれるかもしれないって思った。あたしのことわかってくれるんじゃないか、って思った。そしたら、フーちゃんやアリちゃんも集まってくれて、自転車部ができるかもしれない、ってなった。ずっとずっと待ち焦がれてた自転車部――高校生らしい生活ができるのかも、って思った。すっごく楽しみだった。周りが一気に明かりに照らされたようで、ワクワクしてたの。だから、だからね。この前は正直、ショックだった。登り切れそうだった崖を一気に下まで引きずり下ろされた気分だった。この状況を作ってくれた江戸君は、あたしにとって恩人で、あたしにとって自転車部になくてはならない存在だった――なのに、それが叶わないって知って。江戸君と一緒に自転車部ができないってわかって、一気に真っ暗だった。江戸君にフーちゃん、アリちゃん、一人も欠けてほしくなかったのに。自転車部できないかもって思うと――耐えられなかった。涙が止まらなくて――うっ、そう、そうだよ、うぐっ。あたし、ここでずっと泣いてたの……せっかく掴みかけた光がただの幻だったんだって思うと。また前に逆戻りかって、思うと、ひぐっ、堪えられなかった――胸が張り裂けそうだった……」


 

 本気で涙する荒川の姿を見るのはこれで二度目だ。でも、今回は前と違う――前回は正直、その涙の意味があまり理解できていなかった節もあるけれど、今回は、違う――少なからず、こちらの胸にまで刺さってくるものがある。


 しかし、なあ。うーむ。


 この長セリフ全体に関する考察は後に回すとして、とりあえず聞き終わった感想としては――



 部活やめたいとか、超言いづれぇ……。



 これは反則じゃないだろうか? そんな壮絶な過去の話を聞かされてしまったら、誰も彼女を拒否することなんてできなくなってしまうじゃないか。


 もしかしてこれも、実は彼女の策略なんじゃないかなんじゃないか――俺をそういう気持ちにさせることで、強制的に自転車部に引きずり込もうとしているのではなかろうか? まんまと嵌められた俺は高額自転車を購入させられ、むざむざその身を自転車部という謎の組織に投げ出すことになってしまうのではないだろうか……。

 

 ――しかし、まあ。


 そんな考えを思い浮かべることが罪に感じるほど、荒川は今回本気だったわけで。


 盛大に嗚咽を漏らしながら堪え切れない涙を噴水させているその姿は、それはそれはさすがの俺も、彼女のために自転車を買ってやらないといけないのではないかという思いを五パーセントほど増大させてしまうほどに悲しく、哀れだった。


 気のせいだろうか、空が少し暗くなったように感じさえする。


 空は青いままだけど――その青が、荒川の頭上に広がる今、悲しみの青のように見えるのだった。

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