それでもちひろは、個室に入るとジャケットからスマホを取り出し、櫻田の電話番号にかけた。早峰カズキの前ではどうしてもできない話だ。何かあったときのために、なんていうよくわからない理由で会社を出るときにほとんど強制的に番号の交換をさせられた。

 理由は今も不明のままだが、それを今使わなくてどうする。

『――もしもし』

 二コール目で電話を取った櫻田の声は、相変わらず不機嫌全開だった。でも、こそこそ連絡を取り合っていると思われる可能性を考慮してか、櫻田は『なんだよ』とも『校閲』とも言わなかった。その点では、まだ沸点はピークに達していないらしい。とっさの機転にほっと胸を撫で下ろす。いきなり電話口で怒鳴られでもしたら、大変だった。

「あの、そのまま早峰カズキから目を離さず、私の言うことに対して、ああ、とか、わかった、と言っててください。……少し、ピースが集まりはじめてきたかもしれません」

『マジか!?』

「だから、ああ、とか、わかったって言ってくださいってお願いしてますっ」

『……お、おう。悪い悪い。わかった、続けてくれ』

 電話の向こうの櫻田の声が見事に一喜一憂する。素直なのはいいことだが、ここはぜひとも遠慮してもらいたい。軽く咳払いをすると、ちひろはスマホにもう片方の手を添えるようにして支え、念のためトイレに入ってきた人に聞こえないよう、声を潜めた。

「まだ三分の二くらいまでしか校閲できていませんけど、第二稿には第一稿にはなかった単独の変換ミスや、ひらがなの打ち間違い、例えば〝をするなんて〟が〝をすなんて〟のような抜けがあるんです。反対に〝があった〟と書く場面で〝ががあった〟のような繰り返しも。第一稿、第二稿とも、それは共通しているんですけど……ここからが、ちょっと頭の使いどころで。二つの原稿のそれらをページ番号や行数で順番に洗い出して組み合わせ、かつ脱字は足し、繰り返しによって余分になった文字は前後の位置関係から推測して消していくと、なんとなく文章らしきものが浮かび上がってくるような気がするんです」

『ああ――は?』

 しかしまたもや櫻田が相づちのルールを破った。

「だから、簡潔にとっ」

『いや、そんなこと言ったって、俺にもわかるように説明してくれよ』

 思わず語調が強まると、耳に弱り切った声が返される。ため息で冷静に返り、

「じゃあ、校閲途中の原稿に挟まっている紙、あるのがわかりますか? 早峰カズキに見られないように、編集さんだけで見ながら聞いてほしいんですけど」

『……あ、ああ』

 パラリと紙を抜き出した音を合図に、ちひろはさらに詳しい説明を加えていった。

「そこにある通り、〝をすなんて〟は〝る〟が抜けているので【る】と、脱字の穴を埋めます。同様に〝ががあった〟は〝が〟が一個多いので、直近で脱字の穴を埋めた文字を×で消すんです。これはページ番号や行数の関係です。で、そうすると【か○ど○○うこう 五に】や【ぬ○○○た オ○○ろ いッデもおReヲ視○○】とひどい虫食い穴状態になるんです。○の部分は、たぶん第一稿に散らばっているんだと思います。出版を取りやめたいなんて話が出なかったら、おそらく第三稿にも散りばめるつもりだったと思います。ただ、第一稿に関しては、私もそこまで詳しく覚えてはいないので……。今すぐ穴埋めはできませんし、当然○の数も、増える文字も消える文字も、順番が入れ代わったり前後したりするはずです。でもこれで、早峰カズキが仕掛けた、あまりに多すぎる誤字脱字の謎を解くヒントは得られたと思うんです。一日……いえ一晩あれば、一稿と二稿からでも、それなりの文章を洗い出すことが可能なんじゃないでしょうか」

『……ああ、なるほどそうなるわけか。って言っても、これじゃあ――』

「そうですよね。でも早峰カズキは、きっと私たちが思う以上に、いろいろな面で優しい人なんだと思うんです。多少、頭を捻らなければならない部分はありますけど、私にだってわかりましたし、何より順を追って誤字や脱字をしてくれています。今日になっていきなり出版を取りやめたいと言い出したのは、もしかしたら、知られたくない相手に気づかれてしまったから……かもしれません。それが誰なのかは私にはわかりませんけど、そこで宝永社の出番なんじゃないでしょうか。聞いてみる価値はあると思います」

 でも、これじゃあ早峰カズキが何が言いたいのかわからない――と続けようとした櫻田の声を遮り、ちひろは息継ぎもろくにしないまま、一気にそう言い切った。

 櫻田にも言った通り、第一稿での誤字や脱字はけっこう前のものなのでちょっと覚えていない。一応バッグの中に持ってきてはいるものの、早峰カズキの前で第一稿の原稿の控えを取り出し穴埋めするわけにもいかなかった。第二稿のみの誤字脱字を拾って文章を繋げようとしたが、残念ながら虫食い穴にもならない出来になってしまった。

 それでも、なんとなく不穏な文章になり得そうだということくらいは、ちひろにも気づくことができた。電話口で息を呑んで話を聞いていた櫻田も、紙に目を通しながら同じようなことを感じ取ったのかもしれない。やや間があってから『……そうだな』と答えた声には多分に硬さが含まれていて、にわかに緊張しているようだった。

「で、早峰カズキの説得なんですけど、早くても明日以降がいいかと思います」

『ああ』

「宝永社の校閲の方がまだ会社に残っていればいいんですけど、それでなくても、編集さんや私が突然押しかけてきて、いくら早峰カズキでも動揺していないはずはないと思うんです。もしかしたら来るかもしれないとは思っていたかもしれませんけど、まさか本当に来るとは、ちょっと予想していなかった可能性もあります。それに、校閲も途中ですし、第一稿と照らし合わせての穴埋めも、まだ終わっていません。今日のところは様子伺いということにして、アポだけ取っていったん引き上げたほうが得策ではないでしょうか」

『……そうだな。わかった、そうしよう』

「はい」

 そうして櫻田との通話を切ったちひろは、急いで席に戻った。席では早峰カズキが相変わらず沈黙を貫いたまま俯いていて、その表情は読み取れなかった。向かいでは、櫻田がさっそく明日も会えないかと説得を試みていた。ちひろはそんな二人を横目に櫻田の隣に戻り、テーブルに広げていた原稿や筆記用具を片づけはじめる。

 続きはアパートに帰ってからだ。何かわかるかもしれないのでデビュー作の『誰?』ももう一度読み返したいし、案外どこでも校閲できるという新発見をしたが、やっぱりここは少し騒がしすぎる。それに、戻ってくるときにざっと席を見回したのだけれど、平日にも関わらずけっこうな混み具合だった。あまり長居はできそうにない。

「なんとか明日も会えませんか。会うだけでいいんです、余計なことは言いませんから」

 そう何度も説得する櫻田に早峰カズキが折れたのは、それから少しした頃だった。

 相変わらず頑なに口を閉ざしたままだったが、それでもほんのかすかに首肯した動作を櫻田もちひろも見逃さなかった。ほっとして思わず櫻田と笑い合ってしまう。

 会えるのはまた早朝四時とかなんだろうか、と思っていると、早峰カズキはテーブルに置かれたアンケート用紙と鉛筆を取り、その裏に『今日くらいの時間なら。場所はこの店のこの席で』と、男の子にしてはやや迫力の欠ける大人しい筆致で書き、それを櫻田とちひろに向けた。あくまで喋らないらしい。でも、会ってもらえるだけ上々だ。

「わかりました、約束します」

 神妙に頷いた櫻田に、早峰カズキが一瞬だけ目を上げた。その目ははっと息を呑むほどほど覇気がなく、すべてを諦めているようで、ちひろの胸は不穏にざわつく。

 この目は櫻田の暑苦しい押しに負けたからなのか、それとも別のものなのか……。

 アンケート用紙を丁寧に折りたたみ、ジャケットのポケットに入れた櫻田が「すっかり冷めちゃいましたけど、食べませんか?」とハンバーグセットを勧める。しかし早峰カズキは小さく首を振ると席を立ち、ジーンズの後ろポケットの財布から千円札を取り出してテーブルに置くなり、足早に通路を出口に向かい、そのまま帰っていった。

 引き止めようと思えばできただろう。けれど櫻田がそれをしなかったのは、ちひろに聞きたいことがあったためと、櫻田自身も早峰カズキに負い目があったからだろう。

 前者は、すぐにでも聞けばいい。でも後者は、そういうわけにはいかない。

 宝永社の担当編集がどういう人なのかは、ちひろも知らない。でも、きっと早峰カズキは櫻田が怠慢を働いていることに気づいている。熱烈に執筆オファーをしてきたのかと思えば書き上げた原稿には目も通さず、出版を取りやめたいと言えばその日のうちに押し掛けてくる――何度も手の平を返されれば、口を利きたくもなくなるし、信用もできない。

 そのことに櫻田もようやく身に染みてわかってきたようで、

「……ほんと俺、最低な奴だな」

「わかればいいんじゃないでしょうか。今さら遅すぎる気もしますけど」

「お前、キッつー……。でも、なんも言えねえわ。ははっ……」

 自嘲気味にこぼした笑い声は、早峰カズキが一口も口をつけなかったコーラのグラスの中で、ちょうどカランと音を立てた氷の音でかき消された。

 ともあれ、町田駅から都心に向けて電車に乗り、自分でもちひろの推理を参考に早峰カズキの原稿をチェックしながら隠された文章を探すという櫻田と別れたちひろは、また電車に揺られ、アパートに帰るなりすっかり不要になってしまったコンビニで買った商品を夜食にしながら、さっそく校閲の続きに取りかかった。

 早峰カズキが指定したのは、明日のあのくらいの時間だ。朝一で宝永社に連絡を入れるとしても、そこで有力な情報が手に入るかどうかはわからない。もし宝永社では何事もなく、この原稿でだけ何かを訴えているのだとしたら、そもそもの時間が足りないのだ。

 ここまで強制的に首を突っ込まされてしまえば、乗りかかった舟だろう。中途半端なままでは喉に小骨が刺さったような気分だし、早峰カズキの様子もおかしかった。

 物語の行方を追うより気になることが現実世界で起こるとは夢にも思わなかったが、現実(事実)は小説よりも奇なり、ということなのだろう。献上してもらう廻進堂の和菓子の量を上乗せしてやろう、などと本気で考えながら、ちひろは徹夜を覚悟で櫻田に渡すはずだったあんパンを胃に収めつつ、校閲の続きとデビュー作の『誰?』を読み返した。

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