■1.空き家の幽霊と切り裂かれたお守り 1

『わたしの家に何しに来たあぁぁぁ!』

「キャーッ!」

『ここをどこだと思っている、これ以上足を踏み入れてみろ、末代まで祟るぞ!』

「どどどど、どうかそれだけはご勘弁を! ただでさえウチの家系はなぜかタバコの不始末でボヤが出たり台風で屋根が飛んだり大雨のときは床上浸水とか普通にしちゃうんです、プチ不幸が舞い込むような家柄なんです。末代まで祟られたら生きていけません!」

『ならば今すぐ出ていけ。ここはわたしの家だ、貸しもしないし売りもせん』

「そんなご無体な……! 私はただ、ちょっとここのお掃除がしたいだけで、荒らすつもりはちっともないんです。見てください、作業着のここ。『早坂ハウスクリーニング』って刺繍が入っているでしょう? 私は家のお掃除を請け負う会社の者なんです」

 散々逃げ回っていたが埒が明かず、三佳は背後から覆うようにして追ってきた黒い靄のようなものに向き直ると、薄ネズミ色の作業着の胸のあたりをフン、と突き出し、左手で生地を、右手は刺繍の部分を指さし、自分は害を及ぼす存在ではないことをあらん限りの勇気を振り絞って誠心誠意伝えようと孤軍奮闘した。

 まあ、相手は靄なので、目があるのかはわからない。だが、追ってくるところといい、会話が成り立つところといい、見えていないわけではないし聞こえていないわけでもないらしい。そもそも、なぜ自分に靄が見えたり声が聞こえているのか、三佳は『早坂ハウスクリーニング』に即採用されて一ヵ月あまり、ひとつもわかっていないのだけれど。


 五月某日、都内某所。現在時刻、午後十一時。

 今日の仕事は、遠方に住んでいてなかなか片付ける時間が取れないご家族に代わり、三佳が就職したハウスクリーニング会社が細々こまごまとしたものを片づける、というものだった。

 派遣先の家は、十三年前に他界したという鷹爪たかづめキヨさん宅。昭和情緒漂う木造建築の家がひしめき合うようにして建つ住宅地の中の、平屋建ての一軒家だ。

 細い道路は、ほとんどが一方通行の標識が立っていた。スクールゾーンでもあるようで、小学生がランドセルを背負って歩くお馴染みの黄色の標識も、ここに来るまでに何度も目にした。こんな閑静というよりは寂れた住宅地に子供のいる家庭があるのだろうかとも思ったが、都心のマンションより下町の一軒家のほうが住みやすく憧れるという人も、けして少なくはないという。地方出身者の三佳は、できるだけ都心に住みたいと思っている側の人間だが、それは単身者だからこそ見られる夢かもしれない。子供のいる家庭は、もしかしたら下町風情溢れる場所のほうが、大らかに子育てができるのだろうか。

 まあウチの実家も田んぼと畑と山に囲まれたド田舎だし、大抵の不幸は笑って流すような家族だから、わからないわけでもないけど。などと思いながら、三佳は慣れない車の運転をなんとか無事故無違反で終え、単身、今は亡きキヨさん宅へ足を踏み入れた。

 しかしすぐに異変が起きた。

 あらかじめ預かっていた鍵を鍵穴にさして開錠し、玄関を開けたとたん、真っ暗闇で見えるはずがないのに、何かがサッ動いたような気配を感じたのだ。

 すぐに、電気がつくように手配しておいたという所長の早坂慧はやさかけい ――就職面接に訪れた際に三佳を即採用したオッドアイの彼だ――の言葉を思い出し、手元の懐中電灯で電気のスイッチを探した。玄関ポーチでも豆電球でも、明かりがついてくれさえすればなんでもよかった。懐中電灯だけでは心許なさすぎる。上から照らす明かりの確保が急務だった。

 手が震え、懐中電灯を取り落としそうになりながらも電気をつける。どうやら押したのは廊下の電気だったようで、チカチカと数度明滅したあとにパチリとついたそれに、三佳は一瞬、目が眩んだ。特に強い光ではないのだが、目が慣れるまでに数秒かかる。

 やがて目を開けると――目の前に黒い靄が迫っていた。

『わたしの家に何しに来たあぁぁぁ!』

「キャーッ!」

『ここをどこだと思っている、これ以上足を踏み入れてみろ、末代まで祟るぞ!』

 そういうわけで冒頭の一幕に戻り、今、三佳は、腰が引けつつも胸を突き出し、自分が『早坂ハウスクリーニング』の社員であることを一生懸命相手に伝えているに至る。


 追われれば逃げたくなるのが人間の本能だ。後ろめたいことがあればなおさら。わけのわからないものが追ってくるのなら、もっとなおさらだ。

 ダラダラと脂汗をかいて逃げまどいながら、三佳は家中のスイッチというスイッチを押しまくった。トイレの電気、風呂場の電気、階段の電気に台所の電気。まるで息を吹き返したように家の中がパッと明るくなったのはよかったのだが、果たして黒い靄はますますその黒さを増し、執拗に追ってくるので恐怖しか感じない。

 そうして無我夢中で逃げている間に、襖続きの仏間と居間の電気も、どうにかつけることに成功した。しかし壁際に追い込まれるのはもはやお約束で、後ずさりも満足にできない。ご家族のほうも忙しい合間を縫って年に一度か二度は空気の入れ替えや掃除をしに来ているそうだが、じっとりと空気が重く、やはり埃くさいのは否めなかった。

「わ、わかっていただけました――どわぁぁっ!」

 胸を突き出したまま、それでも一歩身を引くと、頭に柔らかな衝撃があって三佳は悲鳴を上げた。振り返ったり確かめたりしている間に喰われたらどうしようとも思ったが、実態のあるものも、やはりそれなりの恐怖がある。運よく靄がじっと三佳の胸元に注目している隙に、手で頭を払い振り返る。あったのは、埃がたんまり溜まった蜘蛛の巣だった。

 よく見ると、居間の隅にはダンゴ虫の亡骸も転がっている。人が住まなくなった家は、いくら定期的に手入れをしようとも内からも外からも廃れていってしまうのだろう。三佳の胸は一種の物悲しさに襲われ、なんとも言えない切ない気持ちになった。

 そんな三佳の一連のひとり相撲ののち、靄が言う。

『そういえばここ数日、珍しく家の前に車が停まっていたな。車を降りるわけでも、何をするでもなく少しすると帰っていったが、もしかしてあれはお前の会社の人間か?』

「いや、そこまではわかりませんけど……私、四月に入社したばかりの新人で。まだ会社のこともよくわかっていないし、どうして深夜にお掃除にお伺いするのかも、本当のところはわかっていないんです。ただ所長の早坂に言われてここに来ただけで、ほかのことは何も……。あ、でも、ものの整理や掃除は、わりと得意なほうなんです。だ、だから、お掃除の間だけでも、祟ったり呪ったり喰ったりしないでいただけると助かります……」

『そうか、お前も今は苦労の身なのだな』

「わかっていただけますか!」

『緊張と勉強の連続だ、心も体も休まる暇などあるまい』

「あ、ありがとうございます!」

 どうやら話のわかる靄で助かった。ちょっと同情してもらえた気がする。

 さっきまで執拗に追ってきていた靄はいくぶんしんみりしているようで、三佳はここぞとばかりに勢いよく頭を下げた。誰しもが通る道ではあるが、同情してもらえたなら、あともう一息だ。心なしか靄の色もおどろおどろしさが薄れているように思う。一気に畳みかけて、さっさと掃除をさせてもらうに越したことはない。

 とはいっても、怖いものは怖いのだけれど。でも、少しだけ心を通わせられたような、そんな気がして、三佳の恐怖に張り詰めていた気がゆるりとほどけていく。

 霊なのか。だとしたら、誰の、あるいは何の霊なのか。

 妖怪や精霊という、もののけの類いなのか。だとしたら、何の妖怪や精霊なのか。

 そのあたりのことは三佳にはわからないが、これで三佳が何者なのかということと、仕事をさせてもらえそうな雰囲気が出てきたことは確かなようだ。

 ふと、音も、空気の揺れもなく、靄が三佳から離れていく。

 壁際に追い込まれていた三佳の反対側――わずかばかりの庭に面した窓のほうへと移動した靄は、三佳の体を丸ごと覆いつくさんばかりに膨れていた先ほどまでとは違い、もう小さく萎んでいた。三佳の顔ほどの大きさだろうか。これならば、少しは怖くない。

『仕方がない。掃除なり、ものの整理なり、好きにやるといい』

「ありがとうございます! あの、何かあったら声をかけてください。残しておくものとそうではないものとの区別は、私にはできないので」

 言うと靄は、すうっとその黒さを明かりの中へ溶け込ませた。少し待ってみたが返事はない。わかった、ということなのか、ものの整理に関しては靄もわからないのか。

 とにかく三佳は、気を取り直すと一度会社の車に戻り、中から掃除道具や段ボール箱を抱えて再びキヨさん宅へ戻った。靄の気配は、もう感じられなかった。新人の三佳に気を使ってくれたらしい。確かに生身の人間に作業を見られているのでさえ、なんとなく気が引けるのに、人ではないものに見られていると思うといろいろな意味で気が抜けない。

 とはいえ、いる・・ものは、いる・・

「まずは、ものの整理からさせていただきますね。形見分けはキヨさんの四十九日を過ぎてからしたそうですけど、まだちょっと食器とか家電とか、服なんかも残ったままだとお伺いしています。まずはそこから整理していきましょう」

 居間に戻ると、段ボール箱を組み立てながら、三佳はそう声をかけた。姿を消してくれたり気配を消してくれたのは本当に有難い。だが、無言も失礼だ。もしそれで靄の気が悪くなったら、たまったものじゃない。また振り出しである。お金をいただく以上、家にいるのが人間だろうと人間以外のものであろうと、気遣いは必須項目だ。

 それに、なんで私、人間以外のものが普通に見えたり話せたりしているんだろう、とは、一瞬でも思ってはいけない気がする。だって、見えちゃっているし話せちゃっているんだから仕方がない。それに、なんとなくこちらの考えていること、思っていることが人ならざるものに伝わってしまいそうで怖い。また、そこを考えてしまえば、早坂のあれ・・は何なのだ、という謎に行き着く。『早坂ハウスクリーニング』に一発採用されて一ヵ月と少し。三佳はこういうとき、ただただ無心になって仕事に精を出すことを学んだ。

 さて、問題の掃除のほうは、居間は家具もなく、がらんとしていたので、先に目についた畳続きの仏間からはじめることにした。襖が開けられたままになっているので入りやすいし、奥には仏壇も見える。まずはご挨拶をと思った。

 仏間には、遺影や位牌の類いはなく、大きな仏壇と、その前に線香台が置かれているだけだった。扉が閉じられている仏壇も線香台もうっすらと埃をかぶっていて、壁の間の隙間や線香台の脚にも蜘蛛の巣が張っていた。ダンゴ虫も白くなって伸びている。

一体どこから入り込むというのだろう。見た感じ、立て付けは悪そうではないのだけれど、やはり小さな虫が入り込む隙間は豊富にあるのかもしれない。

 仏壇に手を合わせ、今から綺麗にしますね、と心の中で唱える。

 先ほど靄にも言ったが、残しておくものと、そうではないものの区別は、三佳の判断ではできない。ジャンルごとに分けてきちんと整理し、箱に詰めておくことにする。

 早坂の話では、ご家族は家財道具から何からこちらで処分してくれて構わないし、そのための費用は全額負担すると言っているそうだ。閉じていた目を開け、立派な仏壇を見上げる。この仏壇も、きっと処分の対象なのだろう。壊してしまうには惜しい気もするが、ご家族のほうにも都合というものがある。今は昔とは生活が変わってマンション暮らしなどで仏間を作るほどの余裕がない場合も多いため、小さな仏壇や簡単なものが主流だとテレビの番組で見たことがある。キヨさんのご家族もそうなのかもしれない。だとすれば、置く場所が限られるこの仏壇は、言い方は悪いが邪魔になってしまうのだろう。

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