第15話

 アンゼリカは焦っていた。今の時刻は何時であろうか。アンゼリカにはわからないが、夜の七時を過ぎていることは確実であった。とにかく不安がっていてもどうしようもない。アンゼリカは少し駆け足で帰路を急いだ。

 ――家に着いたのは夜の八時になってからだった。ローガンがもしも、すでに帰っていたらどうしよう。そんな不安で胸がざわついた。胸をざわつかせるその感情の中に、確かに混ざる期待は見ないふりをして、駆け足で小屋の扉までたどり着く。恐る恐る扉を開けた。


 果たして、ローガンはまだ帰ってきていないようだった。ふう、と無意識にアンゼリカは息を吐く。それは安堵か、落胆か。それは分からない。

 兎も角、汚れた靴を綺麗に拭いて、服やローブについている葉を払って、身だしなみを整えた。大体の支度が済んだ夜の八時半、扉が開く音がした。

 ローガンが帰ってきたのだ。ぱたぱたと玄関に急ぐと、彼はそこに立っていた。彼の服は随分と、枯れ葉や泥にまみれて汚れている。

「ただいま、アンゼリカ」

 そんな汚れた格好をしたローガンは、しかしその格好にそぐわないほどに穏やかな笑みを浮かべていた。

「おかえり、なさい。ローガン……その格好どうしたの?」

「いやぁ、それが今日はランタンを持って行くのを忘れてしまってね」

 夜の森は暗いね、ランタンがないと足下も見えなくて、何度も転んでしまったよ。そう言って彼は苦笑した。

「ローガンってば、ドジね」

 アンゼリカがそう言ってやれやれと笑うと、ローガンも笑う。汚れた格好以外はいつものローガンであった。

「そんなことより、アンゼリカ。ご飯はもう食べたかい?」

 ローガンが問いかける。アンゼリカはそれにどう答えようかと少し逡巡した。アンゼリカも先程帰ってきたばかりで、夕飯など食べているはずがなかった。だかそう言えば、怪しまれてしまうかもしれない。

 とりあえず、食べたか否かの質問には正直に首を振る。そうして、どう言い訳しようかと考えていると、その前にローガンが口を開いた。

「アンゼリカ、もしかして僕を待っていてくれたの?」

「! え、ええ」

 咄嗟に肯定すると、そうなんだ、とローガンは嬉しそうに笑った。

「先に食べておいていてって言ったのに。だけど、嬉しいよアンゼリカ」

 ローガンが、汚れていない方の手でアンゼリカの頭を撫でる。どう言い訳をしようかと構えていたアンゼリカは拍子抜けしたが、まあ、杞憂だったなら良いわよね、と納得することにした。

 そうして、ローガンが、アンゼリカが反狼の牙に通っていることを知ってしまったのだとは到底思いもしないアンゼリカは、ほっと胸をなで下ろしたのだった。



 その日の翌日。今日は祝日で、ローガンの店の休店日だ。

 つまり、ローガンは今日は一日中家にいるはずであった。本来ならば。

「それじゃあ、行ってくるね、アンゼリカ」

「……行ってらっしゃい」

「ごめんってば。そんなに拗ねないでよ」

 玄関でローガンを見送る、と言ったアンゼリカの頬は膨れていて、ローガンが指でつん、と押すとぷしゅう、と空気が漏れた。ローガンがそれに笑うも、アンゼリカとしては笑い事ではなかった。

「……休店日なのに、どこかに行っちゃうなんて」

 アンゼリカがぶすっとした顔で言うと、ローガンは苦笑した。

 今日は休店日で、本来ならアンゼリカはローガンとずっと家で一緒にいられるはずの日であった。だが今日、ローガンは曰く王都に行かなければならないのだという。

「ごめんね、アンゼリカ。この埋め合わせはしっかりするから」

「……馬鹿」

 今のアンゼリカには、ローガンがいなくとも反狼の牙のメンバーと楽しく話すことは可能である。だがアンゼリカにはローガンとの時間だって大切なものであった。

 平日にしか反狼の牙には行けない、とは言えど、平日と休日ならば圧倒的に平日の方が多い。だから、アンゼリカは数少ない、ローガンと一日一緒にいられる休日を大切に思っていた。反狼の牙のメンバーとの時間は確かに楽しいが、やはり愛するローガンとの時間はアンゼリカにとっては特別なものなのである。

 だからこそ、ローガンが休日にどこかに行ってしまうというのはアンゼリカにとってはショック以外の何物でもなかった。

 しかし、ローガンの予定は変わることはなく、彼は謝りながらも小屋を出て行ってしまう。王都は近いとは言えない。今日の朝から出て行くとはいえ、帰りは夜遅くになるだろう。今日もまた、夕飯は作り置きされていた。

 はあぁ、と重い溜息をついて、アンゼリカはとぼとぼと自室に向かう。なんだか、昨日もローガンの帰りは遅く――昨日に関してはまあ好都合だったのだが――最近ローガンとの時間が減っている気がする。

「……昼からは、またアジトにいこうかしら」

 ぼやいて、アンゼリカは自室のベッドにぼふんと沈み込んだ。


 ――その日、ローガンが帰ったのは深夜になってからであった。しかし、休日は二日ある。

 だから今日が駄目でも明日ならば、と思ったアンゼリカの期待は、翌日の朝、もろくも崩れ去ることとなった。

「アンジェリカ、今日、また遅くなるよ」

 その翌日も、朝食の胡桃パンを囓るアンゼリカに、食前の祈りを捧げ終えたローガンがそう言って微笑んだ。

「またなの? 調べごと?」

「今回は買い物だよ。遠くの町に行くから、もしかしたら今日は、帰ってくるのは朝方になるかもしれない。だから今日は、僕を待つ必要はないよ。先にご飯を食べて、ベッドに入ると良い」

「……そんなにかかるの?」

 そんなのは初めてのことで、アンゼリカは眉をひそめる。そんなアンゼリカを見て、しかしローガンはいつものように優しく微笑んだ。

「大丈夫だよ。良い子で待っていて、アンゼリカ」

「……分かったわ」

 いつものように微笑む彼の笑顔から、何故か底知れないものを感じてアンゼリカは問いかけようとした口を閉ざした。どこに行くのか、何を買いに行くのか。聞きたいことはあれど、ローガンの笑顔はそれを許さない。

 仕方が無く、大人しく頷いたアンゼリカをローガンは満足そうに見て、いいこだね、と頭を撫でた。

「晩ご飯は作り置いておくから。ああ、そういえば昨日は言いそびれたけど、ちゃんと食べる前に火をかけてね」

「勿論よ。馬鹿にしないで頂戴」

「うん、そうだねごめんね」

 頬を膨らませるアンゼリカに、ローガンは笑って謝る。彼は立ち上がり、机の向かい側にいるアンゼリカの額に、少し机に乗り上げてキスをした。

「良い子のアンゼリカ、ちゃんと待っているんだよ?」

「……ええ」

 頷くアンゼリカに、ローガンはもう一度笑いかけた。

 ローガンを見送って、昼まではアンジェリカは小屋に居る。自分の部屋で本を読むのである。相変わらず、読むのはかのラブストーリーであった。悲恋の末に死を選んだ二人の物語は、アンゼリカをやけに惹きつけていた。アンゼリカはこの一ヶ月間、この本しか読んでいない。

 時計の針が十二を指したら、アンゼリカは本を閉じて昼食を取る。それも終えて、食器を洗えばもう他にすることはない。一ヶ月前まではそうだった。

 扉を開けて、躊躇うことなく外に足を踏み出してレジスタンスのアジトに向かう。アンゼリカにとっては最早慣れきった日常である。今日は誰があそこにいるだろう、どんな話をしよう。想像すれば、自然と笑みがこぼれた。


 ――アンゼリカが着くと、廃墟にはルゥ、ウルソン、レオナの三人がいた。いち早くアンゼリカの来訪に気がついたのはレオナで、手を振ってアンゼリカに呼びかける。アンゼリカも手を振って応え、三人の所に駆け寄った。

「アンゼリカ、丁度良いところに来たね。あんたに言わなきゃいけないことがあったんだ」

「私に?」

 そう、とレオナが頷く。ルゥは何も言わず、ただアンゼリカを見ているだけだった。

 ウルソンが身を乗り出して、あのな、と元気よく話し出す。

「近いうちに、反狼の牙の拠点を変えようかって話になってんだ!」

「拠点を? ……ここから、出て行くって事?」

「そういうことだ」

 アンゼリカの問いに答えたのはウルソンではなくルゥであった。

「ここも手狭になってきたし、より行動を拡大するためにはこの場所は位置的に向いていないからな」

 淡々と言うルゥはアンゼリカから目をそらさない。拠点を変える、というのが、どういう事を意味するのかはアンゼリカにもよく分かっていた。

 今までは、小屋とこの廃墟が近かったから、アンゼリカはローガンの元から離れないままで、反狼の牙のアジトに入り浸るという中途半端な立場に甘んずることが出来たのである。しかしアジトの場所が変わり、通える距離でなくなればそれはもう叶わないだろう。


 とうとう、先延ばしにしていた返答を迫られる日が来るのだ。


 アンゼリカはそう悟った。アンゼリカの中で答えはもう決まっていた。だが、アジトでの日常を失いたくない気持ちから先延ばしにしていた。しかしそれも、もうじきどうしようもなくなる。

 ウルソンがそっと眉を垂れ下げて、アンゼリカの顔を伺うように、しかしほんの少しの期待を込めて、彼女を見上げた。

 答えはもう決まっている。「私は、反狼の牙には入らない。ルゥ達と一緒にはいけない」、だ。だがそれを言ってしまえば、もうここには来られないだろう。ギリギリまでは彼らと話せる関係でいたい。そんな欲が、アンゼリカにはあった。

 だから。

「……ここを出て行くのはいつ頃なの?」

「早ければ来週中には、だな」

「……そう」

 だからアンゼリカは、ずるい返事をすることにした。

「その時までには気持ちを固めておくわ。少しだけ待ってほしいの」

 アンジェリカは涼しい顔で嘘をついた。もう嘘をつくことに罪悪感は感じなかった。利己的に、自分勝手に。アンゼリカは自分の欲のために嘘をついた。

 ルゥは真っ直ぐな人だ。アンゼリカのずるさに気がつかないほどに。

「……分かった」

 なるべく早く決めておけよ。そう言って、ルゥはアンゼリカに背を向けて廃墟の奥へ向かっていく。

「……おれ、アンゼリカが一緒にいたら嬉しいな……」

 呟くようにウルソンがこぼした。ウルソンはこの一ヶ月で、随分とアンゼリカに懐いたようだった。レオナが苦笑して、ウルソンの頭を撫でる。

「ウルソン、そんなこと言っちゃあいけないよ。アンゼリカに決めてもらわないと」

「……でも、レオナだってアンゼリカにここにいてほしいって思ってるんだろ?」

「まぁ、ねぇ」

 レオナが向き直る。蔦にまみれた彼女の笑顔は、やっぱりアンゼリカには美しく見えた。

「あたしも、あんたに……『色よい返事』を期待してる。……ごめんね、ずるっこい言い方してさ。でも決めるのはあんただからね。あんたの人生だからさ、あんたが好きなように生きるべきだよ」

 申し訳なさそうに言うレオナ。彼女は自分をずるい、と言ったが、アンゼリカには彼らが眩しく見えた。いっそ愚かなほどに真っ直ぐなルゥも、純粋すぎるウルソンも、どこまでも強く優しいレオナも。

 他のレジスタンスのメンバーだってそうだ。皆、アンゼリカには眩しいくらいにうつくしい。

 ――彼らといると、自分自身の汚さが浮き彫りになってくるようだ。浮き彫りになって、それから、彼らと話すうちにそれはだんだんと浄化されていく。そんな気分になる。勿論アンゼリカの汚さが実際に浄化されてうつくしくなる筈がないのだが、そんな錯覚を覚えるほどに、彼らはうつくしかった。

 異形という逆境の中で、生き延びて、たくましく生きていく彼らは雑草だ。誰からも顧みられず、時に排除されてしまうけれど、それでも彼らは生きて、大地に根を張って、いつか綺麗な花を咲かせるのかもしれない。

 アンゼリカは花だった。鉢の中の花だった。見た目は綺麗でも、実際には農薬にまみれて、誰かの庇護を受けながら他者を踏みつけて咲く花。誰かの庇護がなければ生きられない。誰かに愛でられる、それだけを存在意義として、その見た目上の美しさだけで生きてきた。他人の愛を買って庇護を買って、そんな狡い生き方しかできない花だ。アンゼリカは、そんな生き方を悪だとは思わない。それはそれで彼女が生きる手段であった。何より彼女は、そうやって生きることで、ローガンに出会えたのだから。

 自由な雑草に憧れがないといえば嘘になる。それでもローガンがいるならば、弱く穢れた苗木鉢の花でも良いと思えるのだから、救いようがない。


 レオナとウルソンに、アンゼリカは曖昧に笑いかけた。もう少し、もう少しだけここにいたいの。

 ごめんなさい、ローガン。あなたが激情に塗れる顔が見たくて、こんな風にあなたの言いつけを破っているわ。

 ごめんなさい、反狼の牙のみんな。あなた達をきっと私は利用しているの。ローガンのことについてもそう。私自身のことについてもそう。

 私って、本当に悪い子よ。悪魔みたい。だけど私、反狼の牙のみんなが好きなの。

 ローガンを愛しているの。それだけは本当なのよ。


 そんなアンゼリカの心情など、誰も知るよしはない。

 ――そうして、アンゼリカやレオナ、ウルソンをじっと見ている第三者が、やがて静かに森の中に消えたのも、その時誰も気付きはしなかった。

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