19.うわー、俺のスカイラインが(゚Д゚)!
矢野さんが、スカイラインのルーフを『ぼん』と軽く拳で叩き、さらに英児を睨んだ。
「車のことをよく知らないヤツには触らせられねえって、オマエのその度量の狭さをいま見たぜ。オマエの可愛い姉ちゃんが触るのもダメなら、オマエ以下の男にも触らすなんてとんでもねー話ってわけだよなあ。つーことは、オマエがこの店で最後の整備士で終わっても良いってことだよなあ!」
激しく言われ、さすがに英児もたじろぎ、ぐっと黙らされた顔を見せた。
弟子が怯んだその隙を師匠は見逃さない。そこにすかさずねじ込むためか、矢野さんは自分より背が高い英児へと、ぐいっと一歩、詰め寄る。
「自分以下の部下がこの店にはいない。事務員の武智以外は、清家も兵藤も、おまえが気に入って引っこ抜いてきた先輩だもんなあ。こんなぬるい状態で、ゆったり余裕の社長様。この安定感はおまえの経営力だけじゃない、支えている整備士の安定感もある、或いはオメエより大人だからよお、まだ青臭いおまえを泳がせ黙って我慢してくれることだってあるんだよ」
「そ、そんなのわかっている。でも、今はそんな時期じゃないと思っている。うちは大きくはないんだから、なるべくリスクは減らしたい。一人雇うのだって人件費が――」
だが、矢野さんは『はあ?』と馬鹿にした眼差しを、英児の顎の下から上へとぐいっと差し向ける。ぞんざいな、その威厳の振りかざし方。琴子もドキドキハラハラと怯えている。元祖ヤンキーのおじ様なら、ガンガンバシバシ、恐れずに英児をメッタ切りにしそうで怖い!
「よお、店長。もう一度言うぞ。よく聞けよ。『いいよな。彼女が車を触っても』。カワイイ彼女が車を綺麗にしてくれると思えばいいだろうよ。おまえの車だぞ。客の車のほうがいいか?」
英児の口答えは無視、皆無。彼が社長の顔で根本的な理由を述べたところで、師匠としては『それがどうした。それより、こっちが大事だろ!』とねじ伏せようとしている。琴子の額に滲んでいた汗がひんやりと別の汗へと変わっていく感覚。そしてうつむく英児の苦渋の表情。
「いや、俺の車で」
琴子はびっくり。矢野さんの一喝で、英児があっさりと琴子が車を磨くことを許してくれた。
「言っておくけどよ、英児。俺だってな。なーんにもできねえ、『鶏冠(トサカ)だけ立派なヤン坊』だったお前が、あれやったりこれやらかしたり。どんなに腹立って怒鳴り散らしても、おまえの手に技術が残るよう、腹に据えかねてもやらしてきたつもりだがねえ」
……なるほど! 琴子にも見えてきた。
英児は店長だけれど、まだ『人材を育てる』ということをしたことがないのだと。それを矢野さんが『そろそろやれ』と言っている。
だけれど英児の場合、車に対しては『完璧にしたい』という心構えは頑固で頑なすぎるから、ちょっとの失敗がある可能性は徹底して排除してきた。それがまだ仕事が出来ない自分より若い従業員の雇用を避けること、あるいは、育てる手間を避けてきたこと。客に引き渡す車は、徹底した整備で常にピカピカでパーフェクトでありたい。それが龍星轟のプライド。でも、新人を雇ってそれができなかったら? きっと英児はそれが我慢できないのだろう。
この問題。矢野さんは『そろそろ考えろ』とアドバイスしていたのに対し、英児は『まだ今はいい』と流していたのかもしれない。
そこで琴子が現れ――。車の運転も出来ない女が『車を触りたい』と言い出した。浮かれた気持なのかどうか、それを確かめ、矢野さんが琴子をこの作戦に引き込んだのは? ある程度は『まあ動機はともかく、使える』と認めてくれたのだろうか? しかし琴子は『矢野さんの作戦に利用された』のだと再確認した。
だが、これは良いバランスが取れた『ギブアンドテイク』だとも思った。矢野さんと琴子の利害が一致している。だから……。
「店長。私、出来ないのはわかっているけど、一生懸命、覚えますから」
『英児さん』ではなく、従業員でもないのに『店長』。
英児が面食らった顔になる。矢野さんには滑稽な茶番に見えたのか、必死に笑いを堪えているのが見えた。
それでも英児はキャップのつばをぐっと降ろして、師匠そっくりの仕草、目線を隠して、ぼそっと言った。
「矢野専務に教えてもらって。出来上がったら俺に見せて」
「わかりました」
琴子の目は見てくれなかった。でも、任せてくれた……。
矢野専務に背中を叩かれる。
「悪かったな。巻き込んで」
でも琴子は首を振る。
「いいえ。私もやりたかったので、ありがとうございました」
でも、矢野専務はもう琴子を上から冷たく見下ろしていた。
「この炎天下、『私、やっぱりダメです』とギブアップなんてしてみろ。英児の二階自宅に出入りはできても、龍星轟には出入り禁止。いっさい関わるな」
女の琴子にも、車のこととなれば容赦なく恐ろしい目、ギラッとガンを飛ばしてくる矢野さん。……こ、怖い。やっぱり元ヤン親父だと琴子はびくっと硬直してしまう。
だが琴子も腹を据える。
「もちろんです。やってみたいと言い出したのは私ですから」
「まあ、英児ががっかりする顔が今から浮かぶわ。車に関しては完璧主義のアイツがガタガタって崩れるところなー。いやー、楽しみだわー」
矢野さんがニンマリ意地悪い笑みを見せる。琴子は密かにムッとした。綺麗に仕上げられなくても、英児さんは英児さんは……、……どうなんだろう? やっぱりがっかりするのかしら? 琴子も不安になる。
さあ、はじめるぞ。矢野さんの合図で、琴子も動き出す。
「まずは、洗車だ」
店先にある業務用のジェットホース。それを持たされる。もう一本は矢野さんが。
「しっかり構えろよ」
出てきた水圧にびっくりしながらも、琴子はなんとかホースを手に矢野さんと車に向かう。
「まず、埃を落とす。砂利みたいな小さな埃が残ったままスポンジでこすると、たとえ車に優しい『手洗いワックス洗車』でもボディに傷が付くことがあるからな」
「はい」
ホースで水洗いを済ませると、今度はスポンジと業務用のウォッシュ液でボディを洗浄。半分は矢野さんがお手本がてらやってくれるが、その仕事がすごく速い……! 琴子は丁寧にしているつもりだけれど、叱りとばされる。
「遅い! 丁寧っていうのはな、綺麗に出来るまで、いつまでも頑張ることじゃねーんだよ! 勘違いするな!」
店の敷地中に響く声で怒鳴られ、琴子は背筋が伸びる。
「はい、専務!」
でもお腹から声を出して応えた。そして素早くスポンジを動かす。
「終わったら。ホースで洗浄」
「はい」
泡に包まれたスカイラインを、ホースで洗い流す。半分は矢野専務、半分は琴子が。
その時、矢野さんがふと呟いた。
「姉ちゃんを怒鳴りつけて、腹を立て整備を放ってまた出てくるかと思ったけど。あいつも肝据えたみたいだな。ガレージから出てこなかった」
可愛い彼女の琴子を怒鳴りつけ、それに腹を立て庇おうと出てくるぐらいの男なら、またガキ店長だと怒鳴りつけてやろうと思った。そう小声で矢野さんが囁いた。つまり琴子を怒鳴ったのは、気持は指導する以上本気だが、半分は英児がちゃんとガレージでドンと構えていられる経営者かどうか、集中できるかどうかを試していたようだった。なんとか合格のよう。
「姉ちゃんも、案外めげないんだな」
怒鳴っても泣かなかったなあと矢野さんが笑顔を見せる。英児に似た男らしく目尻が優しい笑顔を見せたので、琴子はどっきり思わずときめきそうになった。
ホースで足回りもちゃんと洗い流しながら、琴子も笑う。
「いまでこそ好きな服でお洒落をして仕事をしていますが、それもデザイン会社社長のアシスタントにしていただいてからです。それまでは、私もどちらかというと、職人に近い手作業の生産業務だったんです。使っている道具には服に付いたら絶対に取れないインクをつかったり、真っ赤なペンをつかったり。汚れるからお洒落なんてできなかった。それに、その手業を教えてくれたのも職人堅気なおじさん達でした。厳しかったですよ」
だから、おじさんの嫌味な言い方とか怒鳴る声は慣れている。そう告げると、矢野さんがちょっと驚いた顔をしていた。
「そっか。そうだったのか。なるほど……。それで三好ジュニアのアシスタントになれたってわけか」
そして矢野さんが言った。
「見た目で決めたら駄目だな」
その意味は、良い意味と取って良いのだろうか。
―◆・◆・◆・◆・◆―
「よし、やるぞ」
「はい!」
ついに『憧れのケース』を琴子は手に持たせてもらう。
手のひらサイズのスポンジを片手に、そのケースの蓋を開けた。粘土のような練り粉。独特の匂い。
洗車後、濡れた車を綺麗に拭き、そして車内の清掃も教わった。英児の車は綺麗なので、車内清掃といってもほとんどやる意味がないほどだったが、それでもひととおり教わった。そしてその後、ついに『念願のワックスがけ』へ。
「つけすぎると、塗った痕が残る。つける量が少ないと艶が出ない」
矢野さんがスポンジにワックスを取り『これぐらいだ』と見せてくれ、琴子も頷く。そして運転席真上のルーフ角から小さな円を描くように塗り始める。琴子もごくりと喉を鳴らしつつ目を凝らし、矢野さんの手つきに集中。だがそこで矢野さんがやめてしまう。
「やってみな。ここまでな」
「そこまで、ですか」
ほんの三十センチ、くるくると円を描く列を五列ほど塗っただけ。だが琴子もそれを真似してみる。琴子は助手席真上のルーフの角から、矢野さんがやっていたように、くるくるくると円を描くようにワックスを塗る。
「次、行くぞ。よく見てな」
「はい」
今度は真っ直ぐ平面にすーっと塗る矢野さん。
「あとはこの塗り方でやるから、ルーフを隙間無くまんべんなく塗りな。半分は俺、半分は姉ちゃんな」
はい。返事をして琴子も見よう見まねでやってみる。
矢野さんも多くはアドバイスはしない。見て覚えろ的スタンスのよう。だから、ほぼ無言でお互いに神経集中。塗ってはワックスが乾く前に拭いてと、部分的にその繰り返し。
最後、バンパーを仕上げ、矢野さんと磨き終わったスカイラインに向かった。
だが、その時点で。英児に見てもらう前に琴子自身が『ガタガタ崩れそう』だった!
「この差は歴然だな」
矢野さんが得意げににんまりと笑っている。
スカイラインの半分は見事にムラ無し、ピカピカ。対して琴子が手がけた半分はピカピカ光っても、いろいろな筋のムラが出来ていた。
しかもルーフの上に一番最初にやった円を描いて塗ったところ。そこを矢野さんが指さした。
「以前はこのような塗り方が主流だったんでね。姉ちゃんみたいな初心者がやってこの円の塗りムラがでると、車が鱗みたいに光ってこりゃ見られたもんじゃねーんだよ。特に黒は目立つ」
確かに。運転席側を担当した矢野さんの円塗りのところは、ほかの平面塗りをしたところ同様、筋ひとつ残っていない。その境目もわからない。だが琴子が円を描いた助手席の真上、そこだけ見事に鱗の痕。ルーフに三十センチだけウロコ!
「こりゃあ。英児がひっくり返るぞ。覚悟できてるよな」
「はい……もう、しかたがないです……」
無様なスカイラインにしてしまい、琴子もがっくりと、うなだれた。
「家庭で気軽にワックスをかけるならどうやってもいいんだよ。だけどな、俺たちはこれで食っているから客が喜んで持って帰ってくれるように仕上げなくちゃいけないんだ。わかったな」
「はい、専務」
琴子が頷くと、矢野さんはやっぱりあの目尻の微笑みを見せてガレージに向かった。
整備をしていた英児が矢野さんと並んで出てくる。琴子はドキドキした。こんなムラ筋だらけになった車にしてしまい申し訳ない気持でいっぱいだった。彼が常に綺麗にして乗っている車。特に、良く乗っているスカイライン。しかも龍星轟のステッカーを貼っている『龍星轟タキタ店長の車』を、こんな姿にしてしまって……。
彼とドライブをしていると、よくクラクションを鳴らして挨拶をしてくれる車が多い。走り屋風の若者だったり、車が好きそうなおじさんだったり。中には外車に乗っているマダムもいた。そんな彼の助手席にいて琴子も感じた。英児が乗る車は『龍星轟の看板、宣伝カー』でもあるのだと。だからいつもピカピカ、そして格好良く、車屋らしく。でも、その車を彼の愛車を、琴子は――。
怒るのか、呆れるのか。褒めてはくれないだろう。
ついに彼がスカイラインのボンネット前に立った。愛車のスカイラインをじっと見つめている。
琴子も覚悟する。
彼が車をひと眺め――。
「マジかよ……。ここまでとは、」
目を覆って、バンパー下までへなへなとしゃがみ込んでしまった。まさにガタガタ崩れていくように。作業着姿の英児が、ヤンキー座りでうなだれている。
「よりによって、矢野じいと右半分左半分でやったのかよ~」
専務担当の運転席側半分はほんとうにワックスなんて塗ったのかというほど、ピカピカ。琴子がやった助手席側半分はワックスがけやったんだなとわかるほど筋が残って光っていた。
「わかりやすいだろー。見ろ、このルーフでもちゃんと鱗塗りの悪い例もみせてやったんだ」
どこか面白がっているにやり顔の矢野さんが、最初に円を描いて塗ったところを見せた。それを矢野さんが綺麗に仕上げたところ、琴子がやって鱗が出来ているところを見て、また英児が目を覆う。
「……あのなあ、もっと目立たないところでやれよ。暫く乗れないじゃないかよっ!」
「これが新人ってやつよ。これを出来るようにする手間も時間も必要だし、客に迷惑をかけない方法も考えなくてはならない。おまえもな、カワイイ彼女がやったからまだ許せるだろうが、それでも嫌だろ。その気持ち、これから慣れていかなくてはいけないからな」
新人がどんなものか。どうすればよいか。それを琴子を使って矢野さんは英児に実感させたようだった。
「あの、英児さん。やっぱり私……」
出過ぎた真似をしてごめんなさい。そう言おうと思ったのに。
「もうこれはこれでいいや。はあ、参った」
そう言って、がっくりと肩を落として行ってしまった。事務所に英児が去っていく後ろ姿を琴子は胸を痛めて見送るだけ。
「やっぱり私、謝ってきます」
彼を追いかけようとしたが、矢野さんに止められる。
「まあ、待てよ」
矢野さんが顎で、事務所にいる英児を見ろと促した。その英児が。矢野さんが勝手に触ったキーをぶら下げているボードに立っていた。そのまま事務所から出てきた英児はまたガレージへと行ってしまう。矢野さんに止められているが、琴子はやっぱりハラハラしている。『彼女だから』という傲りで大事な愛車を乗れない状況にさせたと怒っているのだろうか……。
だが英児が入ったガレージは整備ピットではなく、車庫。そこからまたエンジン音。ギュンっと出てきた銀色の車がこちらに向かってきて琴子は驚く。
バンと運転席のドアを閉め、英児が出てきた。
「次はこれでいいよな、親父」
「だな。最初だから黒なら分かり易いと思って使ったけどよ、次は薄い色でやらせてみるわ」
二人の会話に琴子はびっくり――。
「琴子はどう。もう一台、やる気あるか」
英児に聞かれる。その顔が、いつも琴子に『かわいい、かわいい』と抱きついてくる恋人ではなかった。店長の顔。
「あります。このままじゃ、悔しいもの。私だって毎日、このスカイラインに乗せてもらってすごく愛着があるんだから」
「そっか。それならゼットも頼んでいいな」
琴子はつい、笑顔で英児に言ってしまう。
「嬉しい。だって私、この車に乗って宇宙飛行士になったみたいにとっても興奮したんだもの。あんなの初めてだったの。私、この子も頑張って磨くから!」
そして。あの月夜、私と英児を甘く熱い世界に連れて行ってくれたシャトルみたいな車!
そんな琴子を見て、矢野さんがなんだか嬉しそうに英児の背中をばんばん叩いていた。
英児も、どこか照れて。今度は笑ってくれている。
「じゃあ、よろしくな。琴子」
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