第2話
ローガンと暮らし始めて二年。裕福な暮らしとはいえないが、檻の中の生活より遙かに自由で贅沢な日々に、アンゼリカは十分幸せを感じている。
初めて会ったあの日以来、ローガンが人殺しをすることは見たことがない。いつも身につけている簡素だが上品な装飾が施された剣は、その用途を果たさず鞘にしまわれたまま、腰の飾りになっていた。普段のアンゼリカへの態度も優しく、あの日大量殺人をした殺人鬼とは思えないほどに、ローガンはどこまでも物腰柔らかな青年だった。
「お待たせ、アンゼリカ。ご飯の用意ができたから朝食にしよう」
ローガンは微笑んで朝食を食卓に並べる。瑞々しいレタスの上に赤いトマトと生ハムが飾られたサラダと、胡桃とともに焼いた丸いパン、そしてアンゼリカの好きなコーンスープが座っていた彼女の前に揃った。
「それじゃ、美味しく召し上がれ」
「ありがとう」
簡単に言葉を交わしてアンゼリカはパンに手を伸ばす。ローガンはいつものように、目を伏せて己の首にかけてある十字架に祈りを捧げてから、同様に食事を始める。彼は十字架に磔にされた聖人の、熱心な信徒でもあった。
逃亡から、二年間。この小屋でアンゼリカはローガンと暮らしている。ローガンが毎日朝九時から晩の七時まで森の外にある市場に出ていって、手製のアクセサリーを売って生計を立てていた。ローガンの作る繊細な銀細工は市場の人々に好評らしく、贅沢とは言えないものの、食に困ることはない生活ができている。食費やその他の生活費はローガンが稼ぐ資金で賄われていた。
――アンゼリカの姿は人に見られてはいけないからと、ローガンは彼女が小屋から出ることを禁じていた。
アンゼリカが退屈しないようにと彼は本を与えたし、彼が小屋に居られる時はずっとアンゼリカの話し相手になった。だから彼女がそれに不満を感じることはなかった。
勿論、外の世界に憧れがないわけではない。それでもローガンがいるのなら、こんな小さな世界から出られなくともいいと思った。
アンゼリカがローガンについて知っていることは少ない。特に素性について、彼女は何も知らなかった。
知っていることといえば、彼が信徒であること、そしてかつては国に仕える聖騎士であったことだけだ。後者は、逃亡中に人目を忍んで歩いた裏路地に貼ってあったローガンの指名手配書に書かれていた。
彼があの日、恋人だった娘を殺し、父親を母親を使用人を殺した理由も、アンゼリカは知らない。ローガンは己のことを語りたがらなかったし、アンジェリカも聞かなかったからだ。
知らなくても良い。ただアンゼリカは、今が在ればよかった。
だって、正体を暴くことに一体何の意味があるというのだろう。意味など無いのだ、きっと。アンゼリカはローガンが聖人でも、たとえどんな極悪人でも、たとえ彼女自身を害しようとも構わないのだから。アンゼリカにとってローガンは、あの日檻から救い出してくれた王子様なのだ。
だからただ一つの不満を除けば、アンゼリカはローガンとの生活に満足していたのだった。
「味はどう? アンゼリカ」
「いつも通り美味しいわ! ローガンの料理、私好きだもの」
「料理だけかい?」
「そんなわけないでしょ? 私ローガンが大好きよ」
冗談っぽく問うたローガンに、真面目な顔をしてアンゼリカは答える。すると彼は嬉しそうに、良かった、と笑った。
「ありがとう」
そんなローガンとは対照的に、その返事を聞いたアンゼリカの顔は曇る。むっと唇をとがらせて、アンゼリカは拗ねたように俯く。
「……ローガンは? ローガンは、私のこと好き?」
アンゼリカの問いに、ローガンは途端に困った顔になる。その顔がアンゼリカには悲しかった。アンゼリカが唯一ローガンに抱えた不満だ。
「嫌いなの?」
口ごもって答えないローガンに、たたみ掛けるように問いを重ねればローガンは慌てて首を横に振る。そんなわけないじゃないか、と弁明するように彼は言って、困ったように笑った。
「嫌いなら一緒に住んだりしてないよ」
「じゃあどうして好きって言ってくれないの?」
「……アンゼリカ、」
苦笑したまま、ローガンがアンゼリカの頭を撫でる。
白い髪を指で梳いて、宥めるように彼女の小さな体を抱きしめると、アンゼリカの背中の白い羽根が小さく揺れた。彼がこうするときは、何かを誤魔化そうとするときだ。アンゼリカはそれを二年の付き合いで学んでいた。
「ごめんね」
そう、ローガンが悲しそうに、何かに耐えるように笑うので、アンゼリカは何も言えなくなる。
もうそろそろ市場に行かなくちゃいけない、と言って、ローガンが彼女の背に回した腕を解いた。
アンゼリカの頭をもう一度撫でて、ローガンは商売道具が入った鞄を片手に持って足早に部屋を出て行く。いつの間にかローガンは己の食事を済ませていたようだった。時計の針はまだ七の数字を指していた。
二年間小屋で共に暮らしてきたが、アンゼリカがローガンに「好き」と伝えることはあれど、ローガンがアンゼリカに「好き」と伝えることはなかった。
アンゼリカはローガンを好いている。愛していると言ってもいい。そしてローガンが自分を少なからず好いていてくれている自負もあった。それは普段のローガンが自分を見る愛おしげな目であったり、自分に呼びかける声の温度であったり、そういった諸々からくる自負であった。しかし、ローガンからそのような言葉をかけられたことはない。
アンゼリカは言葉が欲しかった。ローガンが自分を愛してくれていることを確かなものとする彼からの言葉が欲しかった。ローガンの素性が分からなくても良い。だが、その心は知りたかった。
しかし何度ローガンに言葉を求めても、彼は困ったように笑って、さりげなくその請いを受け流すのだ。理由はわからない。照れているような風でもなく、ただ彼は悲しげに笑って受け流す。
アンゼリカは幾度となく幾度となく、もしかしたら自分の勘違いなのかもしれない、と思った。
本当はローガンは自分を愛おしいなんて思っていなくて、むしろ好き、だなんて嘘でも言いたくないほど嫌っているのかもしれない、と。
しかしそれにしてはローガンはアンゼリカに優しすぎた。アンゼリカに話しかける声も、アンゼリカを見つめる瞳も、アンゼリカに触れる手も、あまりにも優しかった。だから、余計にアンゼリカはわからなかった。ローガンの心の内が、である。
わからないものの正体を暴くことに、何の意味があるというのだろう。研究者達は異形を暴きたがった。
どうして人は、わからないものをわからないままに受け入れられないのだろう。全てを自分の価値観の中に収めて、善悪を定めたがるのだろう。絶対の善悪なんてどこにもないというのに。人は神にはなれないというのに。わからないものを暴いて、正体を知って、それで何か変わるというのだろうか。変わる瞬間を見たいのだろうか。
人はわからないものを暴きたがる。それに疑問を投げながらも、アンゼリカもまた、わからないものを暴こうとする人間だった。
ローガンの心の内を知って、何か変わることがあるのかはわからない。ローガンの心の内を、善悪に選り分けたいわけではなかった。なら何のために、そう問われてもアンゼリカは答えることはできない。ただ知りたかった。ローガンの想いを。抱えている何かを。
傲慢だろうか。多分、そうだ。知ることでローガンが傷つくかもしれないのに、それを知りたがるアンゼリカはきっと酷いことをしているのだろうと思った。ローガンはこんな自分を見て、どう思うのだろう、とも。
「……考えても、無駄ね」
残りの食事を済ませて、アンゼリカは空の食器を流しに運ぶ。朝食後の食器洗いはアンゼリカの仕事だった。二年間の生活で良くなった手際で、二人分の食器を洗うのはそう時間のかかることではない。
それを済ませてしまえばアンゼリカがやらなければならないことはほとんど無いに等しかった。昼の分の食事はいつもあらかじめローガンが用意してくれているので、昼食後食器を洗うことの他には仕事はなく、アンゼリカは残りの一日の時間を自由な時間として得ることになる。
自由な時間、とはつまり、退屈だ。小屋から出ることを許されていないアンゼリカにとって、この退屈を紛らわす物は読書くらいしか無かった。
アンゼリカは最後の食器を洗い終わり、丁寧に拭いて食器棚に片付けた。使っていた踏み台を隅にやって、アンゼリカは食事をした部屋を出る。廊下を歩いて角を曲がり、階段をあがっていく。二階に着けば、アンゼリカの私室はすぐそこだ。
部屋に入って、そのまま彼女は本棚に歩み寄って棚から一冊の本を取り出す。金縁が施された黒いカバーの本。男と女が一人ずつ、向かい合って手を取り合っている絵が表紙に描かれていた。
本はいつもローガンが買ってきてくれるのだが、そろそろ未読の本も少なくなってきて、アンゼリカが手に取った一冊が最後の未読書であった。
またローガンに新しい本をお願いしよう、と心の中で呟いて、いつものように窓に面した小さな机に本を置いた。椅子を引いて浅く座り、そのまま机に体重をかけて寝そべるような体勢で本を開いて読み始める。姿勢が悪いと窘めるような人は今、小屋にいなかった。
アンゼリカはその日も、昼食を挟む以外は、ローガンが帰ってくるまで部屋で本を読んで過ごした。それは二年間繰り返した、代わり映えのない日常だった。それにアンゼリカは満足していた。ただ一つ、ローガンが「好き」と言ってくれないことを除けば。
その本は安直なラブストーリーだった。
身分違いの二人が恋に落ちて、周囲の反対の中、最期にはその愛を貫いて心中。所謂、悲劇のストーリーと呼ぶべき物なのだろう。
「私、ローガンとなら、不幸になってもいいのに」
ぼんやりと、アンゼリカは本に顔を伏せて呟いた。年の差も、自分が異形で彼が普通の人間であることも、アンゼリカはどうでも良かった。ただ、彼を愛していた。
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