⑤ 時代による青春。


 しかし青春は悲しいかな、自分たちだけで支えている訳ではないんだ。時代によって支えられているものがあるんだ。


 という文章を中上健次の対談の中で見かけました。中上健次が発言したものではなかったのですが、僕は「ほぉ」と思いました。中上健次やそれよりも以前の作家(中上健次は戦後生まれで初めての芥川賞を受賞しました)たちが語る「時代」という言葉が、今、僕が感じる時代とどうにも繋がらない気がしていました。


 中上健次の語る青春は新宿で、フーテン族で、全共闘で……、というもので何と言うか、オフシャルというか、その時代を生きた人間全員が共通して感じ入れたものであることが分かります。じゃあ、今年二十七歳になった僕にとっての「時代によって支えられている」青春とはなんだったんだろう。

 丁度、二十歳になった一ヶ月後に東日本大震災がありました。僕の住む街は揺れたりはしなかったですけど、それまでの生活とか常識みたいなものがぐらぐら揺れた感覚だけは確かにありました。


 当時の学校の先生が、阪神淡路大震災を経験していて、その経験を語った上で「今、好きな人がいる奴は、とりあえず告白しに行っとけ。言えなくなる前に」と締めくくりました。

 青春というカテゴリーとは違うのかも知れませんが、何より浮かぶのはこの言葉です。誰かに何かを伝えたいと思いながら、躊躇した時、ある瞬間、伝えられることさえ出来なくなるかも知れない、という事実。


 言うなれば、僕が感じる「時代によって支えられている」青春は、その時代は常に安定して僕らの足許にある訳ではない、ということでした。

 もしかすると、僕たちが生きていたという証さえ残らず消えてしまうかも知れない。それは僕にとって一番の恐怖でした。


 子供の頃から、自分が死ぬことは仕方がないのかも知れないけど、自分が残したもの(例えば、描いた絵や日記)は他人の手によって処分されるのだからこそ、意味あるものを残しさえすれば誰かの手元に残り続けるかも知れない。

 そんな想像とも妄想ともつかない考えに僕は取り付かれていました。だからこそ、ひい婆ちゃんが亡くなった時などの遺品整理なんかが僕はとても辛かったのを覚えています。ひい婆ちゃんの葬儀では泣かなかったくせに、彼女が残していったものが一つ一つゴミ袋に入っていくのに泣いてしまいました。


 物に神が宿る、と言った言説を信じている訳ではありませんが、生きている人間が物を扱う、ということはそこには扱ってきた時間、歴史が積み重なっていく訳で、それは尊いことだと思ってきました。そして、その尊さを当事者ではない外の人間には理解できないものだ、とも。


 東日本大震災の津波の動画を見た時、僕の苦しみはそこにありました。多くの人間が亡くなり、同時に多くの物も流されてしまったんです。その数えきれない物たちを大切に、あるいはそれほどでなくても、扱っていた人たちのことや、そこに積み重なった時間を考えた時、僕はもう途方に暮れるしかありませんでした。

 僕たち、と他人を巻き込んでいいのか分かりませんが、の青春はこの日常がずっと続く訳はなく、また自分が所持している物でさえ、ひょんなことから消えてしまう可能性がある。


 身体一つで放り出されて、生きなければならない瞬間が訪れるかも知れない。その時に備えて、何ができるのか?

 という問いだったのように思います。


 僕はまだ答えに辿り着けていませんが、とりあえず本を読もうと思いました。生きている以上は、今僕が使っている脳みそは健在ということだから、その知識なり、記憶なりが役に立てば良いなとささやかに願っています。


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