ぞわぞわ

青羽根

第1話

二日ぶりに帰ったアパートの玄関を開けようとした女は、室内から聞こえるテレビの音に小さく息を飲んだ。

(…あの男が、来ている。)

手をかけた扉は案の定鍵がかかっておらず、恐る恐る覗いた狭い室内は荒れていた。

それなりに片付いていたはずなのに、そこここにビールの空き缶とコンビニ弁当の容器が転がっている。

床に直置きされたテレビに向けて、低く男のせせら嗤う声がする。

ここからは見えないが、壁際のベッドに寝転がっているのだろう。

女は意を決し、小さな玄関で靴を脱ぎ、簡易キッチンの横を通ってささやかな居間の入り口に立った。

「…来てたのね。」

硬い女の声に、だらしなく片肘を枕にしていた男の視線が動いた。

「…来てくれたのね、嬉しい。だろう?」

うっそりと起き上がり長めの茶髪を搔き上げる男の顔は、それなりに甘く整ってはいるものの、目元の剣とねじ上がる口角に荒んだ様子がうかがえる。

「おまえ、三日前がキャバの給料日だっただろう。」

固まったままの女をからかう口調で男は話す。

「せっかく来てやったのに、留守にしてやがる。お陰で俺は、自分で買ってくるコンビニ飯だぜ?ひでぇよなぁ。」

その言葉にハッとし、女はベッド脇の小さなクローゼットに走り寄ると…男に売り払われ一つも残っていないバッグと、散々に切り裂かれた服を見出し、ガックリと膝をついた。

「ちゃーんと待っててやった優しい俺に感謝しろよ?」

「…ってよ…」

「…あ?」

一転低くなる男の声に震えながらも、女は顔を上げ、もう一度声を絞り出した。

「もう出てって。もうたくさん。もうイヤなの!」

「あぁ?」

ガンッ!

男の投げた空き缶が女の顔の真横の壁に激突し、女はとっさに頭をかばった。

投げ出されたバッグの中身が一斉に床に散らばる。

「なぁーに言ってるのかなぁ?構って欲しいなら素直に言えよ?いい子にしときゃあ可愛がってやってんだろ?」

そして足元まで投げ出されていた財布を拾い上げ、紙幣を全て抜き取った。

「ワビは貰ってやるわ。次来るまで反省してろよ?」

立ち上がってパンツのポケットに金をねじ込み、男は背中を向けた。

「もう来ないでって言ってるの!鍵も置いてって‼︎勝手に合鍵まで作ってて、もうウンザリっ‼︎」

男の背中に女の叫び声が殴りかかる。

「それにアタシ、もうキャバやめるし!もう引っ越すし!実家帰るんだからっ。親と仲直りしたし、ちゃんとやり直すんだから、アンタなんかいらないっ‼︎」

男は肩越しに視線を投げた。

うずくまったままの低い位置から、決意を決めた目が睨み返している。

男はしばしそれを眺めた後、女の方に向き直ると、無造作に合鍵を取り出し床に落とした。

明らかにホッとした様子で女は右手を伸ばした。

ダンッと男がその手を踏みしめた。

「グッ…」

女は呻き声を漏らしたが、目を反らそうとはしなかった。

男はその顔を覗き込むと、前髪を鷲掴んだ。

「…鍵が、一つきりだといいなぁ?おい。」

そしてそのまま、女の顔を床に叩きつけた。

「ガッ…」

苦鳴は漏れたが、それでも女は掴んだ鍵を離さなかった。

「…シラけた。」

男は手を離し、玄関へと向かう。

靴を履こうとした時、そこまで転がってきていた女のコンパクトに気がついた。

手のひらに収まる桜色の丸いそれを拾い上げ、先程の金と同じようにポケットに入れると、男は外へと歩き出した。

「オレこそもういらねぇよ。」

小さな呟きは誰に聞かれることもなく消えた。

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