第11話

 いつものように玄関の方に駆けたものの、今日は七時になってもローガンが帰ってこない。


 アンゼリカは疑問を覚えつつ、その場にちょこんと座ってみる。別に、今日ローガンは帰りが遅くなる、などとは言っていなかったはずだ。

 二十分ほど経った頃だろうか。漸く扉が一度軋んで、開く。開けた本人であるローガンは玄関にアンゼリカが座り込んでいたことに驚いたようで、彼女を見て目を見開いた。

「アンゼリカ、ここで待っていたの?」

「そうよ、遅かったわね、ローガン」

 お腹がすいたわ、とアンゼリカは頬を膨らませた。ローガンは何も言わず中に入って扉を閉めて、黙ったまま彼女に歩み寄った。そうして、彼女の前に膝をついて抱きしめる。

「……ローガン?」

 いつもと違う様子のローガンに首を傾げた。そんなアンゼリカに構わず、ローガンは彼女を抱きしめる腕に力を込める。ふと、アンゼリカはローガンの上着から、やけに甘ったるい匂いがすることに気がついた。

 思わず眉を顰める。こんなにおいは知らない。ローガンに問いかけようと彼の胸を押し返して、体を少し離し彼の顔を見る。しかし、問い詰めようと開いた口は言葉を紡ぐことが出来なかった。

「……ただいま、アンゼリカ」

「おかえり、なさい」

 ローガンがアンゼリカの顔を見て、笑ったのだ。とても幸せそうに、安心したように。

 アンゼリカはローガンが普段市場で商売をしていることは知っていても、どういう風に人と関わり、どういう風に時間を過ごしているのかまでは知るよしもない。だからそんな彼を見て、心配になった。何か不安になるようなことがあったのだろうか、と。

「ローガン、何かあったの?」

「……アンゼリカ」

 心配そうに問うアンゼリカの頭を、ローガンは優しく撫でる。白い髪を梳くように指を通して、アンゼリカを再び抱き寄せた。

「アンゼリカ、君は、もしも――」

 そこまで言ってローガンは口をつぐむ。抱き寄せられている体勢ではアンゼリカにはローガンがどんな顔をしているか分からなかった。

 はぁ、とローガンが息を吐く。アンゼリカを腕から解放して、微笑みかける彼はもうすっかりいつも通りだ。ローガンは立ち上がって座った彼女に手をさしのべる。アンゼリカがその手を取って、ローガンに支えられて同様に立ち上がった。

「何でもないよ、アンゼリカ。君は何も心配しなくていい」

 晩ご飯にしよう。お腹がすいたね、待たせてごめんね。そう言ってローガンは部屋に向かう。いつも通りの笑顔であるはずなのにどこか違和感を感じ、アンゼリカは首を傾げた。

 何でもないことはないだろう、そう思ったが、聞くことは出来なかった。なんだかローガンは聞いてほしくなさそうだったからだ。仕方がなくアンゼリカは何も言わずにその後を追った。



「それでもやっぱり、不満がないわけじゃないのよ」

 瓦礫に腰掛けて、そう、拗ねたようにぼやくアンゼリカに、隣にいたレオナが「どうしたんだい」と声をかけた。

 もうすっかりアンゼリカが反狼の牙のアジトにいるのも当たり前の光景になっている。ローガンが市場に行く平日の昼から夕方までは必ずと言っていいほどアンゼリカは反狼の牙のアジトに来ていた。

 いつもアンゼリカがメンバーと話す廃墟の広場には、今日はアンゼリカの他にはレオナしかいない。他のメンバーは情報収集にでていたり、物資の受け取りに行っていたり、別の部屋で会議をしているらしい。ルゥは会議に加わっているそうだった。レオナはいいのか、と聞けば、彼女は「あたしは難しいことは良くわかんないから、会議を聞いていても役に立たないのさ」と笑った。

 そういうわけで今日はアンゼリカとレオナの二人きりで話す形になったのである。それは、今のアンゼリカには好都合であった。女であるレオナに相談したいことが会ったからである。

「昨日、ローガンの帰りが遅かったの」

「へぇ、まぁ忙しかったんじゃないかい? たまにはそういう日もあるさ」

「別に、遅くなること自体は構わないのよ。ローガンのおかげで生活できてるんだから、私が不満を言える立場じゃないわ」

 遅くなったこと自体に不満があるわけではなくて。ただ、ローガンが何か悩んでいることを、アンゼリカに相談してくれないことが不満なのだ。それに、ローガンの服から香った甘ったるいにおい。多分、女性が付ける香水のにおいだろう。あの貴族の屋敷に飼われていたとき、よく娘が己の体にそれを付けているのを見た。そんなにおいがローガンの服についてしまうほど、誰か女性と密着したということだ。

 ――ねぇローガン、あなたは私を抱きしめながら、何を考えていたの? あの時私に何を言いかけたの?

 昨日のその出来事から、もやもやとした疑問がアンゼリカを支配していた。

「……ローガン、私に何か隠してるわ」

 溜息混じりに呟くと、レオナが何言ってんだい、と笑った。

「あんただってローガンとやらに秘密でここに来てるんだろう? おあいこじゃないか」

「……それは、そうだけど」

「誰だって、どんな関係だって、何かしら秘密なんてあるもんさ。気にしない方が良いよ」

 むう、とアンゼリカが頬を膨らませて俯く。

 確かにアンゼリカがローガンに隠していることは山ほどある。反狼の牙のことも、ローガンに抱く感情の、中身のこともそうだ。それと同じなのだろう。ローガンがアンゼリカに隠していることがあるのはある意味当然のことなのかもしれない。

 それでも。

「……私にだってローガンに秘密にしていることがあるけど、でも……それでもローガンの全てを知りたいのは、我が儘かしら」

 膝を抱えて、アンゼリカは呟いた。それを見てレオナは少し驚いたように目を見開いて、それから少し笑う。

「アンゼリカは本当に、ローガンって人に恋をしてるんだねぇ」

「……恋?」

 そうさ、とレオナはアンゼリカの頭を撫でる。ローブ越しに少々乱暴に撫でる手はそれでも女性らしい繊細さと優しさがあった。

「その人のことが気になって、その人の全部が知りたくて。そういうのって、立派な恋だと思うよ。その人のことが好きで好きで仕方がないのさ」

「恋……」

 そうなのだろうか。レオナの言葉を反復しながら、アンゼリカは首を傾げた。

「……でも、レオナ。恋ってもっと甘いものなんじゃないのかしら」

 アンゼリカが呟く。

 少なくとも、アンゼリカが知っている『恋』とはそういうものだ。甘くて、どきどきして、世界がきらきら輝くような、そんな美しいものだ。少なくともアンゼリカはローガンに抱く感情が、そういうものとは思えなかった。

 往々にしてアンゼリカが読む本は、恋や愛を美しいものだと説く。だがアンゼリカのそれはそんな、美しいものではないのだ。アンゼリカはあの日気がついてしまった。

「……レオナ、私、ローガンに恋なんかしていないわ。私はローガンを愛しているのよ」

 レオナが目を見開いた。次いで、情熱的だね、と冗談っぽく笑う。

「レオナ、私、ふざけているわけじゃないわよ」

「分かってるよ。ああでもあんた、そんなにそいつを想っていたのかい」

 どういうことか、と目の前の彼女が放った言葉の意図が読めずにアンゼリカは首を傾げた。そんなアンゼリカを意外そうに見ながら、レオナがあたしはね、と続ける。

「ローガンとやらを、あんたの話とルゥの話でしか知らないんだけどさ。ルゥの話を聞く限りでは、あんたはローガンに縛られてんじゃないかって思ってたんだよね」

「縛られて……? そんなことないわよ」

「まあ聞いておくれよ。結局あたしの想像の域を出ないんだからさ」

 レオナはそう言って、アンゼリカの頭を撫でるとまた口を開く。アンゼリカも大人しく口を閉じて聞く体勢に入った。

「あんたはさ、ローガンって奴に外を出ることを制限されて、外出がばれたら問い詰められて、肩に痕がつくくらいきつく力を入れられてさ、多分怖い思いをしただろう? それでもあんたはローガンから離れられない。……まあ今までずっとローガンの腕の中で生きてきたわけだからね。多分あんたはローガンがいない自分ってのを、想像が出来ないんだと思う。ある意味、親離れが出来ない状態っていうのかね。ローガンの方も多分あんたを手放す気はないから、余計がんじがらめにしてしまうんだろう」

 でも、と一度区切って、レオナはアンゼリカをまっすぐに見つめた。

「同時にあんたはローガンに囚われてる今の状況から、解放されるべきなんじゃないか、とも思ってるんじゃないかい? ……ルゥが言ったらしいね。あんたの今の状況は、貴族に飼われてた頃と大差ないんじゃないかって。あんたも、そういう風に飼われてる状態なんて嫌なんだろう? でもあんたは自由を知らないから、解放されて自由になったときの事が想像できない。だから迷ってるんじゃないのかな」

「……そっか」

 レオナが言った言葉を噛み締める。ああ、そうか、レオナはそう思っているのか。


 私は、外から見たらそういう風に見えるのね。


「レオナ、それはね、半分くらいは正解よ」

 アンゼリカの返答に、レオナは意外そうな顔をする。そんなレオナにアンゼリカは微笑みかけた。

「多分私はローガンに囚われているわ。それは正解。そうして、昔、あの屋敷で飼われていた……観賞植物と変わらないかもしれない今が嫌なのも正解」

 だけど、絶対的に違うことがある。レオナは根本的な部分を勘違いしている。

「だけどね、レオナ。私が『観賞植物』であることが嫌なのは、自由が欲しいからじゃないのよ。私はローガンを愛しているの。だから、だからね」

 アンゼリカはローガンを愛している。おそらく、あの日、ローガンが屋敷の住人を皆殺しにして、彼女の檻を壊したあの日から。その愛は今でも変わらない。

 ルゥ達に会って、少し揺らいだけれど。アンゼリカはやっぱりローガンが好きだった。愛していた。ローガンになら何をされても良いと思えるほどに。ローガンとなら不幸になっても良いと思えるほどに。

 そして、ローガンがアンゼリカの外出を問い詰めたとき。ローガンの指がアンゼリカの柔い肩に食い込んで、とても痛かった。いつもの優しい笑顔とはかけ離れた、恐ろしい目。

 声も目もとても冷たくて、アンゼリカは怖くて堪らなかった。怖くて怖くて、震えてしまった。

 ――しかし、アンゼリカを震えさせていたものは恐怖だけではなかったのだと、アンゼリカは気がついてしまったのだ。同時に、アンゼリカがあの日、ローガンによって屋敷の人々が、目の前で皆殺しにされた日に、死への恐怖を感じなかった理由も。


 アンゼリカの体を震わせていたもの。それは歓喜だった。


 アンゼリカは確かに、恐怖の裏側で、歓喜していたのだ。ローガンが自分の行動一つでこんなにも感情を露わにしている、と。

 アンゼリカは、あんなローガンを見るのは初めてだった。いつでも優しいローガンが、いっそ狂気的なまでの感情を露わにした。それが自分の行動によって引き起こされたものだと思えば、アンゼリカの体は歓喜に打ち震えた。

 アンゼリカは同時に、もっと知りたくなった。ローガンの中身を。

 ――ローガン、あなたはどんな風に泣くの? 何があれば絶望するの? ローガン、ローガン。愛しいローガン、

 あなたのいろいろな表情が見たいの。優しい笑顔だけじゃなくて、綺麗な部分だけじゃなくて、あなたの汚い部分が見たいの。


 きっと、アンゼリカが今なお反狼の牙に通うのも、だから、なのだろう。

 初めは単に、他の誰かと話すことでアンゼリカがローガンに抱く思いがなんなのか分かるかもしれない、と思ったからであった。だが、今は違う。だってもう、ローガンに抱く思いがどんなものなのかは分かってしまったのだから。

 今やアンゼリカがローガンに秘密で反狼の牙のアジトに通うのは、通っていることを秘密にしながらも、密かに、彼がこのことに気がつくのを期待しているからであった。ローガンは、アンゼリカが外出することにあんなにも激情を露わにした。そんな彼が、アンゼリカが実は彼の知らないところでいつもいつも小屋を抜け出していると知ればどう思うだろう。怒るだろうか、悲しむだろうか。なんだって良かった。アンジェリカは、ローガンが自分の行動によって引き出す感情ならばなんだって良かった。


 それこそが、アンゼリカの愛だったのである。


「レオナ、私はね、ローガンを愛しているの。だから、観賞植物じゃ嫌なのよ。ローガンに与えられるだけなのは嫌。私も、ローガンに与えたいのよ」

 アンゼリカはローガンに何かを与えたかった。それが慈愛でも、優しさでも、怒りでも、絶望でも。アンゼリカが与えるアクションによって、ローガンの心を動かしたかった。それは植物には出来ないことだ。檻の中で与えられるだけではローガンに何も与えられない。だからアンゼリカは檻から出たかったのだ。

 同時にアンゼリカは、ローガンから与えられるものなら何だって欲しいのだ。優しさ、怒り、狂気、愛……それら全てを受け入れたい。ローガンからのものであるならば一つ残らず飲み干してしまいたい。

 あの日死への恐怖を感じなかったのもそうだろう。あの時、確かにアンゼリカはローガンに愛おしさを感じていた。きっと一種の一目惚れだっただろうと思う。愛おしいその男から与えられるものも愛おしい。例えそれが、死であろうとも。

 ――もしもの話、あの時屋敷の人々を皆殺しにして、そしてアンゼリカに死を与えられる、

 そんな存在がローガン以外の誰かだったとすれば、アンゼリカは確かに死を恐れただろう。ローガンだったからこそ、アンゼリカは死さえ愛しく思えたのだ。

 それらのことを、アンゼリカはあの晩餐時、唐突に理解したのだった。アンゼリカが、ローガンを愛していると唱えていた、その愛の中身を理解したのだ。


 そうして、どうしようもなく理解した。この愛は間違っているものなのだと。


 だって、こんな、おかしいだろう。なんて利己的なんだろう、この愛とやらは。アンゼリカは自分のために、自分がローガンの全ての表情を見るために、あえてローガンの望まぬ所をしているのだから。

 矛盾している、狂っている。どうしようもなく歪んでいる。

 こんな感情はレオナにも、当然ローガンにも言えまい。

 ローガンが望むままにしたい気持ちもある。ローガンが笑ってくれると、心が温かくなる。ローガンが悲しいと、自分も悲しくなる。同時に、ローガンが望まぬことを、ローガンが予想もしないことをしでかして、彼の感情の動きを見たいというのも、確かに本心だ。

 ローガンが心を動かすのがアンゼリカのためであればいい。それがとても幸せだ。ローガンの心を全て独占したい。

 ――こんな風に思っていると知れば、ローガンはきっと、アンゼリカを不気味に思うだろう。そんな矛盾した歪な『愛』を自分に向ける存在を忌避するであろう。だからこそ、アンゼリカは決してその感情を知られてはいけなかった。

 私って、とっても我が儘。アンゼリカは心で嗤った。ローガンに隠し事をしているくせに、ローガンの隠し事は許せない。ローガンを悲しませて怒らせたいくせに、ローガンに嫌われたくはないの。


「……アンゼリカ、あんたやっぱり情熱的だよ」

 感服したね、と笑うレオナは、アンゼリカが抱えるどろどろとしたこの愛の中身を知らない。アンゼリカが口にすることしか知らない。

 アンゼリカは僅かに、レオナが察しなかったことに安堵した。レオナはきっと、まともな愛の持ち主だ。まだアンゼリカは、レオナと友でいたかった。

「……ねえレオナ、レオナは、愛ってどんなものだと思う?」

「愛?」

 アンゼリカは返事の変わりに問いかけた。レオナが、そうさね、としばし考え込む。

「……慈しみと、愛しさと、ほんの少しの情欲と……そんなもの、じゃないかと思うよ。相手を思いやって、相手の幸せを願って、だけど相手からの愛を求めるような欲も出てしまうような、そんなものじゃないかってあたしは思うよ」

 ああ、やっぱり。心の中で、アンゼリカは呟いた。やっぱりレオナの愛は綺麗だ。本来、愛があるべき形をしている。私の、歪んだそれとは違う。納得と、ほんの少しの落胆がアンゼリカの心中に広がった。

「だけどね、それは愛の一つの形に過ぎないんだと思うんだ」

 しかし、次に紡がれたそのレオナの言葉はアンゼリカには予想外で、心中に広がったその感情を打ち消してしまうような衝撃を与えるものだった。

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