それでも根は優しい人なのだろう。

「……幻泉社? っていったら、けっこうな大手の出版社じゃねーか。俺でも何冊か本持ってるぞ。でも、それが伊澄さんとことなんの関係があるんだ?」

 吠える犬を落ち着かせた男性は、櫻田が平身低頭して差し出した名刺を一瞥し、訝しげに尋ねながらも立ち止まり、話を聞く体勢を取ってくれた。

 けれど男性は、近所の十代の若者が一歩賞を受賞した作家であることまでは知らないようだった。無類の本好きや作家を志している人などは、出版社のホームページに日常的にアクセスし、新刊をチェックしたり小説賞に応募、あるいは審査の進捗状況に一喜一憂したり、誰が受賞したかなどを見たりもする。

 が、今の聞き方からもその線はない。

 作家の中には、顔出しは一切NGだったり、本当に近しい人にしか作家活動をしていることを知らせない人もいる。伊澄家の――早峰カズキの場合もそうなのだとしたら、下手を打てばこれからの信用にも関わるかもしれない。ここは早峰カズキのプライバシーを守りつつ、聞き方に注意しなければいけない場面だろう。櫻田の手腕が試される。

「いやあ、編集長が出勤中の電車の中でスマホを落としたとかで、拾ってわざわざ会社まで届けてくれたのが、伊澄さんのところの和希かずき君だったらしいんですよ。作家さんのプライベートな電話番号も多数登録されているスマホですから、紛失したとなれば一大事なわけです。本当は編集長がお礼に伺えればよかったんですけど、あいにく仕事が立て込んでおりまして……。でも、どうしても今日中に――あ、スマホを落としたのは今朝なんですけどね。お礼に伺いたいとのことで、代わりに私が訪ねてきたわけなんです」

 すると櫻田は、まるで息をするようにスラスラと嘘をついた。

 あ、早峰カズキの本名って〝伊澄和希〟っていうんだなと、ちひろはそこで初めて知った。下の名前だけカタカナ表記にして本名を使っている、ということらしい。

 それにしても、もしかしたら櫻田は、何度かこういう場面に出くわしたことがあるのかもしれない。ちひろにはなかなか考えつかない嘘だが、信憑性もあるし、作家のプライバシーも守られている。時と場合によっては嘘も方便も必要だ。男性には申し訳ないが、この嘘を信用してもらわないと話が先に進まないので、正直助かる。

「そうか。でも、俺もそんなに近所付き合いをするほうじゃないから、何時くらいに帰ってくるのかまでは、ちょっとわかんないわ。女房に聞けば、おおよその見当は付くかもしれないが……女房の話だと、伊澄さんとこはそんなに近所付き合いをするほうでもないらしいんだよな。共働きだし今の時間でいないなら、帰りは夜遅くかもしれないぞ」

「そうですか……」

「なんだ、急ぎか? 明日でもいいだろうに」

「……まあ、そうなんですけど」

 どうやら男性は櫻田の嘘を信用してくれたようだが、帰りは遅いと聞いて櫻田の顔に絶望的な色が浮かんだ。自業自得だが無理もない。共働きならこの時間はまだ仕事中か、仕事を終えて帰宅の途についている頃だ。帰りにスーパーにも寄るかもしれない。息子も大学生で両親とも働きに出ているとなれば、留守なのも頷ける。こちらは――とりわけ櫻田は早く会いたいだろうが、そうはいっても、この状況ではなかなか難しそうだ。

「まあ、そのうち帰ってくるだろうし、そう気を落とさず待ってみろ」

 そう言って去っていく男性に丁重に礼を言って頭を下げ、その後ろ姿を見送る。

 通りの角を曲がるまでついぞ犬を抱きかかえたままだったけれど、あれで犬の散歩になっているのかどうか……。でも、少なからず男性の散歩にはなっているかもしれない。そこはあまり深く考えないようにしよう。ちひろは気持ちを切り替えることにした。

 とはいえ、夜まで時間が空く可能性が濃厚になったとなれば、いよいよちひろの定時上がりは難しくなった。腕時計は五時を十分ほど過ぎている。……よし、帰ろう。

「じゃあ、お先に失礼します」

「待て待て。誰が帰っていいって言ったよ、廻進堂の羊羹ともなか、欲しくないのか」

 しかし、櫻田の脇を通り過ぎようとしたちひろの腕は、にゅっと伸びてきた櫻田の手によってがしりと掴まれた。加減したのだろうが思いのほか強かった握力と、すれ違いざまに少しぶつかったり満員電車の中で強制的に触れ合ったりする以外に男性に触られたことのない驚きとで、ちひろは思わず「ひゃっ」と声を上げてしまう。

「そんなにビビんなよ~」

 すると櫻田は、途方に暮れた顔の中にもニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。

 見方によっては強制セクハラにもなり得る行為だろう。けれどここで重要なのは、それじゃない。振り向いたちひろの眉間に深くしわが刻まれる。これだけ付き合ったというのに、ここで廻進堂を引き合いに出してくるとは、どこまでいやらしい男なのだろうか。もうとっくに役割は果たしているはずだろう。あとは自分でどうにかしてくれ。

 ――が。

「俺が書かされた念書には、確か【斎藤ちひろに羊羹五本と春季限定のもなかを買う】ってしか、なかったはずなんだけどな~。あっれ~、おかしいな~」

「……そ、それの何がおかしいんですか」

「まだわかんない? 定時に帰る、なんていう項目はなかったんだよ。あんたがこのまま帰るんだったら、羊羹ももなかも買ってやんないって言ってんの。わかる?」

「っ……!」

 切り札的にそう言われてしまい、ちひろの眉間に深く刻まれていたしわは、その瞬間、驚きと、あまりの自分の迂闊さにピンと伸びてしまった。……なんということだろう。目の前の餌(羊羹ともなか)に釣られるあまり、そのほかの重要なことをすっ飛ばしてしまっていたではないか。竹林の前で署名拇印してもらったというのに、これではなんの意味もない。というか、気づいていたのかそうでないのかは、もう確かめようもないけれど、もし気づいていたなら竹林も指摘してくれたらよかっただろうに……。

「どうする? 付き合ってくんないと、買ってあげないけど」

「っ」

 ぐいっと腕ごと体を引き寄せられて、喉が詰まる。けれど。

「ぐっ……わ、わかりました」

「おっしゃ!」

 ちひろは、一杯食わされた気分で渋々と首肯するしかなかった。

 どうやら、どんなときでも廻進堂はちひろの中で不動の一位の座であり続けるらしい。不当な取引をさせられたにも関わらず、まだ廻進堂に目が眩んでいるなんて、櫻田にはなかなか厄介な弱みを握られてしまったかもしれない。でもこれは、どう擁護しようとも念書に不備をやらかしたちひろ自身の責任だ。仕事でもプライベートでも日々あらゆる文章に触れているというのに、自分で書くとなると、てんでダメらしい。

「あ、トイレは交代な。来た道を真っすぐ戻ればコンビニもあるし、どっちが先に行きたくなるかわかんないけど、そんときは、ついでに晩飯になりそうなものも買うこと」

「……わ、わかりましたよ。てか、あんまりトイレトイレ言わないでください」

「なに、恥じらってんの? 校閲と俺の仲だろ。生理現象じゃん、気にすんなって」

「……そういうことを言ってるんじゃないんですけど」

「え、なに? 声が小さすぎて聞こえない」

「なんでもないです!」

 急に元気を取り戻し、嬉々として伊澄家へ引き返す櫻田の後ろをとぼとぼと付いていきながら、ちひろはその背中をキッと睨む。私と編集さんの仲ってどんな仲ですか、と喉元まで出かかるが、どうせ聞いてくれないだろうと腹に抱えておくことにした。

 ともあれ、再び伊澄家の前へ戻ったちひろと櫻田は、早峰カズキやその家族の帰宅を待つことにした。ヨーロピアンスタイルの門扉を間に挟んで塀に背中を預けて立ちながら、犬を連れた散歩帰りの近所の人や通りを歩く帰宅途中の小学生が、先ほどと同じようにちひろたちを怪訝な表情で見ていくたびに俯き、顔を見られないようにする。

 しばらくすると人通りも少なくなり、コースを引き返して戻ってきたトイプードルを抱いたさっきの男性も「……頑張れよ」と一声かけ、ちひろたちの前を過ぎていった。空はすっかり藍色に染まり、弱々しいながらも星が雲間から顔を出しはじめていた。

「ちょっと寒くなってきたなあ。トイレ大丈夫か?」

「……だ、だから、トイレトイレ言わないでくださいっ」

「俺、ホットコーヒーね、ドリップの。ブラックしか飲めないから。あと、あんパン」

「……誰も行くなんて言ってないですよね」

「ぶはっ。一応じゃん、一応」

「……」

 待つこと、そろそろ三十分。いまだに伊澄家の誰も帰ってくる気配はなかった。

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