1-13.


 静寂を破ったのは、荒川だった。


 「何であんたがここにいんの?」


 敵対心むき出しの問いかけだ。その様子からして荒川は明らかにツーを歓迎していない。


 「私がここにいちゃダメなのかな? ただサイクリングしてただけだよ~そしたらたまたまリンコがいてね~」


 俺だったら瞬時に反抗心を削り取られてしまいそうな視線もツーは全く気にしている様子がない。足場が不安定でもいつもと変わらず幸せそうだ。


 しかし荒川サイドも負けてはいない。相手が誰だろうと関係なく、自分が今下手したら死と隣り合わせの状況にいようと関係なく、荒川はあくまで強気な態度を曲げない勇敢な女子だった。


 「ふざけないで。何がたまたまよ。他の人がいるところに来ないでっていっつも言ってるのに、今さら忘れたとでも言うわけ?」


 「忘れてないよ。覚えてるよ。リンコとの約束はぜーんぶ頭の中に入ってるから」


 「じゃあ何で今ここにいんのよ」


 「別にいいじゃん~。エドさんに会いたかったんだもん」


 「……何で? 何か用事でもあったの?」


 「ううん、特に用事があるわけでもないけどね。でも私、ここでいっつもエドさんと会ってるんだよ~」


 即座に俺に送られる疑惑の視線。主はもちろん荒川輪子。その顔には、場合によっては暴力行使の可能性も否定できないとの注意書きがある。


 「おい、誤解を招くような物言いをするな」


 俺はすぐにリスクマネジメントに取り掛かろうとしたが、


 「どういうこと? ねえ、どういうことなの? 説明してよね、江戸君」


 急に面倒臭い女みたいになった荒川によって妨害された。柵の上でのバランス能力披露をやめた彼女はピョンッといった風に音もなく下に着地し、俺の前に立ち(乗り)塞がる。逃げられない。


 「どうも何も、そんまんまだよ。あいつの言った通りだ。追加説明することは見当たらないな」


 正直に白状したにも関わらず、納得のいかなそうな荒川はどんどん詰め寄ってきて(自転車に乗った人間が距離を詰めてきたならこちらとしては轢かれたくないので退かざるを得ない)、


 「会って何してんの?」


 「どうってこともない、下らない話さ」


 「何でここなの?」

 「俺は帰宅、あいつはサイクリングでここを通る時間が偶然にも重なってるだけだろうよ」


 「いつもって、どのくらいの頻度?」


 「ほとんど毎日だな。会わない日も多少あったけど」


 「……それ、いつからの話?」


 「確か、入学式の日からだったかな。思えばもう一カ月以上経ってるのか。あれから色々あったな」


 「……てことは何。江戸君、あたしと初めて会った時からずっとツーのこと知ってたってこと?」


 「まあ、そういうことになるな」


 てっきり予め教えてなかったことでまた理不尽に喚き散らされるのかと思えば、そんな予想とは裏腹にはハァ、と大きく項垂れる荒川だった。


 どうしたものだろう、俺とツーが既知の仲だったことが、そんなにショックだったのだろうか? でもその様子は、どちらかと言えば驚きというよりも落胆に近かった。知りたくなかったことを知ってしまい、気が滅入っているような感じ。常日頃から荒れ狂う気性っぷりを発揮している荒川が気を落としているその事実だけで目を洗われるような思いだけれど、がっくりと力を失った彼女がよろけるようにしてペダルから足を放し、地面についたという光景が意味するところはもはや筆舌に尽くしがたい。


 「……それ、ホントなの? 本当にほんとにホントなの?」


 脱力感たっぷりな問いかけの裏には、信じたくないという切実な思いが読み取れる。しかし事実は事実だし、ここで嘘をつく理由も度胸も俺にはなかったので、


 「紛れもなく真実だけど、だからどうかしたか? 俺とツーが元から知ってたら、何かマズいことでもあったのかよ」


 「大ありだよ!」


 俺からの問い返しに荒川は即答。続けて、


 「そうならそうで、何でもっと早く言ってくれなかったのさァ……」


 あームカつくと言わんばかりに頭を抱える。今すぐにでも暴れ出したいけどそれもできないくらい虚脱感に襲われてます、といった様子だ。よほどこの展開は望んでいなかったらしい――しかし一体何がそんなに彼女の頭痛を招いているのか、俺には未だ理解できていない。


 ひとり失望の波に飲み込まれて沈降してしまった荒川と、柵の上から降りてきてクルクル回り始めたツー。この図の成立要因を把握するにはあまりに情報が足りなすぎるけど、とりあえず掴めたことはある――これまでのやり取りを見れば一目瞭然なのだけれど、それはつまり荒川とツーの関係性を知るのは一筋縄ではいかなそうだということだ。


 ふたりのやり取りを目の当たりにして改めて思う――少々ばかりこれは、奇妙すぎる。


 「言うタイミングがなかったんだ。許せ」


 俺の弁解の言葉を聞いたのか聞かなかったのか、荒川は今度は後ろで愉快にしている自転車少女に向き直り(何か思い切ったような顔をした荒川はその場でペダルに足を乗せると、どんなトリックを使ったのかいきなりフロントアップをするような形で自転車を縦方向に九十度反転させつつ自らは車体から降り、天空に向かう形となった自転車をまるで地に刺さった巨大な太刀かのように片手で支えて仁王立ちしたのだった)、


 「ねえちょっとツーさ、どういうつもりなの? あたしに知らせもせず江戸君に近づいたりして。何を話したのか知らないけど、勝手な事されたら困るんだけど」


 「私はただ、江戸さんに自転車乗ってほしかったんだ~、」


 ツーは回りながら言って、お決まりのセリフを付け加える。


 「だって私は自転車の妖精だから。自転車の楽しさをみんなに教えるためにこの世界に来たんだもん」


 「何で江戸君に? 自転車好き有名人ランキングでなら下から数えた方が早そうな人なのに。それくらい、自転車のことなら何でも知ってるあんたならわかるんじゃないの?」


 「今はそうかもしれないけど、エドさんには素質があるよ。私にはわかるよ。だからこの人に、私、自転車乗ってほしいんだ」


 「素質……江戸君に……?」


 胡散臭そうな成分を表情に九十九パーセント含有させつつも、荒川はツーの言葉を頭の中で反芻させているような風であった。なまじツーと付き合いの長い(らしい)彼女のことだ。自転車のことなら何でも知っているというツーが言うことは、俺よりも遥かな高精密度さで認識できているに違いない。


 しかし例えそうだったとしても、会話の焦点となっている者としては、


 「いや、ねえよ」


 と、言わざるを得ない。


 「……だよね」

 

 ここで珍しく荒川と意見が合ったようだった。いやこんなところでだけ合っても。


 「江戸君に何かしらの素質があるなんて、例え地球がひっくり返っても信じらんなそう」


 「……」


 最後の一文は余計だった。




 「あとね、大事なことがひとつ。リンコには、エドさんに会ってほしかったの。会って仲良くしてほしかった。そしたらきっと、運命は良い方向に進むはずだから。悲劇を防げると思ったから」


 この日のツーの去り際のセリフは、また一段と意味が深そうである。


 荒川とツーによる姉妹喧嘩(?)――内容はざっくりと、「テキトーなこと言わないで」「テキトーじゃないよ~」の堂々巡り――が何も解決しないままに終局を迎え、イライラを抑えられない荒川が冷静さを欠いた一瞬の隙をついてのことだった。

 

 荒川は反射的に言い返そうとしたが、何かが彼女を思い留まらせ、言葉が出ないで終わる。今見えている世界の空気を瞬く間に清いものとし大陸に平和をもたらしてしまいそうな笑顔を浮かべながらツーは――これも、いつもと何も変わらない――去っていった――のだが。


 そんな彼女を、呼び止める者がいた。何とも言い難いタイミングで飄々と去るという常例化されるあまりもはや神聖化されたと言っても過言ではない儀式を図々しくも、途中で遮った者がいた。


 「待って!」


 その声の主は宮。いつの間にか復帰していた。


 そして、待てと言われたツーは、律義にもその通りにする。乗車したまま停止するまで数万分の一単位の精度で安定しているので、電池の切れたおもちゃみたいな止まり方に見えるのだけれどその点については気にしないのが一般的認識による協定なのかは知らないがそれはともかく。


 宮はツーが振り返るのも待たずに叫んだ。


 「私の事、覚えてるっ?」


 ツーは停止した状態から、巻き戻ししたみたいに後退開始。クルリと無駄のない動作でこちらへ向きを変えると、


 「もちろん」


 大声を出しているわけではないのに、耳元で囁かれたようにハッキリと聞こえ、しかし不快感を露ほども抱かせない清涼な声だった。


 「フーカ。その自転車を大切にする気持ち、絶対に忘れないでね」


 それがこの日のツーの、本当に最後のセリフとなった。

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