公一氏の話では、清美さんとの間に子どもができないのは、自分の身体のせいだということだった。検査の結果、公一氏の身体のほうに問題が見つかった。完全に子どもができないわけではなく、極端にできにくい身体、ということだったのだけれど、当然公一氏は自分にそういう能力が乏しかったことにひどく落ち込んだし、清美さんに子どもができないのは自分のせいだったことに、男であることの意味を大いに失ったという。

 今でこそ公一氏は健康的でハツラツとした印象を受ける。けれど、当時は目も当てられなかっただろうと、公一氏は清美さんに申し訳なさそうに微苦笑した。

 不妊というと女性側の問題のように思えるが、本当は男性のほうに問題がある場合も多いと、公一氏は言う。会社の人たちも、キヨさんさえ、清美さんのほうに治療が必要だと思い込んでいる節や空気があり、それが余計に公一氏自身を惨めにさせたし、清美さんにも申し訳なく、つらい思いをさせてしまったと。彼はそう、絞り出すように呟いた。

「でも妻が……清美が、それでいい、と言ってくれたんです。私が会社でちょうど昇進したばかりの頃でした。『会社の人たちの心証もある、世間体もあるんだから』と言って、夫の私を立ててくれたんです。治療も思いきって打ち切りました。……しばらくは、本当にこれでよかったのかとか、清美の気持ちを素直に受け止められずに思い悩むことも多かったですけど、それでも清美がそう言ってくれてから、治療のストレスからも、子どもはまだか、そろそろどうだなんていう声からも、少しずつ解放されていったのは確かでした」

 当時のことを振り返っているのだろう。公一氏は日に焼けた手をそっと清美さんの白い手に重ね、まつ毛を震わせた。年相応の目尻のしわに薄っすら光るものが見え、三佳もそっと目を伏せる。清美さんは、ううん、と小さく首を振り、滲んだ涙を指で拭った。

「ただ、私の母は……何も言わないでおこうと決めたのは私たち夫婦ですけど、その頃から清美に『焦らなくていい』、『自然に任せよう』と家に顔を出すたびに言うようになりました。清美は大丈夫だと言ってくれましたが、私は、そんな母の姿も清美の姿も、どうしても見ていられなくて。かといって、本当は私のほうに問題があるんだと打ち明ける勇気も……。そうしてとうとう何も言えずじまいのまま、母を送り出すことになってしまいました。……その後ろめたさや後悔の思いが、実家から足が遠のいていた理由です」

 この御守りを持って仏壇に手を合わせている母の背中を見たとき、どう言葉で表したらいいかわからない気持になったんですよ――そう、公一氏は震える声を振り絞る。

「さっき早坂さんが仰ったとおり、母の目を盗んで捨てようと思いました。こんなものに縋っても子どもはできないのにと思うと、そうせずにはいられない衝動に駆られたんです。それでも思いとどまることができたのは、御守りを通して母との思い出がぶわりと蘇ってきたからでした。……とてもじゃないけど、捨てられないと思いました。かといって、御守りを見るとつらいのも確かで。母はいつも欠かさず仏壇に手を合わせていたので、ここに隠しておけば一緒に拝めるんじゃないかと思ったんです」

「あなた……」

 清美さんが沈痛な声で公一氏に声をかける。彼はちらりと清美さんを見て、それから、勇気を分けてもらうように彼女の手をぎゅっと握りしめた。

「……そのあとの母は、どこを探しても御守りが見つからずにひどく落胆して、まるで生きる気力が萎んだみたいにぼんやりすることも増えていきました。……歳のせいもあったんでしょうね、何もない空間に話しかけたり、食べ物を皿に乗せて持っていったりするようになっていき……早い話が、御守りがなくなったことで認知症の症状が急激に出たということだったんでしょう。私の父はずいぶん前に亡くなっていますから、私が家を出たあとは十何年もひとり暮らしでした。母は、あの御守りがあることによって、毎日の活力を得ていたんだと思います。それが急に見当たらなくなったんですから、一気に生きる活力も萎んで、自分でもどう気持ちを立て直したらいいかわからなかったんだと思います」

 それからひとつ息をつくと、公一氏は続けた。

「母の様子に違和感を覚えるようになってからは、九州で一緒に住もうと何度も誘いました。せめて私たちの目の行き届くところで過ごしてほしかったんです。ですが母は、ここから離れたくないと言って譲りませんでした。でも、こちらとしても、ひとりにしておくことは、どうしてもできません。体が治ったら家に帰ろうと言い含めてようやく施設に入居してもらい、そこで最期を迎えました。……母には本当に申し訳ないことをしたと思っています。でも、あのときの私には、ほかにどうすることもできなかったんです。子どもができないことと、大切にしてきた御守りがなくなったことと、どちらが精神的につらいでしょうか……。打ち明ける勇気を持てなかった私にすべての原因があることは痛いくらいにわかっています。ですが、身を粉にして私を立ててくれる清美のことを思うと……」

「……」

 もういいのよ、と言うように、声を詰まらせた公一氏の背中を清美さんが撫でる。しかし、その手を取り、大丈夫だからと頷いた公一氏は、ひとつ洟をすすって続けた。

「私がどうしても実家に足が向かない理由を知っている清美が、母の死後、年に何度か家の掃除に行ってくれるようになりました。母の持ち物も、清美と母の兄弟や親戚たちで整理をして、形見分けをして……。それでもまだ少し荷物を残していたのは、わたしの我儘です。母を精神的に追い込んだ私が言えたことではないですけど、母がまだ、あの家で私や清美が訪ねてくるのを待っているような気がして、どうしても……いえ、御守りをぽつんと残しておくには申し訳なかったんです。隠し場所を知っているのは私だけです。私が取り出さなければ、御守りはいつまでも日の当たらない場所に隠されたままになってしまう。それでは可哀そうだったんです。いつかは仏壇も家もどうにかしなければとは思いつつも、なかなか腹も決まらず、今までずるずると……。罪滅ぼしにもなりません」

「家を更地に戻すのは、清美さんの身に変なことが続いたから、というわけですね?」

 肺の中の空気をすべて吐き出すように、はぁ……と長いため息をついた公一氏に、今まで黙って話を聞いていた早坂が確認するように尋ねた。

「はい。そのことがきっかけで覚悟も決まりましたし、ようやく金銭面の目処もついたんです。九州に家も買っていますし、今後のことは不動産屋に任せようと思っています。それに、更地に戻れば、もしかしたら私の罪も消えるんじゃないかと思って……」

「なるほど」

 早坂は、そう言うと静かにひとつ、頷く。

 公一氏の本心が後者であることは、この場にいる皆がわかっていた。いい言い方ではないかもしれないけれど、清美さんの周りで不可思議なことが起こるようになって、ようやくこれで苦しい思いから解放される理由ができたと公一氏は考えたのだろう。

 ずっと空家にしておくわけにはいかないが、かといって取り壊すには心が痛む。生家であり、自分の心の弱さからキヨさんを苦しめてしまった負い目もあるなら、思い出深いあの家を、きっとどうすることもできなかったのではないだろうか。

「工事の着工には時間がかかってしまいましたが、不動産屋に紹介していただいた早坂さんのところに頼んで正解でした。清美にもずっと言えずにいたことを告白できてスッキリもしましたし……何から何まで本当にありがとうございました」

「ありがとうございました」

 深々と頭を下げる公一氏の隣で、彼の背中に手を置きながら清美さんも頭を下げる。

 応接セットに通されるなり、まずハウスクリーニングの進捗状況を尋ねずにはいられなかったのは、ひとえに清美さんを思う気持ちが逸っていたからなのだろう。

 向こうに家も買っているということは、公一氏夫妻は九州に定住するつもりでもいるはずだ。そうなった場合、空家となって久しいキヨさん宅――公一氏のご実家は、あの土地に住みたいと思ってくれる、まだ見ぬ人の手に渡ったほうが、三佳もいいと思う。

 公一氏の話には胸が痛む部分も多々あったものの、これですべて解決だ。

 真相を知りたいと好奇心いっぱいで話を聞いてしまった自分を腹の中で大いに叱りつつ、あの霊も――キヨさんの思いが自らの意思を持ってしまったという黒い靄にも、今の話を聞かせてあげたかったなと、三佳は少し寂しい気持ちで夫妻を見た。

 今回の一連の出来事の根源にあったのは、相手を思うがゆえの誤解だ。たとえ靄でも、公一氏夫妻が前ほどキヨさんの顔を見に訪ねて来なくなったことをポジティブに捉えろというほうが無理な話だろう。まして靄はキヨさんの思いから派生した存在だ。キヨさんがひとりで寂しい思いをしている、なのになんで息子たちは顔を見せに来ないのだろう。その思いがやがてネガティブな方向に誤解を生むのは、人の世でもよくある話だ。

「あの、この御守り、持ち帰っても……?」

 顔を上げた清美さんが、御守りをしっかり胸に抱いて早坂に尋ねた。

「こんなになるまでお義母さんが私を思ってくださる気持ちを守り通してくれた御守りです。手元に置いて、ずっとずっと大事にしていきたいのですけど……」

「ええ、もちろん。それが本当の意味でキヨさんのご供養になると思います。今まではお二人とも、なかなかそういう気持ちになるには難しい部分もあったでしょうけど、秘密をすべて打ち明けたこれからは、心に引っかかるものもないでしょうから。どうぞ大切になさってください。キヨさんもきっとお喜びになるはずです」

「ありがとうございます……!」

 早坂がにっこりと笑顔を見せると、ぎゅ、と御守りを抱きしめ、清美さんも笑った。その横では公一氏も目に涙を浮かべて微笑みながら、それにしても懐かしいな……と、ぽつりとこぼす。「そうね。あ、でも、私は今日まで見たことはなかったんだけど」とお茶目に肩を竦める清美さんは、ここへ来たときは、失礼ながらあまり生気を感じなかったけれど、その笑顔は花が咲いたように朗らかで、三佳の顔にも思わず笑みが広がった。

 そういえば、もとより彼女はとても芯の強い女性でもある。

 今回のことがなければ、一生黙っておく覚悟を持っていたとは思うけれど、掃除に行くたびに不可思議なことに見舞われたり、義母や夫のことを思い、ずっと胸に秘めてきたことがあったのだから、いくら芯が強くても、ふさぎ込んだり参ってしまうこともあっただろう。それらがすべて解決した今だからこそ出た、清美さんが持つ本来の笑顔だ。

「あの、そのことなんですが……まだ間に合うようでしたら、母の細々とした荷物も引き取ることは可能でしょうか。さすがに仏壇は大きすぎて持って行けませんけど、お恥ずかしい話、嘘をついていた負い目があって、私たちのところには母の形見がないんです」

 そう、おずおずと申し出てきたのは、もちろん公一氏だ。

「それでしたら、少々お待ちください! やっぱり見ていただかないことには……と思って、念のため、キヨさんの持ち物を段ボール箱にまとめておいたんです!」

「本当ですか!?」

「はい! すぐにお持ちしますので、そのままお待ちください」

「ありがとうございます」

 そしてもちろん、〝もの〟に執拗に肩入れしてしまう表裏一体の癖を持つ三佳も、キヨさんの持ち物を取っておかないわけがなかった。仏壇だけ元の位置に戻して早坂が早々に帰ったあと、どうせ掃除するのは私だけなんだし何をしてもいいよね! と、内緒で荷物をまとめていたのだ。……あの大量に割れてしまった皿を除いて、ではあるけれど。

「これです。どうぞ中をご覧ください」

 自分のデスクの下に隠しておいた段ボール箱を夫妻の前に持っていくと、ふたりは顔をほころばせて蓋を開ける。中から出てきたのは、幼い公一氏が書いたと思われるチラシの裏のなんだかよくわからない絵や、用途不明な小さな小さなガラス片などが雑多に収められたお菓子の空き箱。浴衣の布と思しき切れ端や、折り紙で作った手毬、壊れて動かなくなってしまった男性ものの懐中時計等々、本当に細々としたものばかりだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る