第3話「獣憑きの前例と義兄の笑顔」

 ぺちぺち、と頬を叩かれる感触。意識の内側で、赤子が無邪気に笑っていた。


(ミカか……)


 獅子の姿のまま、レオは赤子の意識――ミカに笑いかける。

 意識が砕け、約十五年分の記憶を失った少年。彼は硝子や泡のような欠片を集めながら、日々成長していた。

 ハイハイで動き回る姿は微笑ましく、レオの背中に乗ろうとしては失敗している。


(ははは。我を乗り物扱いとは、大物になるぞー)


 目の前の現実から逃避したいレオは、獅子の手で赤子のお腹をふみふみと撫でる。

 それだけで赤子はくすぐったさに笑い、元気に転がる。頬を分厚い舌で舐められれば、目をぱちくりとさせた。

 その姿を眺めながら、レオは赤子のように転げ回りたい衝動に襲われる。


(こ、こんなことしている場合じゃないのに!!)


 けれど少しだけ「パパ」と呼ばれて浮かれてみたい。そんな気持ちは否定しない。


(ミカ……頼むから、会話できるくらいに育ってくれぇ……)


 赤子状態のミカでは意思疎通もままならない。第五王子のフリにも限界が来ていた。

 それを決定づけたのは一時間前の出来事だった。




 女研究者――ハリエットが目覚めた。直後、大きな悲鳴がヤーの研究室に響き渡ったのである。


「お、王子! 誠に申し訳ございません! 極刑だけは、どうか死刑だけはご勘弁を……」

「む? なんの話だ?」


 大声で耳が痛くなったレオは、いきなり謝りだしたハリエットに疑問しか浮かばなかった。

 怯えを宿す桃色の瞳には涙が滲み、深緑の長髪は髪留めが外れていた。細い縁眼鏡も鼻からずれており、せっかくの美人が台無しである。

 布団で体を包み、防御態勢を取っている。すらっとした細身の体を隠しており、季節も相まって不格好な雪だるまのようだった。


「御身を傷つけた罪は必ず償いますので、研究報告会まで何卒猶予を……」

「……ああ。そういえば」


 扉で体が当たったことを思い出し、レオはようやく合点がいった。


「……確かぶつかったのはオウガだったな?」

「ん?」


 少し思考を挟み、床の片付けをしていたオウガへと目配せする。


「そうそう。俺がぶつかって、ミカに激突したんだよ」


 視線の意図を汲んだオウガが淀みなく告げる。てきぱきと本の山を棚へとしまっていく手際は圧巻で、ヤーやカロンが掃除するよりも数倍速い。

 作業途中で気になっていた本の続きを読む精霊術師二人は、彼らの会話は耳に届いていなかった。


「え?」


 記憶が混乱している。そんな疑惑に取り付かれたハリエットに対し、床を水拭きしているクリスが声をかける。


「王子はそれくらいで怒るような御方ではありません。お気になさらず」


 気品ある笑顔に圧倒され、ハリエットは呆けてしまう。気絶したせいか、脳内で状況再現しても曖昧な始末。

 王子までもが窓拭きしている光景を見ているせいか、夢の続きかと頭が痛くなってきた。ハリエットは正常な思考に基づき、至極まっとうな意見を述べる。


「……なんで王子と従者が掃除してるんですか?」


 むしろやるべき相手は部屋の主、精霊術師のヤーだ。しかも彼女は王子の従者であり、立場的に下のはずだ。

 肝心な彼女は本を読んだまま集中を続けている。横では同じ姿勢で読書に没頭する兄――カロンもいる。

 捻れた時空に迷い込んだのではないか。突飛な思考に飛びかけたハリエットに対し、レオはぼそりと呟く。


「ヤーは散らかったままで良いと言うが、我が辛抱できなかった」

「むしろ勝手に片付けられると、何処になにを置いたかわからないのよね」

「ヤー殿……お気持ちは理解できますが、虫の死骸が部屋の角で転がったままなのは如何なものかと……」


 本を読み終えたヤーの言葉に、クリスが困惑の表情で諫める。

 雑巾絞りで桶の水が汚れていくのを眺め、レオは小さく溜め息を吐いた。空中で浮かぶアトミスとホアルゥも微妙な心境を口に出す。


(ヤーしゃんが部屋の主でしゅから……)

(僕らが口に出すのもどうかと……)

「まあそんなわけで掃除の真っ最中だ。歩けるようならば自らの研究室に戻ってくれないか?」

「は、はい! 失礼します!!」


 下手したら不興を買うかもしれない。ハリエットは髪留めを部屋に落としながら、慌てて走り去ってしまう。

 仕方なくオウガが髪留めを拾い上げ、廊下に向かって声をかけた。しかし既に彼女の姿は曲がり角で消えており、他の精霊術師達が何事かと部屋の方に視線を向けてきた。

 扉を即座に閉め、オウガは懐に髪留めをしまう。第五王子とはいえ、王族が従者の部屋を片付けているなど前代未聞だからである。


「……そういえばさ」


 本の表紙を閉じたカロンが、言葉を続けようとした矢先。


「はーい! ミカちゃん、ここにいたのね!」


 明るい声と暴風の勢いでツェリ・ブロッサムが研究室へやって来た。

 黒い長髪を桃色のリボンでまとめ、ドレスも花など華やかな装いを意識している。コルセットを着けているはずだが、揺れる胸は大きい。

 きらきらと輝く黒の瞳には愛しい義弟しか映っておらず、人懐っこい笑みを浮かべながらレオを抱きしめた。


「あー、可愛い。なんであの腹黒の弟なのかしらって、一日に三回は悔しい思いをしなくてはいけないくらいよ」

「むぐぅっ!?」


 柔らかい胸の谷間を押しつけられ、レオは離れようともがいた。

 しかしツェリの腕力と執念が上回り、窒息寸前まで追い詰められる。


「で、その腹黒が用事があるって言うから迎えに来たの! わかる? あの腹黒ってば可愛い弟より執務を優先したのよ? 私だったらミカちゃん最優先だから、今後もツェリお姉ちゃんをよろしくね!」

「ツェリ殿……」

「王子としてはそっちが正しい姿じゃないの?」


 クリスとヤーが助け船を出すも、ツェリは聞く耳を持たない。研究室に入ってきた時と同じように、レオを連れて部屋から出て行ってしまう。

 廊下で騒ぎが起き、それが静まりかえった頃。カロンが中断された言葉を続けた。


「フィル王子ってレオくんの意識について知ってるの?」


 第四王子の許嫁。その嵐のような行動に呆然としていた従者三人は、一番の問題をようやく思い出したが……遅かった。




 城の南側。冬の晴れた日には穏やかな日差しが入る部屋、それがフィリップ・アガルタ・ユルザックの執務室だった。

 赤い絨毯の上には来客用のソファが二脚と、長机が一つ。そして重厚な執務机と、大きな椅子が一組。

 扉から入って左右の壁は本棚になっており、一部だけ暖炉が備わっていた。真正面は硝子の大窓。天井には夜でも作業には困らないための大きな照明器具が下がっていた。


「やあ。ありがとう」


 大きな椅子にゆったりと座っているフィルが、許嫁のツェリに対し礼を述べる。

 亜麻色の髪はさらりと肩を撫で、青い目には穏やかな光を宿していた。白を基調とした服は彼のために仕立てられ、その魅力を存分に引き出している。

 ツェリが横に並べば美男美女であり、宮廷画家が喜んで筆を執る二人だ。けれど許嫁は不快そうに眉を顰める。


「ありがとう? 言葉より物で示してくれる?」

「……そこの棚にある秘蔵のお菓子をどうぞ」

「ええ、頂くわ。さあ、ミカちゃん! 美味しいものを食べましょう!」


 抱きしめられたまま連れてこられたレオは、後に夫婦となることが約束されている人間の関係性に困惑した。

 どう見ても塩対応。むしろ冷血。絆や友愛という言葉が光速で逃げ出した。

 ツェリはレオをソファに座らせると、甲斐甲斐しくお茶とお菓子の用意を始めた。それこそ嬉々として率先している。


「あー……ツェリ、だから俺が迎えに行くって」

「お黙り、怪我人! 貴方の仕事は腹黒の補佐! 私はミカちゃんを愛でるのが趣味! ドゥーーユーアンダースタン?」

「親父さんの影響が出てるぞ」

「ええ。おかげで三カ国語くらい余裕で話せるもの。お父様には感謝と恨みが半々よ」


 壁際で待機していたハクタに対しても強気なツェリは、一切物怖じせずに反論していく。

 海で育てられた女性は皆こうなのかと、レオは港町ネルケで出会った少女を思い出していた。


「恨みって……」

「もちろんそこの腹黒の許嫁にされたことよ! 私の半生は確実にそれの妻なのよ? ミカちゃんの信頼を勝ち得た兄という情報がなければ、すぐさま縁切り寺に駆け込む気満々だったわ」

「……そうか。まあ、怪我のことを心配してくれてありがとう。完治まであと少しだから、そんなに気遣わなくても……」

「ミカちゃん護衛中の怪我でしょう? 心配に値するわ」


 フィルを守っての負傷だったならば、無関心だった。彼女の隠されない本心に対し、ハクタは腹黒王子に同情した。

 ぞんざいな扱いを受けている当の本人は涼しい顔で、窓硝子向こうの雪景色を眺めていた。深くなる積雪に、目を細める。


「さあ、ミカちゃん! あーん……」

「い、いや、自分で食べ……」


 またもや包み込まれるように抱きしめられ、クッキーを口元へ差し出されるレオ。柔らかさと、花のような匂いと、蕩けるような甘やかし。

 慣れない対応に慌てるレオに、三人の視線が集まった。フィルがゆっくりとレオへと振り返る。


「……君は誰だい?」

「え?」

「ミカちゃん……じゃない?」

「はぁ!?」


 どこで違和感を覚えたのか。全くわからないレオは意識の内側に助けを求めた。

 そして冒頭の無邪気な赤子を可愛がる獅子の図に戻るのであった。


「ミカちゃんだったら苦笑いしながらでも食べてくれるもん! 何処かで頭を打ったの!? お姉ちゃんのこと忘れてない?」

「というか雰囲気から既に違うじゃないか。顔つきとか……最近の城内で流れてる噂は本当だったのか」

「……レオか?」


 意識の内側に助けを求めているため、レオは体の動きを停止していた。それこそ人形王子と呼ばれていた頃のように。

 動揺しながらレオの顔を覗き込むツェリとフィルだったが、心当たりがあるハクタを静かに手招きする。

 できれば逃走を選びたかったハクタだが、二人を相手に負けるのは必須であると、覚悟を決めて諦めた。


「始まりはヘタ村でのことなんだが――」


 粛々と話し始めたハクタは、少しずつ詰め寄ってくるフィルの笑顔から視線を逸らした。ツェリには話途中で首元を掴まれ、時折揺さぶられる。

 話の終盤になってレオが目の前の現実を受け止め、気付かれないように部屋を出ようとした。だが肩を優しく掴まれる。

 背中を向けたままのフィルが手を伸ばしていた。気配だけで行動を察知されたことに、レオは喉の奥をひくつかせた。


「つまり……ミカの五年を奪ったのは、君か?」


 ぞわりとするほど冷たい声だった。窓硝子から見える雪よりも凍えるほどの、氷柱以上に突き刺さる敵意。

 暖炉で温まっていったはずなのに、体が底知れぬ震えで落ち着かない。レオにとってフィルの魂は輝きすぎて視えなかった。

 けれど光に墨が滲むように黒く染まっていく様子が、日食のように捉えられた。記憶の奥で自らの咆哮が響き渡るように、頭を抱えようとする。


「こら! ミカちゃんを怖がらせるのは駄目よ!」


 フィルが振り向く寸前、ツェリが彼の頭を小突いた。かくん、と頭がわずかに傾く程度の威力だ。

 怯えるレオを抱きしめ、ツェリは鼻息荒くフィルに文句を言う。


「レオちゃんもミカちゃんの一部なんでしょう? なら二人とも可愛がってあげる! まあ、お姉ちゃんにどーんと任せなさい! 良いわね、腹黒!! その極悪面を引っ込めなさい!!」


 真正面からフィルの表情が見えるハクタは顔面蒼白だ。息が止まりそうなくらいに緊張している。

 頭を傾けたまま、息を深く吐く。そしてフィルは穏やかな苦笑を浮かべながらツェリへと振り向いた。


「君には一生尻に敷かれそうだよ」

「本当は踏み潰したいのを我慢してるんだからね」

「ははは。それはありがたいね」


 再び色もわからないくらいに輝きを取り戻したフィルの魂を眺め、レオも安堵の息を吐いた。自らの鼓動で破裂しそうなほど怯えたのは何時ぶりだったか。

 頭の奥で痛みが走る。意識の内側で赤子の泣き声が聞こえたが、気に留めていられないほど記憶が揺さぶられる。

 だがツェリの胸を通じて響く規則正しい鼓動音に、少しずつ安らぎを覚えた。


「まあ『獣憑き』に関しては事前に調べた資料があるし、それを交えながら話そうか?」


 にっこりと、有無を言わさぬ笑顔で。フィルはレオを手招きする。


「……先に謝罪を。本当にすまない。我は……ミカを……」

「いいよ。僕は君を許さないけど、君がミカを守るなら不問にする。なにより君の意識だけ排除する方法なんて知らないし、デメリットしかない。マイナスは嫌いなんだ」


 笑顔だが刺々しさが残っている。レオは本能的に「こいつ苦手だ」と認識した。

 ツェリに抱きしめられたままソファに座り直し、長机の上に広げられた資料に目を通していく。

 綺麗にまとめられた資料だった。しかし字面に強い癖が残っており、見覚えがあった。カロンの文字と同一である。


「まず獣憑きの症例は極めて少ない。ほぼ自覚のないまま一生を終える事例が多く、確かな証言も得られていないのが実情だ」

「俺も資料を見させてもらったが、死の間際に譫言として呟かれたなんてのもある」


 ソファには座らず、フィルの斜め背後からハクタも一つの資料を指差す。

 そこに書かれているのは百年前の事例だ。とある老婆が衰弱していく最中、毎晩魘されているところから始まっていた。


「私は檻。中に獣を飼っていた。夜ごと、獣が叫ぶ。死に怯え、小さな体で暴れ回っている。綺麗な狐が私を噛みちぎる。私は檻、黒い檻だったのだ――か」


 記述されている老婆の証言を読み上げ、レオは苦い表情を浮かべる。

 確かに意識の内側というのは檻に似ているかもしれない。とても住み心地が良く、あまり気にしたことがなかったので深く考えなかった。

 老婆は死の間際に苦しみ、藻掻き、そして人が変わったように部屋の中を暴れ回ったと書かれている。


「だけど小さい子供が自覚していた、なんてこともあるわね」


 レオは次にツェリが読んでいた資料に手を伸ばした。

 五歳の子供が急に明朗に話し出したという。曰く、獣の記憶を見たのだと。


 暗闇に椅子が一つ置かれており、その前には熊が眠るように倒れていた。椅子に座ると熊の瞼がゆっくりと上がり、黒い瞳から光が溢れるように果てしない光景が眼前を照らした。

 まるで他人の生き様を追体験するように、客観的と主観が混じった風景を眺め続けた。それを四歳から一年間見た結果だと子供は大人に説明した。


「僕の獣は眠っていた。安らかに、苦しみもなく。ただ記憶だけが紐を解いたように溢れた。僕は揺り籠。彼の眠りを守る籠だった。もう目覚めない彼を、僕は友人と呼ぼう――か」


 その感覚もレオには理解できた。意識の内側はとても快適で、どれだけ寝ても疲れない。一生睡眠を続けてもおかしくないほど、気持ちいいのだ。

 老婆と子供。その両方を照らし合わせ、レオは苦いものを思いっきり噛んだような顔を浮かべる。

 全部、身に覚えがある。むしろやらかしている。対面で座っているフィルの顔がまともに見られない。


「これも興味深いね。年若い女性が、ある日いきなり自覚したらしいよ」


 フィルが手渡してきた資料の書面を見つめる。絶対に視線を合わせないように注意を払いながら、である。


 女性は暖かい海流に乗って泳ぎ回る夢を幼い頃から何度も見ていた。ある日、自分が亀だったのだと理解した。

 そして亀でありながら女性、女性でありながら亀、と意識が混濁した。日常生活に支障をきたすほど意識が混じり合い、やがて女性は「つかれた」と言葉を残す。

 痩せ細った女性を心配した恋人が、彼女の要望を聞く。海を見たいと言った彼女と船旅し、青い空が綺麗に海へ映った日。女性は入水自殺した。


「私は獣。二本足で歩かず、海に生きるもの。何処かわからないのに、帰りたい。ああでも私は人間。恋人を愛する女。けれど私は獣だった。獣は私だった。あの暖かい海流に乗って私は――か」


 顔を上げられなかった。頭の頂点から背中に向かって脂汗が流れ続けている。

 あえてこの資料を読ませた意味を把握し、目の前で穏やかに笑っているであろう男の顔など、レオには見る勇気がなかった。

 ハクタも同じ気持ちで壁に顔を向けており、ツェリだけが不機嫌そうに真正面から睨んでいた。


「さて、貴重な症例がここにも一人いるね?」


 優しい声を耳にし、レオは肩を尖らせた。獅子の姿であれば全身の毛を逆立てていたに違いない。

 歯の根が合わず、がたがたと音が鳴る。拷問を受ける罪人の気持ちにも似ており、突破口はないかと思考を張り巡らす。

 しかし無情にも声は続く。


「僕の質問全てに答えてもらうよ……レオンハルト・サニー」


 彼に初めて名前を呼ばれたはずなのに嬉しさが微塵もない。

 ミカ相手には決して見せない、フィルの冷酷な一面がレオには容赦なく曝け出された瞬間であった。

 

 

 

 ヤーの研究室に戻ったレオは、早速クリスに心配された。


「レオ殿……まるで水に濡れた猫のようです」

「塩かけた青菜じゃねぇの?」

「やつれてるわね、アンタ」


 憔悴した様子のレオを見て、オウガやヤーも声をかけてきた。

 しかし返事する気力もないレオは、ふらふらと歩いて簡易ベッドの上に倒れ込む。


「……五分、寝かせてくれ」

「あ、レオ殿! 寝る前に一つだけ!」


 瞼が重く下がっていく中、クリスの声が遠くから響いている。


「意識の内側は『どんな様子』か確認してください!」


 とぷん、と水面を超えたような感覚と共に、意識は内側へと沈んでいった。

 次に理解できたのは赤子の声だった。顔を真っ赤にして泣いているミカが、レオの姿を見つけると同時に近寄ってきた。

 獅子の鬣に顔を埋める赤子をあやしつつ、レオは周囲を確かめる。


(……なにもないな)


 今まで気に留めていなかった意識の内側。夜にも似た暗闇の中、頭上を照らす光が丸い足場を作っているような感覚に近い。

 自分とミカの姿ははっきり認識できるが、それ以外は無とも言えた。その光景に違和感を覚え、レオは赤子に声をかける。


(ミカの意識はこんなにも殺風景なのか?)


 いつの間にかくうくうと寝息を立てている赤子は、鬣の一部を小さな手で握りしめていた。

 毛皮が気持ちいいのか、頬をすり寄せてはへにゃりと笑う。その笑い方は十五歳の時と変わらないものだった。

 するとますます意識の内側に疑問を抱く。まるで閉じ込められているか、隔離されているような気分すら味わってきた。


(黒い檻……揺り籠……自分自身……)


 レオは『獣憑き』の資料について思い出していく。あまりにも証言や記録にばらつきが多く、ほぼ統一性がない。

 症例が少ないというのもあるが、どうにも前世である聖獣によって変化もしているようだった。


(まさか拒絶されてる?)


 自分で言葉にしてから、レオは地味に傷ついた。けれど文句を言える立場ではなく、正直赤子の寝姿可愛いしか感想が出てこない。

 全身を預けて安心して眠っている姿。これで拒まれているとは思えなかった。しかしあまりにも意識の内側が無に等しい。

 ミカに本意を聞き出そうにも、赤子のままでは無理だった。どうにか記憶を集める速度を上げたいレオが悩んでいる時だった。


(おや? 形作られるなんて久しぶりだね)


 聞き慣れない女の声がした。レオが顔を上げれば、ミカと顔がそっくりな女性が勇ましく立っている。

 波打つ金髪に、太陽に匹敵する輝きを持つ金の瞳。背は高く、白い服と腰に携えた細身の剣が特徴的だった。

 赤子は急に起き上がり、女性に向かって両腕を広げる。慈愛の笑みを浮かべ、女性は赤子を優しく抱き上げた。


(意識の防衛機能を起動させるなんて、なにかと思えば……これは酷いね)

(……見たことあるぞ。ミカの部屋で、お前は……)

(ああ。本人じゃないから安心しな。私はミカの意識から生み出された防衛機能だ。ほら、よくあるだろう? 辛い時に大好きだった人を思い出すってさ)


 目の前に現れた女性――第七王妃エカテリーナはにやりと笑う。


(七歳くらいまではこの子も母が恋しかったのさ。十歳くらいから余裕はなくなったみたいだけど、貴様のせいで)

(うぐっ!)


 頭から重石を落とされたように、レオは声を詰まらせた。


(ミカが最初に集めた記憶は全て母親との生活だ。私はそこから生まれたのだから、まあ当たり前だね)

(そ、うか……ではミカの意識は!?)

(ああ。今からアタシが手助けしていくさ。五歳までならば明日の朝までに終えられるが、それ以上はミカ次第だ)

(何故、五歳なんだ?)

(この子はね……そこで死別したからさ。七歳に到達する前に防衛機能は不必要になるだろうから、目安はそこさ)


 赤子をあやしながら笑うエカテリーナは、絵画に描かれた姿のままだ。赤子を抱きしめていた勇ましい王妃が、ミカにとっての母親である。

 無邪気に母親へ笑顔を向けるミカを、レオは黙って見上げていた。窒息しそうな苦しみが胸を襲う。

 聖獣に家族などいない。けれど身近なものの死は知っている。どれだけ年を重ねても、その辛さだけは緩和されない。


(まあ本人が綺麗さっぱりいなくなったのも、私が生まれた要因なんだけどね)

(は?)

(この子、魂まで視えるだろう? 五歳くらいになったら聞けばわかるさ)


 レオの頭も優しく撫でたエカテリーナは、少しずつ記憶の欠片を集め始めた。

 不思議なことにレオは欠片を認識できたが、それはミカやエカテリーナが触れてからだった。


(なあ、一ついいか?)

(なんだい?)

(ここは我にはなにもないように見えるが……実際はどうなんだ?)


 硝子や泡にも似た欠片を手にしたエカテリーナは、少し考えた後に告げた。


(ミカが心を開けばわかることさ。まあ、頑張りな)


 許容されていると考えていたレオは、その言葉に衝撃を覚えた。

 獅子の姿でしくしくと泣いた後、健やかに眠り始める。ネコ科故に疲労が蓄積した意識として、睡眠欲には抗えなかった。

 レオがクリスに優しく起こされるのは、たっぷり眠った六時間後である。 

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