21.すげえ、でっかいベッドを買うぜ!

 盆を過ぎれば少しは涼しくなるだろうが、それはもう少し先のこと。

 朝から一生懸命な蝉にせかされるようにして、琴子は今日もここにやってくる。

「おはようございます。お疲れ様でーす」

 店の裏から、事務所後ろ二階行きの階段がある通路から挨拶をする。

 仕事をしている彼等から、返事がある時もあれば、ない時もある。そして土曜の午前中、滝田店長の彼女がやってくるのはもう恒例。

 二階自宅への階段を上がろうとしたその時、事務所と繋がっているドアが開き、矢野専務が顔を出した。

「おっす、琴子」

「おはようございます、専務」

 琴子はにっこり、おじ様に笑顔を返す。土曜の午前中に琴子が来たと知ったら、恋人の店長ではなくて専務がすっ飛んでくるのも恒例?

「今日の昼飯なに」

「暑いから、冷やし中華です」

 『やった!』と矢野さんがガッツポーズ。

「今日も頼むわ~、琴子ちゃん」

『琴子さーん、俺も食べたーい』

 ドアの向こうから姿が見えない武智さんの声も届いた。

「はーい、了解です」

 琴子の返答に『お願いしますー』と声だけの返事。

「整備の清家さんと兵藤さんにも聞いておいてください。矢野さん、食費の集金をお願いしてもいいですか」

「おう、任せろや。希望者のシフトも持っていくな」

 いつの間にか、こんなことも恒例に。来るたびに作るようになっていたが、食べる食べないはそれぞれ。でも、もう何週かやってきた。

 英児も最初は『無理しなくていいから』と言ってくれたが、それでなんとか店の雰囲気が良くなっているらしく、今はやってくれともやるなとも言わない。

「なあなあ、琴子。それはなんだ」

 本日のランチタイム希望の話がまとまって、さあやっと二階へと思ったのに、まだ矢野さんに呼び止められる。矢野さんが気にしているのは、琴子が手に提げている箱。

「これですか。エスプレッソマシンです。自分で買ったはいいけれど、案外自分一人のために自宅ではあんまり使わなかったので、こちらならどうかなと思って持ってきてみました」

『えー、俺、それ使ってみたい!』

 またドアの向こうから武智さんの声だけが届いた。

「あとで事務所休憩室に設置してみますね」

「それ、難しいのか? なあ、なあ、琴子。どうやって使うんだよ、なあなあ」

「ええっと。簡単ですから」

 エスプレッソマシンの箱を食い入るように見る矢野さんに苦笑い。もう二階に上がってもいいですか。そう言おうとした時だった。

「おい、じじい専務。なにダベってんだよ」

 ドアから作業着の男性が現れる。矢野さんの作業着の襟首がぐいっと引っ張られた。

「おう、店長。彼女が来たぞ」

 誤魔化し笑顔の矢野さんだが、英児はキャップつばの影から矢野さんを睨んでいる。

「もうすぐ専務の客がくる時間だろ。あっちで準備」

「はいはいはい」

「おい、おっさん。俺がガキの時になんて叱ってくれたっけなあ。返事は?」

「はい、すみませんでした。社長さん」

 ぶすっとして矢野さんが行ってしまった。帽子のつばを降ろし睨んだ目元を隠すと、ふうっと英児が溜息。でも、次につばが上がると琴子をにっこり見つめてくれた。

「おはよう。悪いな、今日も」

「ううん、大丈夫。今日は冷やし中華。頑張ってね」

「美味そうだな。うん、行ってくる」

 ここが二階の自宅なら、すぐに飛びついてくる彼だけど……。今は仕事中。きっぱりした背中でドアを出て……。ううん、やっぱり琴子のところへ来てしまった。英児が事務所へのドアをパタリと閉め、琴子がいる階段の上がり口までやってきた。いつもどおり……、階段の壁に腕を付いて琴子を囲って、強い押しのキスを英児からしてくれる。琴子もそっと目をつむる。荷物で両手が塞がっているから、なにもかも英児にお任せ。

「じゃあな。あとで」

 彼の唇が少しだけ離れる。

「うん。待っているね」

 それだけ聞き届けた英児に、また唇を塞がれてしまう。いつまでも一緒に唇から奥の奥まで愛しあう、短時間でも濃厚なキス。そろそろ火照ってきて、胸元から二人だけが知っているいつもの匂いが立ちのぼりそう……。

 ねえ、きりがない。だって、私もいつまでもこうしていたくなるから。

 そう言わなくちゃ……と思った途端に、またそれが通じて聞こえたかのようにして、英児から離れていった。ドアを開けて事務所へ、滝田店長の真っ直ぐな背が消えていく。

 琴子が一人だけ。ほてった頬と身体の芯をじんわり熱くした余韻を堪能する。小さく甘い吐息をそっとこぼす。

「さあ、私も」

 ここは彼の職場であって自宅。上手く切り替えて過ごすことも、慣れてきた。

 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 暑い真夏日だけれど、天気がよいから洗濯をする。ベッドのシーツを洗濯する。今日のいちばんのお楽しみはそれだった。

 キッチンに昼食の材料とエスプレッソマシンの箱を置くと、琴子はリビングを横切って奥にある扉を開ける。そこにはヒンヤリと影になっている廊下がある。そこにもう二部屋ある。ひとつは英児が書斎代わりに使っていて、もう一室はほとんど倉庫状態だった奥部屋。琴子はそこのドアを開ける。

 開けた途端、ざざっと夏の風が琴子を包んだ。もうちゃんと窓を開けてあり換気済みで、空気も爽やか。グリーンのシーツの上に英児が脱いだティシャツと短パン。そして部屋いっぱいに大きなベッド。

 初めてこの自宅で愛しあったあの後すぐ、数日後。二人で家具店に行ってベッドを買った。注文後、搬入までに待ち時間があったのだが、そのベッドが少し前にこの部屋にやってきたところ。倉庫だった部屋は、今はとても落ち着いたシックなベッドルームに様変わりしていた。

 やることが早い英児が、あっという間に倉庫状態だった部屋を整理整頓片づけてしまい、しかも仕事帰りの琴子を迎えに来ると真っ先に家具店に連れて行き、『琴子、どれにする。どれがいいか。デザインは琴子が選べよ。俺はすっげえでっかいベッドが欲しい』と言って、即決購入してくれた。そのお店で、シーツも一緒に選んでこちらは琴子がこだわった。

 部屋いっぱいにクイーンサイズのベッド。『大きすぎない?』と琴子は案じたのだが『ちゃんと部屋に入るサイズ、計測済み』というほどの手際で、とにかく英児は『でっかいのが欲しい』の一点張り。お望みどおり、見事にそれを敢行したのだった。

 北欧風の落ち着いたローベッド。そこで今は二人で過ごし、英児が寝起きをする寝室になった。

 そして。あのベッドはなくなった……。

 ベッドルームは二人で相談しながらコーディネイトした。ベッドヘッドにはあのクッションにもなりそうな枕を、今度は四つも並べている。そして足下には英児が楽しむ小型テレビとDVDプレイヤーのラックも設置。暗がりの中、彼は眠る琴子の隣で、録画撮りしたレース番組をみて楽しんでいることが多い。

 今日は、このベッドのシーツをまた新しく替える。だから、それを楽しみにしてきた。


 英児と琴子は仕事が終わる時間に合わせ、カフェなどで落ち合う。その後、あちこち買い物に出かけたりもする。その買い物で、英児と一緒に洗い替えのシーツを選んだ。たいていは琴子が『これいいと思わない?』と手にとって眺め、英児がよほどに嫌でなければ『うん、いいな。この色もいい』と一緒に眺めてくれる。今日の夜は、英児と選んだ新しいシーツで過ごす。

 今度は熱帯夜を少しでも涼しく感じられるようにと、深いロイヤルブルーで揃えた。薄いジョーゼットのベッドカバーにアップシーツ、そしてさらりとした白いコットンシーツ。ベッドルームが深海になるイメージだった。


 もう幾度も共にした新しいベッドのシーツをはいで、琴子は洗濯を始める。洗濯の物干場になるベランダがあるのは、あの団栗と百日紅の風がある裏側。洗濯ランドリーと直結していて使いやすいけど、日当たりは店舗側にあるため、生活感を見せてしまうベランダは裏側にあつらえてしまい、ちょっと日陰。それでも夏なのであっという間に乾くし、とても涼しい。


 シーツを洗い、新しいシーツに替え、またベッドルームが爽やかになる。琴子も自分のもう一つの場所になりそうな部屋を見て、どこかほっとする。

 この寝室のクローゼットにも琴子のお洒落着も数着、家事用のラフな服、そしてランジェリーもサンダルも。徐々に置いていくようになって増えている。洗面所には琴子の化粧品や、コンタクトの手入れ用品、歯ブラシに、お気に入りのタオルまで……。本当に、セカンドハウスのように自分の物が増えていた。

 ――『琴子が帰っても、琴子がいなくても。琴子がどこかにいる空気を感じている』。

 英児がそう言って満足そうに、新しくした寝室のベッドでくつろいでいる。奥部屋のベッドルームからは海は見えない。でも、団栗の葉がさざめく音と涼しい風が入ってくる。窓にはよく星と月も見える。淡いライトの中、あるいは外からの青い夜明かりだけで、大きなベッドで素肌になった二人は奔放に愛しあう。

 今日もその寝室で、琴子はポロシャツに七分丈のデニムスキニーパンツに着替え、家事を始める。

 

 お昼の時間になると、順次二階に冷やし中華を取りに来る整備員達。矢野さんもご機嫌で平らげてくれ、休憩室で食べ終わった食器もきちんと二階に返しに来てくれる。

「なあなあ、琴子。あれでアイスコーヒーとか作れるのか」

「出来ますよ。また休憩する時に教えてください」

 また喜んで矢野さんは仕事に戻っていく。英児も続いて二階の自宅で食事を済ませ、ひととおり従業員の昼休みが落ち着いたころ。琴子は武智さんと一緒に事務所の隅にあるパーテーションで仕切られているだけの小さな休憩室にそのエスプレッソマシンを設置してみる。

「このマシン用のコーヒー豆代がかかりそうだね」

 いざ使ってみて、それは美味しいが、業務用としてどうかという武智さんの冷静な意見だった。

「そこよね。いま契約している業務用レンタルサーバーの月額のほうがお手頃かもしれないと私も思うの」

「でも。この本物感はちょっと気分いいよね」

「うん。そこは気分良くなりますよ。だけど家庭用でも同じなの。結局、マシン用のコーヒーパウダーやコーヒーポッドを揃えておかなくちゃならないし、一人で飲むには多すぎるし……」

「事務所用か、お客さん用にするか。このマシン用のコーヒーポッドを取り寄せてみて、ある程度使ってみてから、コストの計算してみる」

「じゃあ、私がエスプレッソ用のコーヒー材料を揃えてもいい? お手頃なものを探してみます」

「うん。じゃあ、琴子さんに頼むよ。そこのあたり俺たち、ちょっと疎いから」

 武智さんと事務所での接客用品などについて、最近はよく話し合う。車に夢中な男たちが気にしない部分は、今まで武智さんが気を配ってきたとのこと。

 彼とは話しやすい。ほんのちょっとだけ年上で、この武智さんも『元ヤン』だったとか。つまり英児の後輩。そしてあの植木職人篠原さんと同級生だという。きちんと事務職を身につけたので、英児が店を開く時に手伝って欲しいと他でお勤めしていたところを引き抜いたとのこと。

 眼鏡をかけて、彼だけワイシャツとネクタイに作業着。英児や篠原さんと違って、そういう元ヤンの名残が見られなかったので、琴子はそれを知って驚いたほど。接し方もソフトでおおらかなので、とっても話しやすい。それにけっこう理数系らしく頭の回転も速そう――と琴子は感じていた。

 武智さんとそんな話し合いをしていると、店先で顧客の車を洗車していた英児が事務所に戻ってきて琴子を呼んだ。

「琴子、簡単なチェック教えてやるから」

 店長自ら? 琴子は驚きながらも、英児から借りている龍星轟の上着を羽織り店先に出てみる。

 シルビアをワックスがけさせてくれたあの後も、琴子は店の代車を使ってワックスがけを練習させてもらったりした。矢野さんが指導につくことが多い。どうしても『彼女、恋人』という先入観が働くので――という滝田店長からの要望だった。

 それなのに。この日は店長の彼自ら手ほどきしてくれるという。


 練習はなんと英児が洗車していた顧客の車。だが英児は黙ってボンネットを開け、ボンネット・ステイで支えエンジンルームを琴子に見せる。

 二人で並んで立つと、英児がエンジンルームを指さす。

「これがエンジン。そしてラジエーター、バッテリー、エンジンオイル……」

 各部位を教えてくれ、やがて彼の手がエンジンルームの端っこにある指ひとつぶんだけ入るリングに指を差し込んだ。それを引きあげると、とても長い鉄の平たい棒が出てくる。

「これは『オイルレベルゲージ』と言って、エンジンオイルの残量をチェックするものなんだ」

 鉄のゲージには、ぎらぎらと油がついている。それを琴子の目の前へと手を添えて見せてくる。

「いま残っているオイルの正しい高位を計測するため、車体を水平に停車させている状態で計測。これは水平時の高位ではないので、ついてるオイルは一度拭き取る」

 彼の手にはペーパータオル。オイルがついたゲージを拭き取ると、また元の差し込み口へとギュッと戻した。

「計測前にゲージについている油は走行後のもので、水平時の物ではないので、拭き取ってもう一度ゲージをタンクへ戻す。これをしないで、最初引き抜いた状態の物で計測しないように」

 そしてもう一度、ゲージを引き抜く。

「この目盛りが上限、下限。この下限ライン付近を示していたら残量が僅かということ。それをチェックするゲージなんだ」

 琴子も頷く。

「だいたいがディーラー点検でオイル交換など一手にやってもらっている人がほとんどだと思う。でもそれ以上に車を気にかける車好きの男達がどうやって大事にしているかを、琴子には知っていてもらいたいんだ」

 何故、英児が自ら教えてくれたのか。やっとわかって琴子は嬉しくなる。『心臓のエンジンまで大事にする、車好きの男達』。細かな点検に、様々なカー用品を駆使する。女にはわからないかもしれない。でも知っていて欲しい――。車屋の女だから。そういう意味にとっても良いのだろうか? だとしたら、とても嬉しかった。琴子が知りたかったことを、店長の英児から教えてくれたから。

「次、ラジエーター。これはエンジンを冷やす冷却水が入っている。圧があるのでエンジンが熱いうちにこのキャップを開けるのは注意。これも交換する目安があって……」

 そんなエンジンルームの管理や部位、そして手入れの方法や交換の目安などを教えてくれる。

 龍星轟のキャップの影から覗く真剣な眼差し、紺色作業着で真摯に車に向かう男。滝田店長。

 その顔で教えてくれる英児の言葉にひとつひとつ頷き、琴子も真剣に聞いて覚える。

 これが英児の、車への気持、姿――。

 こうして琴子も徐々に龍星轟の空気に溶け込んでいける感触を噛みしめていた。

 従業員ではないけれど、このお店が好き。この店に彼の自宅に来たら、ちょっとだけお手伝い。出来る分だけ。そして出しゃばらない程度に。それを従業員も受け入れてくれていた。

 そしてなによりも、愛する男の精神に寄り添っていける実感があった。

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