23.日曜の恋人ってやつ、やろうぜ

 とりとめない夜を過ごした翌朝は気怠い。

 さらに、真夏の朝は日射しも蝉の鳴き声も、そして肌にまとわりつく汗が浅い眠りを妨げる。

「う……ん」

 気持がよいのはサラサラしている新しいシーツと、そして甘い疼きが鈍く続く、昨夜愛された痕。

 寝返りをうつと、ちょうどそこが日射しが入っているところ。まどろむ瞼に突き刺す真っ白い光。琴子は余計に唸ってしまう。うっすらと目を開けると、隣で寝ているはずの彼がいなかった。

 それでもここは彼の自宅だからどこかにいるのだろうと思い、日陰に寝返りまたうとうと。

 そのうちに近くで鳴いていた蝉がどこかに飛んでいった。その代わり、遠くシャワーの音が聞こえてくる。

 ああ、シャワーを浴びていたのね。……私も、浴びたいな。汗だらけ。それに、昨夜の痕がそのまま。

 それでもうとうと。シャワーの音がやみ、奥のバスルームからこのベッドルーム前の廊下をリビングへと向かう足音。彼はもう起きて動いている。

 じっとりと湿気た黒髪をかきあげ、琴子はやっともっさりと起きあがる。

 素肌のままだし、髪も乱れている。こんな寝起きの顔、誰にも見せられない……はず。

「起きたか、琴子」

 ベッドルームのドアが開き、そこでパンツ一枚、上半身裸で濡れ髪の彼が現れる。

「……起きた」

 英児が笑う。初めての寝起き……見られた。でも琴子も笑っていた。この野性的な彼にとっては、むちゃくちゃでぼさぼさになっている姿ですら『自然』なんだと愛してくれると知っているから。

「これ。食べるだろ」

 上半身裸のシャワー後の男。その男の片手に白い皿とグラス。それを彼がベッドテーブルを出して琴子の目の前に置く。

 白い皿にきちんと切り分けたオレンジと、琴子が好きなアイスティー。

「ありがとう……」

 独身の男が事足りる程度の家事で暮らしてきた彼だったから、彼女の幅広い家事を喜んでくれるこの頃。それでも、彼女が泊まった朝は男の彼からこんなことしてくれるなんて……。琴子は感激してしまう。

 もさっとしたまま、裸のまま、琴子は手を伸ばしひとまずグラスのアイスティーを飲んだ。

 冷たくてすっきりして目が覚める。この家に通うようになって『自分用』に作り置いているドリンク。それを彼が目覚めの一杯として持ってきてくれる。

 そして英児は、そんな琴子を見つめて笑っている。まだ寝ぼけている琴子のそば、ベッドに腰をかけた。英児の手が、起きあがったまま丸裸でベッドでグラスを傾けている琴子の黒髪を撫でる。くしゃっと乱れてもつれている黒髪を優しくなおしてくれる手つきに、琴子は胸が熱くなってしまう。

 寝起きの恋人を、愛猫のように撫でてくれるけれど、英児の笑みが、申し訳なさそうに少しだけ曇ったのを見る。

「結局、お母さんに甘えちゃったな」

 その一言に、琴子も少しだけ黙ってしまう。

「大丈夫よ。母から『好きにしなさい』と言ってくれたんだから」

「うん。まあな、そうなんだけど……」

 娘を預けてもらえた男として、でも複雑な心境のよう。わからないでもない……。琴子も同じ心境でもあるから。

 少し前。週末も頑張って反対方面郊外の空港町まで通う娘を見て、母がついに『週末ぐらい、好きにしなさい』と言ってくれた。

 土日は必ず琴子から、英児の自宅へと通う。そして彼のお店を手伝ったり、自分も車に触ってみたいと頑張って磨いてみたり。そして夜はやっと彼とデート。その後、夜遅くに自宅へと帰ってきて、せっかくの土曜日なのに疲れ果て、でも翌日の日曜も同じように出かけて同じ事をして疲れて帰ってくる。そして月曜日……自分の仕事に出勤。

 そんな娘のハードスケジュールを暫く眺めていた母が『あんた。無理しないで少し休みなさいよ』と案じた。でも娘は行ってしまう。だけれど平日は恋人と会っても必ず帰ってくる。その内に『週末ぐらい、ゆっくりできるよう好きにしなさい。平日に帰ってきてくれるなら、お母さん一晩ぐらい平気だから』と言い出したのだ。それしか言わなかったが、『一晩ぐらい平気。好きにしなさい』の裏の意味は『外泊OK』ということだと琴子にもすぐ通じた。

 それを英児に知らせると、やはり『悪いなあ……』と戸惑っていた。『でも。食事が終わって、俺の家でくつろいだ後、琴子すぐに眠ってしまうだろ。せっかくぐっすり眠っているのに、帰る時間だぞ――と、起こすのが可哀想でもあるんだよな。俺だって琴子と朝まで眠りたい』。それも俺の気持ち、本心でもあると英児は言った。これまで英児は、どんなに夜中でも大内宅まできちんと琴子を送ってくれていた。だが、英児も琴子と同じ。母を独りにすまいと案じながらも、とうとう母の遠回しの許可を免罪符にしてしまった。昨夜は琴子を起こさずにそのままそっと眠らせてくれたようだった。

 彼が目覚めに持ってきてくれたオレンジをつまみ頬張りながら思う。それは琴子も同じ。このままずっと一緒にいたい、眠ってしまいたい。彼と朝を迎えたい。しかも気怠くぐったりとした朝を。それがいま、叶っている。

 英児も熱いコーヒーを一杯、自分で作って持ってくる。そして一緒に冷えたオレンジを頬張って笑顔を交わし合う。

 複雑な心境ではあっても、やはり『二人で迎えた初めての朝』は幸せ。英児もその気持には敵わないようで、もう何も言わなくなる。

 気持が切り替わったのか、英児はもう違うことを考えているとばかりに、琴子のそばで飲んでいたコーヒーカップをことりとベッドテーブルに置いた。

「琴子、いま、残業がきつそうだな。いつまで続くんだよ」

「うーん、お盆まで。夏商戦のラストスパートでいろいろ受注が多い時期なの。そろそろ静かになるはずなんだけど」

 月初めからまた残業続き。英児が迎えに来てくれるが、すぐに家に帰してもらっていた。だからこそ。この週末は二人とも離れがたかった――。だから泊まる気持に、泊める気持に傾いてしまった。

「あのさ。その盆が終わるまで、俺の店を手伝わなくていいから。もう今日はここに居てもいいから、ゆっくりしてろ」

 途端に神妙な顔つきになる英児。

「でも」

「盆休みはどうなっているんだよ」

 でも、という琴子の次の言葉を、英児が強く遮った。

 でも。『待っているだけでは退屈なんだもの』。彼女がそう言い出しそうであるのを察知して止めた英児が続ける。

「俺、琴子の休みに合わせて、この店も盆休暇にするつもりだから。店のヤツらにもそろそろスケジュールを教えてくれよと、せっつかれているんだ。わかっている予定だけでも教えてくんねえかな」

 お店のみんなに関わる――と聞いて、琴子はすぐに枕元に置いていた白いハンドバッグを手に取った。

「そんな……。お店のお休みまで私に合わせてくれなくても……」

「納期期日に管理されている琴子より、俺の仕事のほうがこの場合は調整がきくだろ、自営で社長なんだから。そろそろ聞いておこうと思ったんだ」

 慌ててスケジュール帳を取り出す。それをさっとベッドテーブルに開いて、八月の予定を眺める。

「ううんとね……」

 目を凝らした。コンタクトをしていないので、自分で書いた細かい文字がぼんやり。今度はバッグから眼鏡ケース。かわいい花柄と小鳥のお気に入りのケース。そこから眼鏡を取り出してかける。

「うん、大丈夫。暦通りに迎えられそう。迎え火から送り火まで」

 答えると、英児がじいっと琴子を見て黙っている。

「なに……」

「前から思っていたんだけどな」

 すごく真剣な顔。なにを言うのだろう。何を言われるのだろう。手伝いすぎだって、今日はなにもしないで俺を待っていろと今日こそなにかきつく言われるのかと琴子は構えた。

 お店に関わること、いろいろなお手伝い。英児が、やってくれともやるなとも、どちらとも言わなかったことを琴子も気にしていた。まるで本当に店長の目で、矢野さんに教わったとおり、新人の琴子がすることを『ひとまず眺めて様子見。判断はそれから』というスタンスで黙ってみている――、そう感じていた。

 もしや。今日がその『判定の日』? でも昨日は、『琴子も龍星轟の仲間だ』とジャケットをプレゼントしてくれたばかり。それに、ジャケットを着たままの琴子を愛してくれたし、彼も嬉しそうにして『タキタの女だって誰に言っても良い』と言ってくれたのに?

 どうして。なにを言うの? 琴子はドキドキしながら、真剣な眼差しの英児を見つめ返すだけ……。それでも英児はずっと琴子をじいいっと穴が開くほど見ているから、間が持たなくなった琴子は、最後の一個になったオレンジをつまんでみる。

 やっと英児が口を開いた。

「エロいんだよな。それ」

「は?」

 英児が琴子を指さす。頭から丸裸の琴子をなぞるように。そして最後、琴子がかけている眼鏡を指した。

「俺が憧れているOLのお姉ちゃんが、エレガントな手帳を広げて、乙女チックな眼鏡ケースから眼鏡をかけて。手帳を眺めて予定を言う。なのに、丸裸」

 やっと琴子もはっとする。確かに。裸で眼鏡。ぼさぼさの黒髪で、汗ばんだ素肌で淫らなまま。彼が大好きなOLのお姉ちゃんが、OLのような仕草をして、でも実は裸。琴子は見た、愛する彼の目がきらっと野性的に輝いたのを……。

「琴子」

「きゃっ」

 気がついた時にはもう遅い。手早い野獣が、ベッドにあがると琴子に抱きついてそのまま押し倒していた。

「絶対に、俺になにかしろって誘っているだろ」

 押し倒されてすぐ、頬に耳元に首筋とあちこち吸い付かれる。

「もう、……英児っ」

 琴子の手には、最後のオレンジ。それを食べたいのに。愛されるならどこかに置きたいのに。でもここで手放したら新しく替えたばかりの白いシーツを汚してしまう。でも握っていると彼に抵抗が出来ない。

 琴子、琴子。そういって彼が、琴子の肌のあちこちにキスを繰り返す。

「ん、ん。もうっ……もう……負けないからっ」

 野獣化した彼にまた溶かされる前に、このオレンジをなんとかしてやろうと思った琴子はくすぐったのを我慢して、眼鏡の目の前でオレンジの皮を剥く。

 はあはあと息が荒くなりながら、甘い快感で震えている指先で堪えながら、瑞々しい太陽色の果汁が滴る果肉を取り出しやっと口を開けて頬張った。

「俺が一生懸命、おまえに夢中になっているのに、なに他のことしているんだよ」

 そっちがいきなり抱きついてきて、よく言うわよ――と言い返したいが、いま、琴子の口は芳しいオレンジに独占されていてもぐもぐするだけ。口元を手で押さえて、とりあえずごっくんと飲み込んだ。

「どうしていつもいきなりなの、よ!」

 だが英児もにっこり言い返してくる。

「どうしていつも、俺をその気にさせるんだよ」

 オレンジの香りがまだ漂っている唇を、いつも通りぐっと力強く塞がれる。

 英児の有無を言わせない激しい侵入。熱い唇があっというまに琴子の口元を愛してくれる……。ん、ん、と呻きながらも、やがて琴子も目をつむってうっとり、彼と一緒に愛し合ってしまう。

「いい匂いだ。オレンジの味も、する」

 うっすら瞼を開けると、愛する彼のうっとりした顔。琴子の唇をいつまでも愛して、そしてその大きな手が乱れている黒髪をまた愛おしそうに額でかき分け、眼鏡の瞳を見つめてくれている。

「眼鏡の琴子、すげえいい」

「そう……?」

「うん。すげえ、いい……」

 初めて眼鏡をかけた顔を見せた時もそうだった。残業が続く時はコンタクトではなく眼鏡にしているので、夜になって迎えに来てくれた英児がそんな『眼鏡な琴子』に遭遇して、興奮してしまい困ったほど。『琴子、眼鏡かけるんだ。嘘だろ。俺、眼鏡の子大好き』と大喜び。なんでも高校生時代に好きだった子が眼鏡の女の子だったとか。元々、タイプらしい。それが今朝は丸裸で現れたので、もうどうしようもなく野獣化してしまったよう。

 朝なのに突如として出現した野獣さん。

 いつまでも琴子から離れない彼との睦み合いは続く……。

 朝の気怠い目覚めは、とりとめない。夜の灼けるような激しさではなく、どこまでもゆるゆるとスローで、ある意味惰性的なゆるやかさ。

「……いいの? 事務所、開ける時間……じゃないの?」

「大丈夫」

「でも、もう……こんな時間。みんなが、来ちゃう、でしょ」

「……今日はさ……、俺、半休もらって遅出……午後から」

「え、そうなの?」

「そう。だから琴子とゆっくり、こうしていたいんだ」

 真っ白なシーツに日射しが照り返し、同じように、琴子の肌も今まで以上に真っ白に晒されていた。それを英児が狂おしい眼差しで見下ろし、そしてべたついている夏の肌をそれでも愛おしく撫でてくれる。

「琴子の、肌、こんなに、白かった、んだな」

 英児の吐息も熱い……。

 彼との初めての朝。

 熱くて、蒸し暑くて。火照りすぎて目眩がしそう。

「日曜の恋人ってやつ、やろうぜ。外で昼飯食って、ドライブに行こう」

 明るい夏の日射しの中、いつまでも続く緩い愛撫に琴子もこっくりと頷く。


 

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