一気に目の前が霞んでいく。ああもう、こりゃ――タイムアウトだ。

「ちひろちゃん! 先輩の野郎が、クボタの代原だって知って怒っちゃって……! でも俺、昼間に先輩に会いに行ったときにちゃんとそう言ったんだよ! 話半分で聞いてた先輩が悪いってのに、もう二発も殴りやがってさ! あっったま来んよね!」

「おい柾、お前、後輩のくせに先輩への態度がなってないんじゃねーか?」

「先輩こそ! 二年も作品をほっぽり出して何してんすか! 俺が担当じゃなかったら、もう先輩なんてとっくに愛想尽かされてますよ。作家志望なんて世の中に履いて捨てるほどいるんです。その中で運よくデビューの機会が与えられても、プロとして生き残っていけるかどうかなんて、本人にもわかんないんす! なのに、まだデビューの話も生きてるのに、どうして何も書かないんですか。これまでに作家の夢を諦めてきた数えきれないくらいの人と、これから現実を知って諦めていく人を侮辱する気ですか!」

「……っるっせーッ!! 書きたくても書けない人間の気持ちなんてわかりもしないくせに知ったようなことを言うな! 編集者はいいよな、会社に守られて、毎月きちんとした給料ももらえて、ボーナスも出る。でも作家は、いつ飢え死にするかもわかんねー恐怖と常に背中合わせで書いてんだ! 歴史も権威もある文芸誌に俺の短編が乗るのは純粋に嬉しいけど! 代原だって話もちゃんと聞いてたけど! よりにもよって、なんでクボタの代原なんだよっ。後輩二人に急場しのぎで食わせてもらっても、ちっとも嬉しくねーんだよ! かたや立派な編集車と有名作家、かたや派遣やバイトでしぶとく夢にしがみついてるアマチュア作家だ。こんなに惨めなことってあるか……? なあ、ないだろ!?」

「……っ」

 櫻田がギリリと歯を食いしばる。小野寺さんの言葉はひどく乱暴に聞こえるけれど、櫻田自身にも思い当たる気持ち、抱くだろう感情が想像できたのだろう。言い返したいが何も言葉が浮かばずといった様子で珍しく「チッ」と舌打ちをする。

 言い返せる言葉を持っていなくて悔しいのと、西窪クボタ先生の代原を頼むにあたり、それを知った小野寺さんがどんな気持ちを抱くのかを想像しきれず逆鱗に触れてしまった後悔と。櫻田の舌打ちからは、そんな気持ちがありありと伝わってきた。

 小野寺さんも負けじと舌打ちで応戦し、両者は眼光鋭く睨み合う。はち切れんばかりの緊迫感の中、その睨み合いは、一つも終わりが見えてこなかった。

 でも、乱暴な言葉の応酬でだいたいの状況は見えてきた。

 小野寺さんはいたくプライドを傷つけられたのだ。いつまでも芽の出ない自分と後輩二人の活躍をどうしても比べてしまい、自分の原稿が後輩の代原に、その編集も後輩にされるとなって、今まで心の内に秘め続けてきたマイナスの感情が一気に噴出した。

 その気持ちは、ちひろも少しはわかる。一時期、自分で書いた小説を賞に応募していた頃。同じ小説賞に応募した人がどんどん選考に残って賞を得ると、どうして自分の作品はダメだったんだろう、どこがダメだったんだろう、何がダメだったんだろうと、最終結果を見るたびに、なんとも惨めな気持ちになる。書いていて楽しかった作品、自分ではけっこう自信があった作品が一次選考も通過しないときの気持ちといったら……自分の存在を全否定されたような気持ちになり、勝手にどこまでも落ち込んでいってしまう。

 主催者側や選考委員は、応募作の中から賞を与えるに相応しい作品をただ選んだだけ。落選者の人格を否定するつもりなんて微塵もないのはわかっている。でも、気持ちが付いてこないのだ。そうやって数えきれないほどの作家志望者が、夢を諦めていく。

 でも、小野寺さんは違う。ちひろや、たくさんの作家志望者がどんなに本気になって手を伸ばしても掴めなかったものを掴む機会を与えられた〝選ばれた人〟なのだ。

 手に持っていた原稿や編集作業に必要な筆記用具、飲み物やお菓子を近くの事務机に置いたちひろは、すぅ、と息を吸い込んだ。二人を止めなければ。その気持ちだけだった。

「二人とも、いい加減にしてくださいっ!」

「ちひろちゃ……」

「っ……」

 医務室中に響き渡る大声を出すと、二人の顔が一瞬でこちらに向く。

「ここは医務室で、櫻田さんはまだ休息が必要な体です。櫻田さんが西窪クボタ先生の代原だということも含めてきちんとお伝えしていなかったのは、櫻田さんだけじゃなく、幻泉社の責任です。お怒りはごもっともですし、なかなかお気持ちが静まらないのも、その通りです。ですが、小野寺さんも何を甘ったれたことを仰っているんですか。こう見えて櫻田さんも常にいろんなものと背中合わせで編集者の仕事をしています。会社員のいいところだけを挙げて皮肉を言わないであげてください。抱えているものは人それぞれ違うんです。西窪クボタ先生にだって先生にしかわからない苦しみが絶対にあるんです。生きている人はみんな、そうなんです。……とにかく、今は『東雲草の恋文』を急いで編集することだけに集中しませんか。櫻田さん、これを読んで絶賛していたんですよ。私も校閲しながら、なんとも言えない温かな気持ちになりました。作品にもあったじゃないですか。奥さんがずっと抱えていた、益次郎さんを愛する気持ち。時が来なければ開かない蓋もあるんだって、私、小野寺さんの作品から教わりました。なので、お互いの気持ちをぶつけ合うのは、無事に入稿できてからにしませんか? それからでもきっと遅くはないと思うんです。――だからどうか、この場は私に免じて。お願いします」

 長い長い台詞を言い終わるや否や、ちひろは深々と頭を下げる。

 今、一番にやらなければいけないことは、やっぱり編集作業なのだ。それに、一度は代原として短編が載ることを許可した小野寺さんだ、説明不足だった櫻田にも確かに落ち度はあったけれど、倒れたと聞いて飛んでくるくらいなのだから、心根の優しい人なのだとも思う。そこにつけ込む……というつもりは、けしてない。けれど、こうしてちひろが頭を下げることで、十分に情に訴えることは可能ではないだろうか。

 汚いやり方だな、姑息だなとちひろ自身も頭を下げながら良心が痛む。それでも、どんな手を使ってでも小野寺さんと櫻田に編集してもらわなければ、つばき本誌に大きな穴が開いてしまう。そんなつばきなんて、小野寺さんだって見たくないに決まっているのだ。自分のせいで本誌に穴が開いたとずっと後悔を背負っていくよりは、今はプライドが許さなくても掲載に向けて作業をしたほうが、きっといつか、いい後味になる。

 それに、だからこそ逆に燃えるというもの。思わぬ形で修羅場に立ち会ってしまったけれど、ちひろにとってはそれこそ俄然、校閲魂に熱が入るというものだ。仕事の締め切り前で修羅場なのも、人間関係で修羅場なのも、同じ〝修羅場〟。二人が原稿を一枚編集していくごとにちひろが即校閲していけば、きっと大丈夫――間に合わせられる。

「お願いしますっ!」

 頭を下げたまま、声を振り絞る。いまだかつて、こんなに大きな声で誰かに何かをお願いしたことなんてあっただろうか。ざっと振り返ってみても、ちょっと思い出せない。

 結局、ちひろも小野寺さんの作品をどうにかして世に送り出したいのだ。たくさんの読者の目に触れてもらい、こんな作家がいるんだということを広く知ってもらいたい。

 それに、誰の代原だろうと、誰が編集者だろうと、これは【小野寺康介著『東雲草の恋文』】なのだ。揺るぎないその事実は、つばき本誌に掲載され、のちに電子書籍にとなり、ずっとずっと残り続ける。その手伝いが、ちひろはどうしてもしたいのだ。

「……わかったよ、ちひろちゃん。俺らが悪かった。だから顔を上げて」

「すみません、斎藤さん。ついカッとなってしまって……」

 やがて長いため息を吐き出した二人は、それぞれに謝罪を口にした。そろそろと顔を上げると、二人とも似たような気まずい顔で苦笑していて、ちひろと目が合うと、バツが悪そうにお互いに顔を見合わせる。ちひろがものすごい勢いで間に割って入ったことで、どうやら頭に上っていた血が下りたようだ。胸倉を掴み合う手も、もう解けている。

「じゃ、じゃあ……?」

「やるしかないですよね、先輩」

「そうだな。つばきに穴を開けるわけにはいかないし」

「! 二人とも、ありがとうございます!」

 かくして、一波乱ありつつも編集作業がようやくはじまることとなった。

 もう本当に時間がないので、お茶やお茶請けは編集しながら食べてもらうことにし、ちひろは胃がキリキリと痛めつけられるような思いで、さっそく作業に取り掛かった二人が原稿を直していく様子を見守る。一枚一枚にそれほど多く時間はかけられないが、きっとこの二人なら大丈夫だろう。原稿に目を落とす二人の横顔は、息をするのも申し訳なく思えてしまうほど、研ぎ澄まされた集中力の中にすでに頭の先まで浸かっていた。

 午後八時を過ぎると見回りの警備員が医務室に訪れ、三人は櫻田が籍を置く第一書籍編集部に場所を移し、作業を続けることにした。日下部女医の言伝通り、施錠しに来たようだった。よっぽどのことがない限り、校閲部はこの時間、部署の明かりは落とされているが、編集部はさすが、まだまだ活気に満ちている。多くの編集部員がパソコンと向き合っていたり原稿をプリントアウトしていたり、見るからにとても忙しそうだ。

 その一角にある櫻田のデスクの周りに三人で固まり、編集並びに校閲作業を続行する。異様に鬼気迫る三人組に周囲は一時、変なものを見るような目を向けていたが、ちひろたちはそれに構っている暇など少しもなかった。一枚編集が終わるごとに細心の注意を払いつつ急いで校閲し、パソコンの画面に校閲の結果を反映させた原稿を作る。

 出来上がった原稿はデータで送るが、やはり紙に出力したものでないと確認の精度は上がらない。ちょっとした違和感だって画面で見たときよりずっと浮かび上がる。

 紙の消費も激しいし、二度手間、三度手間に見えるかもしれない。けれど、こうすることで三割も作業効率が上がるというのだ。これはれっきとした大学の研究で検証されていることらしい。ちひろも一度、竹林からちらと聞いただけなのでうろ覚えだが、画面で見たときより紙に出力したほうが見落としが格段に減るのは、経験上、確かだ。

 ――と。

「すみません、小野寺さん。第三稿まできていて今さらなんですけど、ここ――半夏生はんげしょうの〝タコ〟ならやはり、凧揚げの〝たこ〟じゃなく、海にいるほうの〝たこ〟ですよね? 一稿と二稿と赤ペンで直す指示を出していましたけど、見落としてしまいました?」

 二度、漢字表記の間違いを指摘したのだが、第三稿でもその部分がそのままになっていることに気づいたちひろは、原稿の後半部分の編集をはじめていた小野寺さんに尋ねた。

 時刻はもう午後九時を過ぎていた。どうにかこうにか第三稿の半分まで校閲は終わったけれど、ここからがさらに正念場となる。このままでいいはずがない。

 半夏生というのは、雑節ざっせつの一つに当たり、蛸を食べる風習がある日ともされる。夏至の日から数えて十一日目、毎年七月二日頃から五日間程度をそう呼び、蛸のほかにも、うどんやさば、きなこ餅を食べたりする地域があるという。名前の由来には諸説あり、カラスビシャクという毒草が生える時期だから、という由来もある。その別名が「半月」であることから、半夏生と呼ばれたりしているということだが、メジャーなところで言うと、やはり蛸を食べる日、または期間のことを指している。

 作中では、昔ながらの風習を大事にする妻が用意した蛸を、半夏生の頃、夫婦で食べるという回想シーンがある。だが、その〝蛸〟がこちらの〝凧〟を誤用したままになっているのだ。櫻田も二度、見落としているのだから、小野寺さんが見落としてしまっていても不思議はないように思うけれど……そこでふと彼が言ったという〝駄作〟が思い出され、こちらが勝手に直すよりはと思い、直接、小野寺さんに聞いてみるに至ったのだ。

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