第4話「蔓延る悪意」

 安酒の山盛り。単語で聞いても、見ても、違和感と胡散臭さしかない光景。それを名城カルドナの多目的用大広間で十六貴族が行っていると声も出なくなる。

 唯一の女当主であるクヌート・ジャイマンも意気揚々と参戦しているため止める手立てがない。主催は北の貴族エーデルトラウト・ガロリアである。熊のような巨体で樽の上に座っている。

 葡萄酒、麦酒、遠国の米から作られた醸造酒まで。質は一切気にせずに量だけを集めた結果、瓶と樽による天井まで届く酒の山が出来上がってしまった。


 既に若い北の貴族であるフェリクス・セルゾンは酔い潰され、じきに東の貴族であるユリウス・アガルタも顔を真っ赤にして倒れる運命だろう。

 南の貴族であるネーポムク・エカイヴは妻である元第一王女であるペルシア・エカイヴの介抱のお世話となっており、部屋へと帰っている。

 若い者はだらしないと憤慨する南の貴族コンラーディン・ブロッサムだが、ネーポムクを酔い潰した大半の原因が自分であるとは微塵も考えてない。


 南の貴族マルコ・デルタールは小さな器で少しずつ飲んでいるが、その総量が異常であることに西の貴族イグナーツ・ゲルテナは気付きながらも口にしない。

 穏やかな容姿のマルコは聖人と呼ぶに相応しい身の振舞い方や作法を知っている。しかして悪人に対する容赦ない制裁も貴族感では有名であり、酒でも口にすることはないが今回の貴族裁判に一番意欲的である。

 仁義を重んじるイグナーツも今回の貴族裁判に関しては正当な物であると考えているが、裏での動きが激しいと警戒していた。視線の先には東の貴族ジェラルド・ベルリッツ。


 東の貴族ヨハン・メタンタに女関係についてからかわれながら、無言で無視しているジェラルド。二十代という若さで当主になったという割には、堂々としすぎている。

 ベルリッツ家は第四王子であるフィリップ・アガルタ・ユルザックの実家と交流が深い。そのせいか二人が揃っている姿を見かけることが、ここ数日間は多い。

 王子達も懇意にする十六貴族を作ることは多い。第二王子であるジョシュア・トロイヤ・ユルザックも年が近いフェリクス・セルゾンに相談している。


 それにしても貴族裁判の裏で起きている激しい動きの中心に、第四王子の影が強い。料理長の自主解雇すらもその影が色濃く残りすぎているため、疑いが強くなる。

 何故あえて汚れ仕事で目立つようにしているのか。警告か威嚇か。それとも別の策があるのか。優男の容姿である第四王子は、なにを考えているのか。不明慮さだけが渦巻いている。

 そしてジェラルドも澄ました顔をしているが、隣で顔を真っ赤にして笑い上戸になっているヨハンよりも飲んでいる。酒に慣れすぎな若造であることが、評価を変えたくなる光景だ。


 西の貴族ヘンドリック・ジュワ及び西の貴族ゲオルク・トロイヤは、怒り上戸で愚痴魔となった南の貴族オスカー・ナギアの金切り声の悪口に黙って頷いていた。

 ただし十六貴族の中でも高齢の部類に入るヘンドリックは、耳に手を当てながら首を傾げている。金切声が強すぎて、ただの悲鳴にしか聞こえていないのだろう。

 どんな悪口が出てきても笑顔で受け流しているゲオルクだが、その手には詩を書くために常備している羽ペンと紙束がある。今もペン先が流れるように動いている。


 西の貴族オイゲン・カルディナは北の貴族ディートフリート・タナトスと深刻そうに話し合う。灰の森ゲルダが復活する様子が見えないまま、怪しい噂が流れているのだ。

 十年前の大噴火により、タナトス家が管轄する迷いの森は変貌した。今でも道に迷う者は後を絶たないが、森の主と呼ばれる聖獣の周囲に人物らしき影が見えるのだ。

 精霊信仰のユルザック王国において、聖獣とは神に近い存在。恐れ多き自然の化身であり、妖精達を統べる者。彼らの動き一つで世界を破滅にも追い込めるだろう。


 オイゲンは家出した娘が、新しく存在を現した魔物と魔人に利用されたことについて頭を痛めていた。何故、十六貴族である娘を利用したのか。どこまで知っていて、どこまで潜伏しているのか。

 天才精霊術師であるヤーの報告は、国立精霊研究所から各貴族に広がった。もちろんカルディナ家の不祥事については伏せた、情報規制が施された情報ではあるが。

 その報告によれば魔人は姿を狂わせることができ、死体を利用することで体を構成する瘴気も隠すことができる。今のところ瘴気が体外に漏れ出ない限り、見抜くことはほぼ不可能。


 ただし一番の問題は、彼らの文化水準といつから世界に現れたか。知能は、思想は、信仰は、数は。あらゆる物が不明のまま進行していないということだ。

 報告書には魔物らしき生物は歴史外の神世から生きていたとあった。ならば妖精と同等の存在であり、非なる存在でもあると言える。魔人よりも魔物が格上なのか、魔物とは聖獣に近しいのか。

 もしも妖精のように姿を消すことができるならば、日常生活の横で嘲笑っている可能性もある。ならばカルディナ家の家出娘を利用したのも偶然ではないかもしれない。


 ディートフリートも同じことを考えていた。その上でさらに危惧する。もしも城内に入り込み、生活をしていたならば。そして怪しいと思える人物が一人いる。

 五年間人形のように動かず、最近台頭してきた存在。王位継承権がないとはいえ、その影響力は大きい。人形王子、第五王子のミカルダ・レオナス・ユルザック。

 もしも動いていなかった五年間が、第五王子の死体に入り込んだ魔物が体に慣れるための期間だったならば。そして偶然にもヘタ村で事件を解決したことすら、魔物同士による画策ならば。


 第五王子はヘタ村の件でカルディナ家に恩を作った。その功績は予想よりも大きく、第四王子が特務大使という特殊職に推薦できるほどだ。

 第五王子がいつ死んでいたかは推測できないが、常に命狙われているのは誰もが知っている。西の大国とユルザック王国の溝は深く、その両方の血を持つ王子は針の筵だ。

 守護する者がいたとしても、どんな事故で死ぬかなど予測できない。むしろ十年前の流行病、五年前の大干ばつのどさくさで死ななかった方が驚きなのだ。


 そして同じ疑いを持つのが北の貴族アロイス・ヘイゼルである。最近人里に降りてくる獣達の凶暴性が増していることが偶然とは思えない。

 十年前、そして五年前。国単位での変化が起きる時、その土地に住まう動物達は人間よりも速く変化に察知し、影響を受ける。過酷な環境に住まうからこそ、敏感になる危機感。

 その危機感が第五王子に対して反応するのだ。あまりにも神聖な土地にうっかりと踏み込んでしまった時のような、総毛立つ感覚。不可侵へ汚れた足を向けた時に似た汗が流れる。


 十六貴族は次期国王候補達を見定めなければいけない。なのに王位継承権すらない第五王子が気になって仕方ない。西の大国という脅威が、金色となっているような錯覚。

 その金の目と髪を持つ第五王子が十六貴族の酒盛り場にいるのも問題である、と数人が酒を飲んでいるハクタの横で縮こまっているミカへと視線を向ける。


「……オウガ、確か法律としては飲んではいけない歳……」

「泡立った麦汁と言えば問題なしだ。大体、兄弟子の勢いから見て、俺が慣れていない訳があるか」


 ハクタとは反対側でミカを守るように座っているオウガは、平然と次の樽に手を伸ばす。あえて止めようとする者はいない。酒の席という空気があらゆる規制を緩ませていく。

 酒を運ぶために喧嘩のような特訓をしていた兄弟弟子はこの場に呼ばれたのである。重労働の見返りとして御相伴に与っていると二人は思っているが、あまりにも場違いである。

 ミカは王子達との会合帰りに酒臭さに辟易した氷水晶の妖精アトミスに話を聞き、様子を見に来たのが間違いであった。あっという間に酒の席に組み込まれてしまい、動けなくなった。


 絨毯を敷いているとはいえ、十六貴族全てが床に座っている状態。眩暈が襲ってきそうな光景だが、本人達は気にせずに思い思いに過ごしている。

 ミカは目頭が疲れてきたのを感じ、眉間に指を当てて額を揉む。戦場でも政治の場でも歴戦の猛者達が一堂に集まっていると、つい魂まで視てしまう。

 一癖どころではない多彩な魂達が輝いているのは閃光が目に飛び込んでくるに近い。視えないように努めようとしても、警戒心から動きを探ってしまうのだ。


 魂は嘘をつかない。命を狙われやすいミカにとって、それを視ることは命綱に等しい。わかるのは多くの貴族が値踏みするようにミカを見ているということだ。

 王位継承権がない第五王子。西の大国の血を持ち、いまだに生きている少年。その理由、思惑、経過、今後、あらゆる全てを計算しながらも、利用価値があるかどうかを確認している。

 特にカルディナ家、タナトス家、ヘイゼル家、ジャイマン家はその傾向が強い。精霊が視える者は、ミカの強い魂に惹かれる精霊も含めて観察しているのだ。


 好意的に接するか、敵意を持つか。計算してくれる者はまだいい。しかしナギア家のように最初から嫌悪感を隠さないのはどうしようもない。

 トロイヤ家は第二王子派であるが、ミカに好意的な方だ。しかし当主のゲオルクは精霊術師。その観点を含めた上で、戦況をひっくり返す駒扱いなのがミカには視えていた。

 同じくデルタール家のマルコも目を細めてミカを眺めている、それはミカに集まる精霊が眩しく、神々しく見えているからだ。信仰心が強い御仁にとって、判断が迷う光景だ。


 そんなマルコの肩に手を回してポエムをせがむのが、ブロッサム家のコンラーディンだ。海賊風の外見ながら、文人の一面もあるようだ。

 ガロリア家の当主エーデルトラウトは西の大国との戦争において、息子を失った過去がある。そのせいかミカに向ける眼差しは厳しく、ミカではなく憎い西の大国として見てくる。

 最中、メタンタ家のヨハンが顔を真っ赤にしながらミカへと近付いてくる。至近距離に迫った妙齢の色男の顔だが、酒臭さが酷くて顔を顰めたくなるのをミカは我慢した。


「あー……王子ぃ、あれなんですよぉ……僕のせいじゃないはずなんです。なんであの女にそっくりなんだよぉ……目の色だけは僕と同じでぇ……認知するもんかぁ」

「はい?」

「若い頃の過ちというか、もう……スダ家になんでぇ……世の中間違ってるんですよぉ!!あー、彼女欲しい!!」


 呂律が回っていない上に絡み酒という悪癖を披露したヨハンだったが、直後にジェルラルドが背中に打ち身を当てて気絶させる。頭まで酔いが回っていたため、吐く前に昏倒する十六貴族の一人。

 ジェラルドは無言のままミカに一礼し、ヨハンの足を掴んで頭は絨毯が擦るように歩き去っていく。早足で進むため、夢の中で熱い熱いとヨハンはうなされながら寝言を呟いている。

 あまりにも酷い呂律と勢いに押されたミカはヨハンがなにを喋っていたか理解できずに困惑する。魂すらも酒のせいで渦巻く色模様の花としか認識できないほどであった。


 ただし酔いどれの扱いに慣れているハクタとオウガは、一切酔っていないのだが急激に冷えていく感覚を味わった。お互いに顔を見合わせ、無言で一回頷く。

 本格的に酒盛りが怪しい空気を漂わせてきたので、仕事があるとハクタとオウガはミカを連れて大広間を退散する。もちろん十六貴族に声をかけられて止められる前にだ。

 もしも声をかけられてしまえば簡単に逃れることはできない緩い空気が蔓延し、そのまま引きずり込まれるように朝まで付き合う羽目になりかねない。


 兄弟弟子の連携によりその後行われた十六貴族による脱衣遊戯を免れたミカは、酒については気を付けようと警戒することを学んだ。

 ちなみに脱衣遊戯は最終的に肉体自慢のヘイゼル家とガロリア家の全面対決へと発展し、老体とは思えない筋肉が酒臭さに加速をかけたのは言うまでもない。





 クリスはミカの部屋でヤーと一緒に茶会の話をし、酒盛りの話を聞き、不安は杞憂だったのかと少しだけ安堵する。秋の日差しが心地いい午前、それでも少しだけ肌寒い日。

 ミカは疲れたように頭を机の上に預けている。オウガはヤーの顔を見ては苦悩した表情を作り、ヤーに不審がられている。こうして話すだけで楽しいと思える時間。

 それも終わりを告げる日がやってきた。貴族裁判開廷日。十六貴族、中央貴族、四人の王子、そして国王が集まってたった一人の人間を有罪にする日。


 裁判が終わった後の三日間は後始末や処理で追われることになり、兄であるジェラルドに付いてきたクリスにとって今日がミカ達と会える最後の日だ。

 すれ違うことはあるかもしれないが歓談することなど叶わない。十六貴族の一員として働く兄が忙しい中、自分だけが楽しみを謳歌するわけにはいかないとクリスは責任感が重いことを覚える。

 楽しかった。しかし自分はなんでこの場にいるのか。何故ジェラルドは自分を王城に連れて来たのか。その真意がわからずにクリスは顔を曇らせた。


「それにしても貴族裁判にミカは参加しないのかよ?」

「俺は王位継承権がないからね。身分はあっても権利がないんだ。俺としてはその方がありがたいけど」


 魂まで視えてしまうミカにとって裁判は重苦しい以上の物がある。弾圧される人間の魂が歪むのを視て、吐き気を我慢できる自信がない。

 護衛としてハクタ、中央貴族であるスダ家の子息であるカロン、など兄と呼ばれる人物達は全員が貴族裁判に集まっている。そのことにヤーは気が抜けた表情をする。

 城の護りも城内の裁判部屋に集中し、ジリック家の当主も脱出不可能な来客部屋に滞在している。それらはミカの部屋にいる全員が関係ない事柄であった。


「そういえばアトミスは?なんか朝から姿が見えないけど」

「気分が悪いって氷水晶の指輪に閉じこもってる。小人みたいに俺は視えるけど、ヤーは?」

「……視えない」


 小声で会話しながらミカの手の平に乗った指輪を眺めるヤー。青く透明な指輪しか見えず、相変わらず内部まで視通すミカの才能に驚いてしまう。

 ヤーの精霊が視える才能は優秀な精霊術師も越える。しかしミカの才能は次元が違うのである。それが聖獣が前世である獣憑きの特徴なのかと、ヤーはミカの横顔を凝視する。

 しかしミカも少し気分悪そうに顔色を青くしているため、若干心配が勝る。少し動きが鈍くなったミカは数秒間沈黙した後、目に光を取り戻してからオウガに伝える。


「ちょっと外の空気吸ってくるね。なにか起きたら、よろしく」

「?……おうよ」


 オウガの曖昧な返事を聞いてミカは廊下へと出ていく。いつも以上に人通りが少ない廊下は不気味なほど静かである。ミカは一回だけ深呼吸してから歩き出す。

 意識の内側で元太陽の聖獣であるレオンハルト・サニーが唸っている。精霊を狂わせる瘴気に敏感だったからこそ、異変をアトミスと同じように察知することができた存在。

 普段から息苦しい場所である城内だが、貴族裁判が始まる今日は異質な重みが充満している。嫌な予感が汗となって吹き出すように、一歩進むたびに眩暈が襲ってくる。


 それすらも裁判開廷という空気と捉えられてしまい、多くの者は違和感に気付いていない。長い回廊に差し込む陽の光よりも、置物の影が濃く見える。

 気配と勘を頼りにミカは歩き続けるが、頭の奥が金槌で叩かれているように痛み始めた。視界が狭まっていき、意識が痛覚や体の異変に集中していく。

 だからこそ曲がり角から伸ばされた手に気付かず、腕を掴まれたミカは振り返った先に壺が振りかざされるのを最後に意識を失った。





 ユルザック王国、首都ヘルガントに座する名城カルドナ。その内部は様々な部屋が用意されている。国土が狭い時期に作り上げ、内部粛清の機能も兼ね備えたいと初代国王が願ったからだ。

 城壁、貴族街と市民街を隔絶する壁、侵入者を阻む防壁と三つの巨大な壁を首都に建設したことからわかるように、初代国王の思想はかなり排他的である。しかしその建築様式はユルザック王国を代表するに至った。

 地下に作り上げた裁判部屋。今では貴族裁判が行われる時にしか使われないが、過去においては多くの汚職者や犯罪者を王の名で裁いた由来ある場所でもある。


 真ん中には鉄製の檻。百の座席が半円状に張り巡らされ、一番奥には裁判長席というには豪華過ぎる椅子が上にあり、その下に四つの座席が等間隔で並んでいる。

 半円状の座席前面に十六貴族、その背後に中央貴族を配置。奥の四つ並びの席には王位継承権を保持する王子達、そして一番上には国王が座ることになっていた。

 断罪される者は檻の中に入れられ、為す術もなく罪を言い渡されて罰を受けるだけ。泣き叫び、暴れても、助けの手を伸ばす者はいない。有罪確定という現実が檻として形になっている。


 周囲には拷問部屋や処刑部屋も用意されていたが、歴史の変遷と城の活用方法変更から、道具は捨てられて壁も塗り直されている。それでも侍女達などは恐れて近付かない。

 霊感がある者も地下の裁判部屋は嫌悪の対象としており、ミカ以外の王子で唯一霊感がある第三王子のケルナ・ジュワ・ユルザックは持病の癪が悪化しないように白湯で大量の薬と安定剤を飲み込んでいた。

 婚約者である色香漂うセラ・ナギアには臆病者と笑われたが、下手したら命に関わる病であるためケルナは我慢した。年上の婚約者は容赦がない上に、自由すぎる。


 病弱で有名な第一王子であるトキワ・ガロリア・ユルザックも大量に薬を飲んだのか、常時よりは顔色を良くして裁判部屋まで歩いていた。

 少しずつ裁判部屋に人が集まる気配を感じながら、第四王子であるフィリップ・アガルタ・ユルザックはカロンとハクタ、そしてベルリッツ家のジェラルドに声をかける。


「さて、恐らく仕掛けるならばここが絶好のタイミングだ……相手が僕と同じ思考ならば限定もできる。もしも問題が起きたら、三人は迷わずミカの部屋へ」


 いつもと同じ優男の笑顔で、しかし目が笑っていない状態でフィルは笑みを零す口元に指を当てる。そして言葉を裏付けるように、野太い悲鳴が城内に響いた。

 カロンとハクタは真っ直ぐに城内東端にあるミカの部屋へと向かい、フィルとジェラルドはジリック家当主バルバットが軟禁されているはずの来客部屋へと向かう。

 部屋といいながらも離れの小さな塔を改造した場所。一番高い場所にある窓には鉄格子がはめ込まれ、その窓に通じる階段はない。筒型の一階建てであり、細長い監獄部屋と言っても過言ではない。


 十六貴族達だけでなく収集された中央貴族も部屋の前に集まっている。護衛の騎士を含めるとその数は部屋の周囲を埋め尽くす勢いで、しかし耐え切れない者が部屋から離れようとして躓く。

 細長い塔。上から見れば井戸の底とも思える構造。壁、床、天井それだけでなく外壁と屋根まで。気味が悪いほどの丹念さで飾られた来客部屋は、鼻を通して胃から苦い物を引きずり出す。

 単純な赤ではない。高熱の油で人体を溶かしたような色合い。絵具を塗りたくるように、来客部屋全てが吐き気がする赤で塗られていた。漂ってくる香ばしさと血生臭さだけではなく、空気を伝って肌が脂で光るほどだ。


 部屋の中央では目をくり抜かれたバルバットの生首がぬいぐるみのように置かれていた。空いた眼孔には丁寧に切り取った足の指を五本ずつ入れている。爪は全て剥がれた状態だ。

 口の中にも手の指が十本全てが詰め込まれており、その指が今でも奇妙に蠢いている。確実に死んでいるはずなのに、動く切り取られた指を見ていると生きているのかと考えてしまう。

 あまりにも狂った状況だったが、生首が哄笑を上げるように震え始める。断絶された首の断面から鮮やかな血が吹き出し、少しずつ床の赤を一層と濃くしていく。


 誰もが後退る中、クヌート・ジャイマン、ゲオルク・トロイヤ、中央貴族であり精霊研究所の主任であるササメ・スダが前に歩みを進める。

 目に映る精霊とは似て異なる光。明滅する不安定な靄のような輝きを視て、これが瘴気かと三人はさらに近くで観察しようとした。しかし生首に詰め込まれていた計二十本の指が破裂するように飛び出た。

 急な事態に反応できなかった三人の代わりに、ジェラルド・ベルリッツ、第二王子ジョシュア・トロイヤ・ユルザック、コンラーディン・ブロッサムが近くにいた騎士から盾を奪って前に出る。


 盾に勢いよく張り付いた指は、芋虫のように這いずり動いていく。それを剣の面で叩き潰すのがアロイス・ヘイゼルとエーデルトラウト・ガロリアだ。

 あまりの力強さにジェラルドを含めた三人が盾を手放して地面を転がるほどだ。その勢いでコンラーディンはネーポムク・エカイヴにぶつかって巻き込んでしまう。

 潰されなかった指は地面を掘って逃げようとするが、その前にピンセットと小瓶を手にしたササメが冷静な様子で全て回収する。


「……国王と顧問精霊術師に緊急報告。瘴気を城内で確認。この件は魔人か魔物の仕業である。繰り返す……」


 事務的なササメの言葉を騎士達は大声で繰り返していき、城内を駆け巡る。死体の脂が張り付いたせいで鼻からずれる眼鏡を直しながら、ササメは小瓶の中の指を視る。

 発見例が少ない瘴気の貴重な材料。それを少しでも長く観察するためには保存をどうするべきかと考える。白衣のような真っ白のローブを着こなした中年男性だが、息子のカロンとは違い威厳と冷徹さが漂っている。

 カロン以外の子供を全て孤児院に渡し、才能があるという理由だけでヤーを拾って育てた男。人生全てを研究に費やしているという意味の浪費家として有名であり、フィルはその横を通り過ぎていく。


「ヨハンさん、私はこれから単独行動いたします。周囲には貴方の軽薄な話術を使って上手く誤魔化してください」

「ジェラルドくん!?それは僕を信頼しているのか軽蔑しているのか、どっちなんだい?というかなんだか後ろ頭が禿げているような気がす……速っ!?」


 告げるだけ告げて早足で進んでいくジェラルドの背中を見ながら、ヨハンは気まずそうにササメを見る。そして彼から隠れるように近くにいたフェリクス・セルゾンに話しかける。

 フィルは動揺を隠せずにいる貴族達や王子達の顔を眺める。そしてほくそ笑む。予想通り過ぎて、寒気と鳥肌が一斉に沸き立つ感覚。オスカー・ナギアの金切り声さえも優しい声と思えるほどだ。

 酷い光景に胸を押さえているケルナの周囲にイグナーツ・ゲルテナとヘンドリック・ジュワが容態を気にして集まっている。ディートフリート・タナトスは一番高齢であるヘンドリックを注視する。


 オイゲン・カルディナは騒ぎを聞きつけて集まってきた王子達四人の婚約者、元第一王女のペルシア・エカイヴに避難するように勧める。

 特にペルシアの胸元で寝ている第二王女のリャナンシー・タナトス・ユルザックが目を覚まさないように気遣いながら、迅速な対応を心掛けている。

 マルコ・デルタールは痛ましい状況を前に、胸に手を当てて死を悼んでいる。罪人とはいえ、あまりにも惨すぎる死に様は悲痛を通り越して虚無を呼ぶ。


 ユリウス・アガルタは右往左往してしまい、一番近しい間柄であるフィルに頼ろうとして伸ばした手を止める。こんな状況でも笑みを浮かべるフィルの様子に仰天した。

 犯人とは思えないが、恐らく悪巧みか策略のどちらかが上手く動いたのだろうとは察知できる。アガルタ家の性質を強く引き継いでいるフィルに対し、ユリウスは恐れを抱く。

 そう言えば身内の現国王第二王妃も似たような部分があったと、自分もそんな性質が欲しかったと心の中で涙する。あまりにも普通な自分が少しだけ情けないからだ。それが貴重であることも知らずに。





 ハクタとカロンが部屋に辿り着いた時には既にミカの姿はなかった。騎士達が国王へと向ける声にヤーは反応し、机の上に置いていかれた氷水晶の指輪に大声をかける。

 気が錯乱したのかとクリスはヤーを見つめるが、盛大な溜息と共に零れるような美しい青年が目の前に姿を現す。深海の海月が人になったような、それでいて背中には氷水晶の四枚羽。

 憧れていた姿とは少し違うが、クリスは初めて目にする妖精に感動すら覚えた。人ならざる生命、自然の営みに姿を隠す者、隣人として世界に佇む者。あらゆる言葉を尽くして表現したい衝動に駆られる。


 しかし不機嫌そうな青年の顔に、腰が引けてしまう。顔色も悪く、美しい表情が崩れていた。透き通るような水色の長髪を三つ編みにしており、それでも地面に届きそうな長さ。

 海月のレースを何枚も重ねたような白のコートも相まって、部屋が海の底に思えるほどだ。しかし夜の闇に近い藍色の目が胡乱な感情を宿しており、ヤーを強く睨んでいる。


「考えてみれば、ミカが俺によろしくとか言うのは面倒事が起きる時だけじゃねぇかよ!!兄弟子、足はあんのか?」

「まずはカロンとヤーの精霊術で城内を調べる!それでも駄目な時は……」


 ハクタの眼差しがクリスに向けられる。いきなり指名された気分のクリスは隠れたい気持ちに襲われるが、背中にぶつかった衝撃へと恐る恐る振り返る。

 威圧的な表情を湛えたジェラルドが立っており、いつの間に部屋に来たのかとクリスは声も出なくなる。怒っているような兄の雰囲気に、体が硬直していく。


「駄目!城内にいない!!」

「外だ!市民街に続く隔壁を越えて、防壁の外側に向かっている!!」


 風の精霊術でミカの居場所が割り出される中、クリスは混乱した頭でなにか言葉を吐き出そうと喉に力を込める。しかし息が詰まってしまい、母音すら出せない。

 部屋に安置していた長槍刀パルチザンを手にしたオウガ、氷水晶の形をアトミスに変えさせて鎖付きの探索水晶ペンデュラムを手首に巻くヤー。少しずつ出発の準備は整っている。

 しかしオウガとヤーは馬に乗れない。首都の外周というべき防壁までミカが移動しているとなると、馬で向かうしかないが台車を付ければ速度は極端に落ちる。追いつくかは五分だ。


「クリスバード・ベルリッツに告ぐ」

「は、はい!!」


 兄にフルネームで呼ばれて気を引き締めるクリス。今までジェラルドがクリスをフルネームで呼んだことなど一度もない。妹を呼ぶのに、そんな仰々しい使い方はしない。

 では何故あえてその呼び方を使ったのか。答えに辿り着く前に、体の奥底を震わせるジェラルドの低い声がクリスに指示を送る。


「我がベルリッツ家の名にかけて、ミカルダ・レオナス・ユルザック王子を救え!!障害物など飛び越えろ!!やるなとは言わん、やれ!!」

「はいっ!!」


 有無を言わせぬ命令であったが、クリスは体が軽くなるような心地を味わう。目に見える目標に、やり遂げて見せようと意欲が湧いてくる。

 ジェラルドは手に持っていた槍を渡す。それは羽根や花、鮮やかな長布で飾られた儀礼槍クーゼである。馬上で進行する際に華々しく見せるための実用的ではない槍。

 そのため重量は極限まで軽減されており、クリスの細腕でも軽々と扱える。しかし刃先の切れ味だけは本物であり、どこまでも薄く砥がれた刃は速度を併せれば驚異的な威力になる。


「……ヤー殿、私に付いてきてください!!ヤー殿ならば後ろに乗っても問題ありません!!」

「ちょ、一応壁には検閲の騎士がいるのよ!?どうやって時間を短縮するつもり!?」

「安心してください。私、騎族きぞくの娘ですから」


 今までに見たことないような自信を含めながら、クリスは慌てるヤーに堂々と告げる。そして相棒と言える愛馬シェーネフラウがいる厩舎へと走りだした。

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