第2話「厩舎」

 夜、城の厩舎にてクリスは白い馬に近付く。彼女の愛馬、誇りあるベルリッツ家の名馬、シェーネフラウ。その美しい毛並みは気品に満ちている。

 しかして足の速さは風と称される。美しき牝馬であるが故に易々と人には懐かず、クリスも手懐けるのに三年かかった。気難しい娘のような馬でもある。

 例え世話役でも足で払い除けることが多いため、クリスは実家以外で世話になる時はほぼシェーネフラウの相手役になる。しかし今日は少しだけ違った。


「愛しきシェーネフラウ。今日は、不思議な御方に会ったよ……」


 瞼の裏に広がる鮮やかな金色。目に焼き付いて離れないその輝きを胸に、クリスは今日の出来事を話し出す。




 ユルザック王国の名城カルドナ。その中でも東の端に位置する小さな庭付きの部屋。第七王妃エカテリーナの部屋であり、その息子である第五王子ミカルダ・レオナス・ユルザックの部屋。

 説明だけで長くなる部屋だが、その実態は城の外れにある小さな三部屋を与えられた、継承権のない王子の部屋だ。そこで金髪金目の王子、ミカは床に座りながらまたもや従者二人と会話していた。

 一人は黒髪黒目のオウガ。十八歳の青年だが、鍛えられた体躯は騎士にも負けない天武の才を感じさせる。もう一人はこげ茶の髪に碧眼の少女、天才精霊術師ヤーである。勝気な表情は育った環境を表わしていた。


 そんな三人に礼儀を合わせようと十六貴族の一つ、ベルリッツ家の娘であるクリスバード・ベルリッツは足を揃えて床に座ろうかどうか逡巡する。

 小さな偶然から第五王子の部屋に招き入れられたクリスにとって、王子が従者と共になって床に座るという事態に頭が追いついていなかった。

 特にミカの外見は金色を中心としているが、王子像からかけ離れている。金髪はややぼさついており、左目を跨ぐような縦一直線の傷も要因だ。


「オウガには身の動かし方を教わりながら、歴史を勉強させた方がいいかも。例えば十六貴族は初代国王が十六人の近衛騎士に与えた称号で、それは歴史の流れと一緒に移り変わっていくんだ」

「お、おうよ……頭を動かすのは苦手なんだよ……ん?ということは貴族の発祥は騎士になるのか?」

「それも知らないの?初代国王は城の設計や街構造の編成、ありとあらゆる分野に自ら手を伸ばして防衛を固めた偏屈で、信頼できる者しか傍に置かなかったのよ」

「昔の貴族や大臣は今の中央貴族に変遷した感じかな。地方貴族は土地を持っていた部族をまとめ上げた際に部族長に与えた称号で、十六人の近衛騎士も部族出身が多いんだ」


 どう見ても歴史の授業。それを第五王子が自ら従者に行っているという異様な光景。本来ならば教師の一人でも呼んで、その者に任せるのが普通である。

 オウガやヤーと違って貴族の娘として育て上げられたクリスにとって、信じられない出来事であり、同時に新鮮な気持ちになる不思議な空間だった。

 身分の区別なく、まるで同年代の友達が集まったかのように、気兼ねなく話し合える信頼で成り立つからこその不思議。その中心にはミカがいる。


「そういえばベルリッツ家も初代国王の十六人の近衛騎士からの血脈なんだよ。騎馬民族ベルリッツ出身だから、ベルリッツ家……だよね?」

「え?あ、は、はい!そうです!我が祖先は東の広大な土地を馬で駆けることで支配しており、初代国王に仕えた者は一番の勇士として歴史に名を残したのです」

「他にもカルディナ家は周囲に強大な勢力がある中で生き残った策士、タナトス家は常に民衆に心を配り我が身を犠牲にする献身の姿勢、と色々あるんだ」

「……それが十六あんのかよ……覚えられる気がしねぇ。なんかもうそこら辺全部ヤーに任せていいかよ?」


 胡坐をかきながら肘をつき、痛む額を大きな手で覆い隠すオウガ。急に話しかけられたクリスは座るタイミングを見失い、立ったまま呆然としてしまう。

 机の上には食べ終えたチョコレートタルトの皿を片付ける二人の侍女ミミィとリリィ。部屋の壁には巨大な額縁の中で優美な姿を見せる亡き王妃の姿。

 ミカの部屋は簡素だ。二つの寝室に、食事や勉強に接客を一つにしたような多目的部屋。派手な飾りや家具もなく、生活に必要な物だけを揃えている印象だ。


「いいわけないでしょ。成り立ちを覚えた方が関連付けしやすいってだけで、無理なら名前だけ覚えなさい」

「うぇええ……あ、そうだ武勇伝!なんかこう、最強貴族決定戦みたいなのがあればいける気がするんだがよ……えっと、クリスだっけかよ?」

「は、はい!?あ、そうですね……強さの基準は様々なのですが、北のヘイゼル家とガロリア家はお互いに切磋琢磨した好敵手であり、仲も良いですが歴史上では大喧嘩で国を揺るがしたこともあるんですよ」

「そうそう、そういうのだよ!いやー、あんがとよ。つーわけで、ミカ!こんな感じに噛み砕いて話してくれよ」


 クリスの説明に気を良くしたオウガがミカへ無茶振りする。困った顔したミカだが、なんとか覚えてもらおうと悩み始める。


「うーん、クリス!お願い!俺の代わりにオウガに説明して!」


 しかしすぐに観念し、クリスに両手を合わせて頼み込む第五王子。その仕草と気安さに、クリスは一瞬なにを言われたかわからなかった。

 王子といえば国王が王妃に宿した命であり、赤子の頃から王の子供として教育され、その身分は貴族の上を軽く跳んでいく。なにより守るべき存在。

 そんな相手が貴族の娘でしかない自分に頭を下げる事態。やっと理解したクリスは恐れ多さのあまりにミカよりも下の位置で頭を下げるため、土下座する。


「お、恐れ多いことでございますが……このクリスバード・ベルリッツ!王子の命により誠心誠意でオウガ殿に十六貴族について説明をさせていただきます!」

「心構えは嬉しいけど、そこまで構えなくても!え、俺の言葉をそんなに重く受け止めなくていいんだよ!?」

「いいえ、王子!貴方様は西の大国と王国を繋ぐ血の橋!その御身は大事にするべきでございます!そして私如きに頭を下げずとも、命令していただくだけで……」

「凄く新鮮な反応だけど、逆に怖い怖い!!もっと普通に、普通に接して!オウガとヤーみたいな感じで話しかけていいから」


 礼儀正しいと言えばそうだろう。しかし大袈裟にも見えるクリスの態度に、ミカは大きく慌ててしまう。普段から人形王子と馬鹿にされていたが故の弊害である。

 ミカの目には純白な羽毛のように輝くクリスの魂が視えている。だからこそ嘘をついていないのはわかるが、魂の色味で大体の感情もわかってしまう。

 恐縮しすぎて震えが走るような冷たい水色。怯えているわけではなく、ミカの王子という身分に相応しい態度を考えて行動しているため、恐れ多さが勝ってしまうのだ。


「ミカ様。床の上では足も痛くなるでしょう。普通に座ってお話された方がよろしいかと」

「そ、そうだねミミィ!だからクリスも頭を上げて座ろう!ヤーとオウガもそれでいいよね!?」

「……なんかミカが慌てる姿っていいわね。アタシも礼儀正しく接してやろうかしら」

「やめとけよ。似合わなくて俺が鳥肌になるからよ」


 珍しいミカの狼狽で動く姿にヤーが好奇心を見せたが、オウガの一言で不機嫌になる。何度か脛を蹴ろうとするが、持ち前の体捌きで躱されてしまうことにヤーは苛ついた。

 ミカに椅子を勧められて、何度も頭を下げながらクリスはミカが自分の席に座った後に静かに着席する。女性らしいと言うよりは、騎士に近い作法であることをオウガは見抜く。

 明らかに鍛えられた動き方であることはオウガにしかわからない。しかしヤーも見ていて凛々しさを感じる動きに体幹が良いのだろうと見当をつけた。


「……では僭越ながら、オウガ殿の期待に応えられるよう、十六貴族武闘会を脳内で擬似的に開催します!」

「いやもっと肩の力抜いてもいいんだけどよ……」

「しっ!面白いから黙ってなさい!」


 予想の斜め上をいく真面目さを見せながら、クリスは十六貴族の知識を思い出していく。


「ではまず武力です。これは先程も申した通り、北のヘイゼル家とガロリア家を始め、西のゲルテナ家、南の王海グランガで貿易を担うブロッサム家です!」

「カルディナ家は武力ではないんだな。東の貴族はあまり武力には強くないってことかよ?」

「はい。東は農作物が多いため、移動速度と石高計算に秀でております。カルディナ家は威光と策で力関係を逆転させるのが本領と言えます!」


 真面目に力説していくクリスの言葉に、オウガだけでなくミカとヤーも思わず頷いて話を聞いてしまう。擬似的武闘会とはよく言ったものである。


「ゲルテナ家はカルディナ家に近い領地を保有し、西の大国と熾烈な争いを繰り広げてきた貴族です。自然と荒くれ者と武力が集まり、領地には鍛冶屋も多いのです」

「そうそう。ゲルテナ家が治める土地には良質な鉱山があるんだ。だから西の大国も一番に攻めたいけど、カルディナ家と連携されると手も足も出ないんだ」

「ミカ王子の言う通りです。そしてブロッサム家は常に海賊の危機に晒されているため、対抗するための大船団を保有しています。戦争で使われたことはありませんが、その実力は沈めた海賊船に比例します」

「どれだけ沈めたんだよ……じゃあヘイゼル家とガロリア家の強さにも秘密が?」


 南のブロッサム家と西のゲルテナ家にも強さを裏付ける事情がある。そうすると北の貴族である二つにも背景があるのだろうと期待してしまう。

 純粋に格闘技へ憧れを抱くような子供の目で、オウガはクリスに話を続けるように促す。クリスも興が乗ってきたらしく、興奮した様子で語る。


「北には産業大国であるカルマ帝国と隔てる未踏破の山、竜が住まう峰、天領山ヘルヴォール……別名竜の丘ドラゴンヒル、もしくは竜地獄ドラゴンヘルがあるのはご存知ですか?」

「ああ。あそこは万年雪が積もる場所で、山の頂上から聞こえる風の唸り声が竜の咆哮と呼ばれているんだよな」

「はい!!私も一度は竜が住んでいるのか確かめたい憧れの……ごほん。失礼しました。えっと過酷な環境で、自然と住まう動物も山の環境に負けて人里へ降りていくことが多いのです」

「あそこの人食い熊は手強いもんな……クソジジイに何度戦って来いと蹴飛ばされたことか……」


 竜が住む山の話で声が大きくなったことに対しクリスは顔を赤らめ、オウガは思い出したくない修行時代が蘇えったことで顔を俯かせる。

 オウガは何度かヤーとミカにどこでその強さを身に着けたのかと問われては、言おうとして冷や汗を流しまくって結局膝を抱えて黙ってしまうことが多い。

 そのため修業時代の話はなるべくしないようにしているのだが、まさか竜が住まう峰で修業したこともあるとはミカすら想像していなかった。それだけ危険場所なのである。


「ヘイゼル家は獣が出没しやすい土地、ガロリア家は密猟者の撃退、と役目はわかれておりますが……過酷な環境に適応した強靭な肉体を北に住まう民は持っているのです」

「そういえば年の割には体格の良い爺さんが二人いたな。でも確か北には火山もあったよな……」

「はい。十年前に噴火したのはタナトス家が管理する土地、灰の森ゲルダの向こう側にある天領山の連れ子山マンドラです」

「小さな山なんだけど、天領山とは違って活火山なんだよね。ゲルダが灰の森と呼ばれるのも、噴火の際に灰が積もったままの状態で残っているからなんだ」


 十年前。噴火によって上空を漂った灰に付着した火の精霊により引き起こされた、流行病「国殺し」は記憶に新しい。

 その病でオウガは両親を、ミカは母親を失くしている。その爪跡は今も多くの国民の心を抉り、時には事件の引き金となる。


「しかしゲルダは迷いの森と呼ばれていました。樹海とも言われ、立ち入ることは死を覚悟すること。方位磁石も狂ってしまう場所ですが、タナトス家がそこを任されているのは人望の賜物です」

「タナトス家は献身の貴族とも呼ばれてて、十年前も噴火した際には率先して民の避難を行い、大きく評価されたんだ」

「人望と言えば同じく北のセルゾン家、西のトロイヤ家とジュワ家、東のジャイマン家、南のエカイヴ家が代表的です」

「西と北に偏っているのは、初代国王の時代から西の大国と北の産業国を警戒していた、というのが大きな理由ね」


 土地名と関連し始めたため、ミカはリリィに頼んで地図を持ってきてもらう。四角と円の中間の形であるユルザック王国の簡略地図である。

 北には天領山と灰の森、東にはヘタ村の傍にあった森の向こう側に裂け谷と呼ばれる大きな渓谷、南には王海グランガと呼ばれる広大な海がある。

 そしてユルザック王国と西の大国を決定的に分断するドラテイル川、別名は紅川とも呼ばれる大きな川がある。大体別名があるのは、西の大国や北の産業国の名前と区別するためである。


「伝説だと歴史外の神世にて地獄竜ヘルヴォールが山となり、その口元が熱をもってマンドラという活火山に、体を丸めて長い尻尾を海に付けているためドラテイルという名前の川になったらしいよ」

「そうなんです!!素敵ですよね!!古代の巨大な竜が地盤となり、大地と同化し、その痕跡が伝説となって我らの耳に届く!なんて幻想的なんでしょうか……はっ!」

「……好きなんだな、幻想物語ファンタジーがよ」


 熱い調子で目を輝かせたクリスの勢いが恥じらいによって急激に萎む。両手で顔を覆い、首まで真っ赤にして小声で謝るほどである。


「ち、ちなみに紅川あかがわとも呼びますが、昔の字では淦川あかがわと呼ばれていました。砂金が取れたようなので、竜の鱗だと思われていたようです……はい」

「でも砂金を巡る争いから始まり、西と東の争いが激化して……いつしか紅の血が流れる川という意味になったのよね。今では砂金もないらしいわ」

「ドラテイルの上流は北の産業国に繋がるんだ。だからあそこは鉱山が豊富で、武器開発や工業化が進んでいるらしいよ。でも主に睨み合っているのは裂け谷の向こう側にある皇国と西の大国だけど」

「そういえば……北にいる時、あまりユルザック王国の話は聞かなかったな……相手にされてないのかよ?」


 一時期は北の産業国、と言っても修行のため人の手が入ってない未開の土地あたりに住んでいたオウガは、たまに街で聞いた国事情を思い出す。

 北の産業国は皇帝が統治する国であるが、政治は国会という物が成立していた。ユルザック王国とは違い、国の象徴と政務を分離させた結果である。

 天領山は裂け谷を超えた先の皇国にまで伸びる。その高さと過酷さはユルザック王国と変わらないが、過去の交易により産業国と皇国は山を通過できる仕組みがある。


「西の大国と北の産業国は精霊信仰を早めに切り捨てたから、精霊術師はいない上にそれぞれの神教になっているんだ。そうするとそっちで対立するんだ」

「皇国も独自の文化と多神教を主にしており、多くの国と国交を断絶しているそうです。しかし北とは隣同士で、山の聖地という点でお互いに譲れないらしいです」

「要は国が認める思想と領地問題において、ユルザック王国は後回しにしても問題ないのよ。攻めようにも、天領山が塞いでいるし、マンドラも噴火が大分治まったとはいえ活動を続け、双方に被害が出たし」

「さらに迷いの森ゲルダと、その横を流れる西の大国と隣接するドラテイル川の存在があって、遠回りして攻めるには西が邪魔なわけかよ。どこもかしこも争いが好きなこったよ」


 呆れたように呟くオウガだが、国の現状を言葉で変えることはできない。ユルザック王国において目下の相手は西の大国である。


「えっと……戻しますと、次は石高などを含めた財力ですね。やはり土地を担う者として、金銭には敏感でいる必要があります。すると西のカルディナ家、東のメタンタ家とアガルタ家、南のデルタール家とナギア家が該当します」

「ここでカルディナ家かよ。意外だったな」

「カルディナ家は主にゲルテナ家の土地にある武器や戦力を買うんだ。持ちつ持たれつなんだよね。メタンタ家とナギア家は……まあ、宝石の産地ということなんだけど」

「あそこは成金系でアタシ苦手だわ。アガルタ家とデルタール家はやはり計算ね。税収の管理が徹底されていて、対策や先見が優れているのよ」


 先見が優れているという点で、頭の中に浮かぶ優男のフィル。オウガとヤーは微妙な顔になって、血筋のせいかと納得する。

 ミカは今出てきた貴族の数を指折りで確認し、十五まで確認する。最後の貴族、それに対してクリスは演説するように勢いよく立ち上がる。


「最後に速度!これは自慢になりますが、我がベルリッツ家を強く推します!いずれオウガ殿にもお見せしたいと思います!」

「馬かぁ……そういえば、俺乗れないんだよ。馬が怖がるからよ」

「アタシも馬に乗ったことないのよねぇ。一応習った方がいいのかしら?」

「俺も。五年くらい人形王子状態で、それどころじゃなかったし」


 三者三様の理由だが、馬に乗れないという事実にクリスは衝撃を受ける。生まれた時から馬と共にある生活をしていた貴族の娘として、馬に乗れるのは常識ではなく二足歩行するのと同じだったからだ。

 教えてもらわずとも体が自動的に馬に乗るように、なんの疑問も抱かずに馬に触れて育ってきたクリス。しかしオウガやヤーはいいとして、王子であるミカが乗れないのは問題である。

 馬に乗るのは人を操る術を学ぶため、帝王学に組み込まれることもある内容だ。それを知らないという時点で、ミカが王子として重要視されていないのがわかってしまう。


「じゃあクリスに皆で教えてもらおうか?それでもいい、クリス?」

「へ?わ、私如きが王子に馬を教えるなどおこがましい、いえ厚顔無恥な、その、わ、私が馬になるということでよろしいですか!?」

「よろしくないよ!?え、どういう変換をしたらそうなるの!?落ち着いて、クリス!もっと普通でいいんだよ!!」


 苦悩した顔で四つん這いになろうとしたクリスの肩を掴んで慌てて止めるミカ。二人が並ぶとクリスの方が身長が高いことがわかる。

 至近距離で金色の目と蒼眼がぶつかる。ミカの目の奥、太陽のように輝く金色の向こう側、そこに違和感を覚えたクリスが首を傾げた。

 普通の少年には似合わない獅子のような気配。それを奥底から感じ取り、クリスはもう少し見てみようとミカに顔を近付ける。


 すると逆にミカが慌ててしまい、仰け反る体勢になってしまう。足の踵が滑り、転びそうになるのをクリスが支えようと手を伸ばすが、勢いは止まらない。

 ミカの腕を掴んだままクリスは床の上に転んでしまう。ミカの顔横左右に両手があり、額がくっつくほど近い距離。恐る恐る振り返ればミカの体を跨ぐ格好。

 クリスの顔が青ざめる。王子が転ぶのを止められなかっただけでなく、押し倒して上に跨ってしまうという失態。目の前が暗くなるほどの事態。


「も、申し訳ございません!お許しください!い、今すぐ退いて、いえ、その前にミカ王子に上に跨ってもらい、そこからさらに謝罪に必要な要求を聞くことでしか……」

「だからどうしてそうなるの!?これくらい普通だから気にしないでよ……ほら、妹のリャナンシーの絵が落ちてるし」


 体の上で謝り倒すクリスに対し、ミカは話を変えようと床の上に落ちた落書きの紙を指差す。それはクリスがお菓子をあげた子供に貰った絵である。

 黄色の人のような物が描かれているが、クリスには一体なにが正体なのかわからない。しかし絵を眺めるミカの顔は穏やかである。


「妹……リャナンシー様……第二王女様?」

「そう、俺の唯一の妹でリャナンシー・タナトス・ユルザック。第四王妃の子供で、今年で九歳だったかな?これを見たからミミィとリリィもクリスを部屋に呼んだんだよ」


 王城怖い。歩いてすぐ王族。その事実に気付いたクリスは両手で顔を覆い、相手の正体も知らずに対応した自分の恥を消し去りたい気分だった。

 オウガとヤーが紙を覗き込めば、それは確かに子供が好き勝手に描いた落書きと同様であり、これが王族の絵として歴史に残る可能性があるのかと切ない気持ちになる。


「そ、そういえば豪華なドレスを着ていた……うう……王城怖い」

「うーん、もう少し堂々としてても大丈夫だよ……第三王子より上は少し気を付けないと大変かもしれないけど」

「犬も歩けば棒に当たる、貴族も歩けば王族に当たる、そんな感じよね、ここ」

「これだから王族は嫌いなんだよ。色々と面倒だからよ」


 落ち込むクリスに対して慰めなのか判別しにくい言葉をかける三人。クリスからすれば堂々としているヤーとオウガの方が不思議だ。

 しかしそれが第五王子の従者という肩書で変わるのだろうと行き着く。王子の庇護下、そして王子を護る者。最も傍で、最も信頼される者。

 クリスにはそれが眩しく見えた。誰かに必要とされて、やりたいことに向かってまっすぐに進む。誰もが憧れる姿に、クリスは苦しみを覚えた。


「……えっとさ、そんなに落ち込まないでよ。そうだ!庭の薔薇を見る?一輪しかないけど……」

「そういえばあったわね、黄色の派手な奴。この寒い季節に咲く根性は認めるけど」

「俺が手入れしてるからな!ミカもミミィとリリィも草花苦手らしくてよ、俺が手塩にかけて面倒見てるんだよ」

「アンタか!?ちょっと予想外だったわ……」


 クリスを立ち上がらせるように手を握って引っ張るミカ。クリスは断る理由も、必要性もなく、思うがままに進めた。

 秋風が冷える時期。空風の中でも大きな頭を揺らす黄色の薔薇。西の大国では縁起の良い色として好まれる薔薇であることを知っている者は少ない。

 それでも健気に一輪だけ咲き誇る薔薇の姿にクリスは感動した。こんな小さな命が頑張ってるのに、自分はなんて小さなことで悩んでいたのかと大袈裟に考える。


「ありがとうございます、王子。この薔薇を見せることで矮小なる自分の心を癒していただけるとは、感激で涙が……」

「……嘘、ついてないのよね?」

「本当に本心から出してるよ、これ。凄く良い人なんだよ、クリス」


 目元を擦るクリスの反応に、思わずヤーは疑ってしまう。しかしミカが嘘をついてないというならば、それは本当のことである。

 つまり疑いたくなるほど良い人すぎるのだ。小声で確認したヤーはあまりにも純真な性格のクリスに、育ちの違いを見せつけられるようだった。

 ヤーの場合は結果を出さないと生き残れない研究者生活と、貴族の養子という立場があった。それは今も強く根付いているが故に、ヤーの性格に影響を与えている。


「もしかして……この素敵な薔薇には妖精さんがいるのでは!?」

「……妖精、さん?」

「はい!!妖精さんは常に私達の生活の傍に存在し、見守ってくれる不思議な隣人。きっと今も穏やかな笑みを浮かべ、人間さんこんにちはと……こほん、熱くなりました」


 咳払いして誤魔化したクリスの横に視線を向けるミカ達。そこには常に人間を猿と呼び、尊大な態度で腕を組んでいる水の妖精アトミスの姿が。

 そしてクリスの話を聞いた上で馬鹿にするような笑みを浮かべている。妖精が人間の前に簡単に姿を現さなくて良かったと、心の底から安堵した瞬間である


「そういえばヤー殿は天才精霊術師!もしや妖精の姿がお見えに!?」

「い、いや……妖精は、その、妖精側が姿を見せようと思わない限りは難しいから……」


 目を逸らし、どもりながら説明するヤーの心苦しさにミカとオウガは同情した。横に立って不遜な態度でいます、などと輝く瞳をした純粋なクリスには言えない。

 クリスは少し落ち込んだ様子で顔を俯かせる。ミカの目には明らかに残念そうな魂の色が視えており、魂まで視ずとも表情だけで丸わかりだった。


「私は兄と同じく、昔から精霊も妖精も見えません……それでも、風を感じると思うのです。目に見えなくても……この世界に、風に、全てに、宿っている物があると……」

「……クリス、俺もそう思うよ。視えても、信じることができない人はいる。けど、視えなくても信じることができる人がいる。魂や体よりも重要な、心がきっとそう語るんだ」

「王子……ありがとうございます。兄にこんなこと話すと、非現実的だと怒られてしまうので……嬉しいです」

「あ、ははは……この国でそう言う人がいるのか……」


 ミカはクリスに聞こえないように後半の言葉を呟く。ユルザック王国は精霊と聖獣を信仰する国。公の宗教ではないが、思想として人々の根底に刻まれている。

 それを非現実的だとばっさり斬ることができる人間は逆に稀有である。大あれ小あれ、人民の多くは信じており、少ないながらも視える人もいれば操る者もいるからだ。


「はっ!?そういえばこの薔薇を見たら部屋に帰ると兄様に……す、すみません、王子!今日はもう……」

「あ、じゃあまた明日。貴族裁判が終わるまで城に滞在するんだよね?ならまた明日、会おうね」

「ふぇっ!?そ、そんな恐れ多い……ああ、でも王子が望むなら……いえ、私が望みます!また明日謁見させてください!!それでは!」


 直角のお辞儀をしてから常人より速く歩き出すクリス。その背中を見送り、ミカは少しだけ嬉しそうな顔になる。


「また明日かぁ……オウガがいるから、安心して使えるね」

「お前はまたそう言う……はいはい、俺の負けだよ」

「アタシのこと忘れてない?ま、面白い子ではあるけど……貴族の娘なのか疑問に思うわ」

(というか、全員僕のこと忘れてるだろう!?水の妖精アトミス、ここにいます!!)


 クリスに気付かれないようにアトミスをなるべく無視していたため、寂しさが沸点に達したアトミスが強く自己主張を始める。

 それがおかしかったミカが朗らかに笑うが、それが気に食わなかったアトミスはまた城の内部へと散策に出かけてしまった。






 白馬の鼻が鳴る。まるでクリスの言葉に相槌を打つように、優しい黒目で続きを待ち侘びる。その仕草にクリスは柔らかく笑う。

 しかし荒い人の足音と声が厩舎の裏へと向かってくる。その気配にシェーネフラウは唸りを上げるが、相手は無視して厩舎裏の樽上に音を立てて座る。

 マッチを擦る音が聞こえ、クリスは仰天する。厩舎は干し草などが多く、馬達は火を怯える。だからこそ火気厳禁なのだが、相手は気にせず葉巻に火をつける。


「くっそ、あの忌々しい王子め!フィル王子の後ろ盾がなければ、食事に毒を混ぜてやったもの!!」


 あまりの内容にクリスは相手の声を聞き逃さないように耳を立てる。王族に対して無礼千万な態度だけでなく、毒殺を仄めかす言動。

 もしも実行に移されたら大事件である。なんとか相手の正体を掴んで止めることはできないか、厩舎の板の隙間から裏側を覗き込む。

 丸い赤の光は見える。火の色。しかし姿は逆に影となって見え辛い。声や口調から男性ということは掴めるが、それ以上はまだ把握できない。


「十年前に王妃が死んだ時、いや五年前の人形状態の時に暗殺されれば良かったんだ!なのに回復しやがって、無駄飯ぐらいがっ!!」


 聞いているだけで鼓動が速くなって、胸を締め付けてくる。十年前に死んだ王妃は一人、そして人形王子と呼ばれる王子も一人しかいない。

 金色が眩しい王子。クリスは短い時間だったが、彼と話せたことが楽しかったと思う。今でも瞼を閉じれば、温かな笑みが浮かんでくるほどだ。


「今日もどこぞの貴族があの菓子を……畜生、俺にだって生活があるんだぞ。あの新米め、どうしてやろう……」


 姿は見えない。しかしクリスには相手が誰であるかを理解できた。料理長、第五王子のデザートをわざと隠した男である。

 完全な逆恨みから新米いじめに発展しようとしている事態に、クリスは勢いで飛び出ようかと考えた。その肩を掴む優しい手。

 振り返れば亜麻色の髪が印象的な優しそうな男。彼は人差し指を唇の前で立て、静かにするようにと無言で指示していた。


「どうするって?随分聞き捨てならねぇこと言っていたが……」

「なっ、十三隊のハクタ!?いや、その……苛ついただけで深い意味は……」

「問答無用だ。この剣の錆になりたくないなら、今すぐ料理人を辞めろ!!吐き気がする!!」


 クリスは背後に立った青年に肩を掴まれてわずかに右に体を傾けられる。同時に厩舎の壁を鋭く貫いた剣が姿を現す。

 その事実にクリスは声も出ずに震えた。それは料理人も同じだったらしく、情けない悲鳴が聞こえてきた。


「ひぃ、ひぃいいいぃい!?あ、ああ、辞めてやる!!こんな場所、息が詰まる!!」

「同意見だ。お前と同じ息を吸うなんざ、息を詰めた方が楽だろう。去れ、下郎がっ!!」


 ハクタと呼ばれた青年の言葉を皮切りに滑るように走り去る足音。そして壁に突き刺さっていた剣が抜かれ、大きな穴がランプの光に照らされる。

 夜闇の中でも一層黒いと思わせる青年がそこから顔を覗かせる。クリスは最初、その青年がミカの傍にいたオウガだと思ったが、彼の方が年上だ。

 さらに干し草の中から眼鏡の青年と、木の上からクリスの兄であるジェラルドまで降りてきた時は、今まで平静であった牝馬のシェーネフラウが声を上げた。


「ありゃ?ジェラルドの妹ちゃんもいたのかい。ハクタ、もう少しで剣が妹ちゃんに刺さるとこだったぽいよ」

「なっ!?だ、大丈夫か?すまない……フィル、お前がサポートしてくれたんだな」

「ジェラルドに頼まれてね。自分だと驚いて声を上げる可能性があるとかなんとか言っちゃってさ、純粋に心配だったくせに」

「合理的に考えての判断だ。しかし近い。そろそろ我が妹から離れろ。クリス、お前もこんな時間になにをしている?」


 フィルから妹であるクリスを離しながら、ジェラルドは睨むように問いかける。怒られると思ったクリスは顔を俯かせた。

 その間に干し草だらけの眼鏡の青年が割って入る。四人の中では一番小さく、二番目くらいに愛嬌が良さそうな雰囲気の青年だ。


「まあまあ。馬の世話してたんでしょ。さすがは誇り高い騎馬を担う一族、ベルリッツ家の娘だね」

「……兄様、すいません。シェーネフラウに今日あった嬉しいことを話したくて……つい」

「……そうか。しかしもう夜が深くなる。城内とはいえ、ジリック家のように干渉する方法はいくらでもある。早く部屋に帰るといい」

「はい。それで、は……ん?あの兄様、そちらの御方が先程フィルと呼ばれていましたが……もしや」


 クリスがぎこちない動きで穏やかな青年に顔を向ける。目が合えば微笑みかけられ、手まで振られる始末だ。


「お前の想像通りだ。しかしこのことは他言無用。いいな?」

「は、はい!!し、失礼します、皆様方!!」


 直角のお辞儀をしてから失礼のないように、それでも早歩きでその場を去る。ただし彼女の早歩きは、もはや全力疾走に近い。

 クリスは城の廊下を歩きながら今起きたことを思い出す。第四王子フィリップ・アガルタ・ユルザック、王族である彼がクリスの兄と一緒にいた事実。

 ベルリッツ家は確かに第四王子派である。しかしまるで内部の敵を潰すように徒党を組んで城内を行動している意味が、クリスには理解できない。


 本当に貴族裁判はジリック家断罪のためだけに行われるのか。唐突に襲い掛かってきた不安に、クリスは早く明日が来ることを願った。

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