けれど――。

「なな、なんでっ!?」

 例によって早坂の指示で夜の仕事に赴くと、そこにいたのは〝ハンカチのあなた〟――つまり、泣きべそをかいていた三佳にハンカチをくれた、あの好青年だった。

 しかも、三佳の目の前にあるガラス張りの窓の外を、こちらに顔を向けまま真っ逆さまに何度も何度も落ちていくではないか。これでは無限ループだ。ホラーすぎる。

「ひっ……!」

 もはや引きつった悲鳴しか出やしない。

 一定の時間をおいて何度も窓の外を真っ逆さまに落ちていくなんて芸当は、とうてい普通の人間ができることではない。ということは当然、真っ先に疑うべきは〝彼は最初から幽霊だった〟という、なんとも悲しいオチなのだけれど……。

「もうわかったから、そんなに何度も何度も降ってこないでよっ!!」

 三佳の恐怖メーターは五回、彼が上からヒューッと降ってきた時点で振り切れ、六回目に懲りずにまた降ってきた姿を捉えた瞬間、こらえきれずに爆発した。

 何がなんでも、ちょっとしつこすぎやしないだろうか。現時点では何を訴えたいのかまではわからないものの、えているからといって、わざわざ見せつけるように降ってこなくてもいいと思う。一度降れば十分である。トラウマになったらどうしてくれるのだ。

『すみません、視える人は久しぶりで、つい悪ノリしてしまいました』

「ぎゃー! 今度は普通に入ってきた!!」

 すると彼は、降ってくるのをやめた代わりに、まるで普通の人間のようにドアを開けて三佳と同じフロアに入ってきた。どうもどうも、と後頭部に手をやり、ぺこぺこ頭を下げて入ってくる姿は、さっきまで降ってきていた人とはとうてい思えないフランクさだ。

『何度落ちても驚かなかったのに、普通に入ってきたら普通に驚くんですね』

「あああ、当たり前じゃないですか! ……ていうか! 悪ふざけも大概にしてくださいよ! こっちはほら、仕事で来てるんですから! とっとと成仏してくださいよ!」

 三佳は前回のときと同様、薄ネズミ色の作業着の胸のあたりをフンと突き出し、彼に見せつけるように『早坂ハウスクリーニング』の刺繍を披露した。

 今回の掃除は空き家ではなく、まだまだ不景気が嘆かれる昨今においても順調に業績を上場に伸ばし続けている、とある企業が入っているビルだ。本来なら午前0時を回ったこの時間でもフロアは社員でいっぱいなのだそうだが、今日は掃除が入るということで、その時間までには全員に帰宅してもらう手筈を早坂が整えていた。

 そうしていざ掃除に入ってみれば、窓の外から何度も人が降ってくるし、その人は前にハンカチをくれた人だし……三佳の中で何かの糸がプツリと切れてもおかしくはない。

 正直に言ってしまえば、これがきっかけでお付き合いに発展しないかな~なんて甘い夢を抱いていたのだ。ぶっちゃけ、ハンカチを貸してもらったあの街路樹の脇で、いつ彼が通るかわからない中を健気に待っている自分にも、ちょっとばかし酔ってもいた。

 フ……、と笑われるのは目に見えていたので、光葉にも言っていないし、もちろん早坂にだって言えるわけがなく、ここのところ三佳の胸の中だけでずっと温めていた。

 それなのに……!!

「私の乙女心を返してください!」

『え?』

「あそこで待っていればあなたに会えるかもしれないと思って、ハンカチ片手に十日! 仕事終わりに毎日通ってたのに! こんなオチって、あんまりじゃないですかぁ!」

 心境的には、なんだかもう仕事どころではない気分だ。

 幽霊にほんのり恋をしていたなんて話がどこにあるだろうか。……いや、実際ここにあるけれど。とにかく。すべらない話すぎて、もはやネタとしか思えない。

『あ~、それはなんというか……軽率だったね、ゴメンね』

「ゴメンで済むなら幽霊なんていらないんですよ!」

 たはは、と照れ笑いする彼に毒のある言葉しか出ない。まあ、唯一の救いは、光葉にも早坂にも秘密にしていたことだろう。舞い上がりすぎて早々に口を滑らせてしまっていては、嘲笑だけでは済まず、事あるごとに痴態を持ち出され爆笑されるに違いない。

『……ごめんだけど、成仏はできないかなぁ』

 すると彼は床に視線を落とし、ぽつりと言った。今までのフランクな態度とは打って変わって、しんみり寂しそうで、どこかつらそうで、三佳の胸はツキンと痛む。

「どういうことですか?」

『どうやら地縛霊っぽいんだよね、俺』

 おずおずと尋ねてみれば、そんな返事が返ってくる。

「地縛霊……?」

『そ。死んだのは今から五年前。この会社ね、俺が入社した当時は相当なブラック企業でさ。徹夜や休日出勤は当たり前だったし、先輩に手柄を取られることもしょっちゅうだったの。携帯ゲームやスマホアプリの企画開発とかリリースっていう、いわゆるデジタルコンテンツを主に作ってる会社なんだけど、当時は今より伸び盛りだったかなぁ。何をしても儲かったし、そのぶん、仕事もきつかった。それでも、楽しかったは楽しかったんだよ。何度も足を運んでようやく首を縦に振ってくれたシナリオライターさんを横から掻っ攫われたり、新しいゲームの企画を知らない間に先輩社員に横取りされたりとか……まあ、出る杭は打たれる的なことをされるまではね。とにかく、いざ働いてみれば労働環境もその中で働く人たちもブラックどころかダークでさ。そのうち、俺、なんのために仕事してるんだろう、って働く目的も意味もわからなくなって、ビルの屋上からポーンって』

「それは……なんというか……」

 言葉が続かない三佳にふ、と笑い、無人のフロアを眺めて彼は続ける。

『ちょうど今くらいの時間帯だったよ。一瞬だったけど、落ちていく中で確かに見えたんだよね。この会社の人たちからは、お互いに足を引っ張り合う空気しかなかった』

「そう、ですか……」

『で、ふと気づいたときには、俺はまたビルの屋上に立ってて。まだ死ねないのかと思って何度も飛び降りてみたんだけど、そのたびに屋上に戻っちゃうんだ。そのうち、ああ、これが〝地縛霊〟ってやつかぁ……なんて妙に腑に落ちてね。それからは、この会社の人たちを見守りつつ波長が合う人には驚かれつつしながら、ここで地縛霊やってまーす』

「……」

 最後を明るく締めくくった彼とは対照的に、三佳はとうとう相づちすら打てなくなり、俯いて黙り込んでしまった。とっとと成仏してくれとか、ゴメンで済むなら幽霊なんていらないとか、この場から離れたくてもできない彼にとっては拷問以上にむごい言葉を吐いてしまったことが、三佳の胸を必要以上に苦しくさせる。

 十日前、光葉と電話で話をしたことも、三佳の胸をそうさせる要因の一つだ。

 あのとき彼女は、就職がなかなか決まらない三佳が自殺をしてしまうんじゃないかと気が気じゃなかったと言った。裏を返せば、この彼のように、たとえ就職できたとしても、会社によっては自ら命を絶ってしまう悲しいケースが引き起こる場合もある。

 早坂のもとで働けて本当によかったなと安堵する一方で、彼の命を奪ったこの会社に対して、怒りや憎悪にも似た感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じる。

 いっそのこと、掃除なんてせずにゴミをふっ散らかしてこのまま帰ってやろうか、なんて思う。床に靴の裏を付けているだけでも嫌だ。いや、やっぱりそれはまずいか。

 ――でも。

「答えたくない質問だったら、すみません。……あの、少しお聞きしたいんですが、ご家族やご友人は、あなたがお亡くりになったあと、どうされているんでしょうか。この会社は、あなたから見て少しは働きやすい社風や労働環境に変わりましたか?」

 彼の返答次第では掃除をしてやらないこともない、という気持ちも多少はあるが、何より気がかりなのは、その二点だった。特に二つ目の質問は、言い方を選ばないなら、ただの死に損だ。

 年間自殺者数は二万人とも三万人とも言われる。年々、減少傾向にはあるらしいが、それでも一年にそれだけの人と、その家族や友人たちが心に一生癒えることのない深い深い傷や痛み、悲しみを突如として抱え込まされる現実が、そこにはあるのだ。

 幸い、今まで三佳の周りでは、大往生ののち、ぽっくり逝く人はいても、自ら死を選ぶような人はいなかった。今後もいないことを切に願う限りだ。

 いつかはその日が来ることは、この世の摂理だしことわりではある。三佳の両親にだって、三佳自身にだって、必ずその日は来る。でも、それでも悲しいものは悲しい。

 けれど、人の命を奪っておいて会社が何も変わらないなんて、言語道断だ。経営陣が一掃されるなり社員教育が徹底されるなりしてくれなければ、腹の虫が治まらない。

 そんな思いで彼の返答を待っていると、

『……地縛霊になっちゃった時点で察してよ。本質は変わらないんだよ、残念だけど』

 彼は申し訳なさそうに笑ってそう言う。

「なんで、どうしてですか! 人が一人死んでるんですよ!? これじゃあ、ただの――」

『うん。死に損だ』

 そして、喉元まで出かかった三佳の言葉を、また笑って彼が引き継いだ。

『家族や友達は、そりゃあもう、泣いて泣いて大変だったんだけど、五年もすれば少しずつ受け入れられるようになってくれたのかな。実家は埼玉にあるんだけど、俺が死んじゃったあとは母方の親戚を頼って石川のほうに引っ越したよ。いいところだよ、石川は。今はそっちで静かに暮らしてる。ほら、死因が死因だったから、誰も自分たちのことを知らない土地へ行ったほうが、煩わしい思いをすることも少しは減るでしょ』

「そう、ですか……」

『ちなみに会社は、ニュースで取り上げられてからしばらくは、大人しくしてたよ。社長は何度も埼玉に出向いて親に頭を下げたし、ゲームのユーザーにもそれなりにセンセーショナルなニュースだったからね。優良な会社に生まれ変わることを大々的に発表した。でも、一年半くらいが、せいぜいさ。君なら、感覚的にわかるでしょ。このオフィス、一歩中に入っただけで、なんだかとっても嫌~な感じがしたんじゃないかな。それね、死んでも俺がここに縛り付けられてるから、ってだけじゃないんだよね』

 ――土壌が悪いから、いくら種を植えても汚い花しか咲かないんだよ。

 そう言って、彼はつま先でトン、とフロアの床を叩く。

「そんな……」

 そんな話があっていいのだろうか。三佳の胸に再びふつふつと怒りの炎が灯る。

 ただ、確かに彼の言ったとおり、地縛霊化した霊が一体憑いているにしては、このフロアの空気だけ、ほかとは違っていた。もっといろいろな感情が根深く渦巻いているような感覚。例えるなら、車酔いや船酔いのときのような、脳の中心からグラグラしてくるような気持ち悪さだ。この気持ち悪さが生きている人間から日々発せられているものだとすれば、土壌が悪いから、という彼の台詞にも深く頷かざるを得ない。

 生きている人間と、死んだ人間と、どちらがより恐ろしいのか……。

 三佳は額を押さえて深いため息をこぼす。が、言葉にならない気持ちがただ闇雲に吐き出されていっただけで、煮え切らない思いは何一つ変わらない。

 この会社は根本的に間違っている。それだけは、よくわかるのに。

 どんなに面白くても絶対にここのゲームなんてダウンロードしてやるものか。もし友人知人にやっている人がいたら、即刻やめるように言って回りたいくらいだ。

 そんな三佳を慰めるように、彼が言う。

『俺ね、この会社が経営を続けている限り、ここから離れられないと思う。だから、俺みたいな人を出さないためにも、今までどおり波長の合う人を驚かして早く違う会社に転職してもらえるように頑張ろうと思うんだ。だいたい、そういう人は、激務続きのせいで半分死にたいと思ってるんだよ。ほかに移れば助かる命なんだから、みすみす死なせるわけにはいかないじゃない。それが俺の役目なんだと思うんだよ』

「でも、それならあなたや、あなたに深く関わりのある人の気持ちが……」

『それは言わない約束ってもんでしょ。俺がやりたいのは、ここがひどい会社だって知らずに入ってきた人が本気で死にたいと思ったとき、助けてやることなんだから』

「……」

 そうまで言われてしまえば、もう三佳には何も言えなかった。

 こんな会社に入ってしまったばっかりに自ら命を絶ち、その後、地縛霊となってしまった人なのに、恨み言ひとつこぼさずに純粋に人を助けたいだなんて……。とうてい会社に殺された人の言葉とは思えない発言に、三佳の目元はじわじわと熱を帯びてくる。

 本当に恐ろしいのは、生きている人間のほうだ。だって、耳を疑うようなショッキングなニュースは、すべて生きている人間が引き起こしているのだから。

「じゃあ、せめて、このオフィスで働く人たちの心がこれ以上、私利私欲にまみれたり混沌としないように、精魂込めてお掃除させてください。そのために今日、私はここに来たんです。それから……さっきはひどいことを言ってごめんなさい。私にはきっと何かを変える力なんてないですけど、掃除はわりと得意なほうなので。ぜひやらせてください」

 洟をすすりながらも言うと、彼はようやく安心したように微笑み、その場からすーっと消えていった。三佳の胸の中にはなお、幽霊の彼や会社に対して複雑な思いが絡み合っているけれど、これは仕事なんだと切り替えなければ掃除が手につかない。

 ――せめてこの雑然としたオフィスを綺麗にしよう。

 目に溜まった涙を乱暴に拭うと、三佳は持ち込んだ掃除道具を手に取った。

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