越の国戦記 後編 1945年晩秋(5式中戦車乙2型/チリオツニの奮戦)

遥乃陽 はるかのあきら

第1話 越乃国梯団の戦車長達『越乃国戦記 後編 5式中戦車乙2型/チリオツニの奮戦 1945年秋』

■昭和20年(1945年)11月4日 日曜日 金沢市野村練兵場近く、待機場所の竹林の中


 天皇陛下が最終動座(どうざ)をなされる地は、既(すで)に富山(とやま)県の小矢部川(おやべがわ)源流域の刀利(とうり)の地に決定されて陛下の住まう地下宮殿の造成が突貫(とっかん)工事で進められていた。

 しかし私には、刀利の地に現状の戦況に対応できない重大な欠陥(けっかん)が有ると、広げられた地図と現地の写真を見て思った。

 先(ま)ず、防衛火力とする戦車や大口径の砲を搬入(はんにゅう)する道路や橋が無く、どうしても必要となると道路や橋を建設する為(ため)の土木工事から始(はじ)めなければならず、これには事前の地質調査や測量の作業が伴(ともな)う。

 次に刀利の地を外界から隔離(かくり)している曲がりくねる垂直の絶壁を崩(くず)すだけで川底を埋(う)めてダムを造り、刀利の地を水没の危険に晒(さら)すだろうから、大型車輛を通す強引な急(いそ)ぎ工事の道路造りは出来ない。

 水没の危険性は道路工事による切り崩しだけではなく、敵の砲撃や爆撃に破壊工作でも谷間が埋められてダムが出来てしまう。

 それに完成した道路は敵の侵攻路にもなり、防衛の負担(ふたん)が増えてしまうだけだ。

 富山湾の岸辺から刀利の地までは最短距離でも敵戦艦の射程以上になるが、金沢沖5㎞の水上から刀利の地へは敵戦艦の40㎝主砲の射程内に入っている事は分かっていた。

 従(したが)って、地下宮殿と医療施設を備(そな)えた地下壕及び地下工場は山の中腹の水位が上がっても浸水しない高さからの複数口の出入りとし、尚且(なおか)つ、戦艦の主砲弾と1t爆弾の直撃に耐(た)えられる岩盤の奥深く7、8階の階層の迷宮の様な構造で複数の脱出口を有するとされ、更(さら)に周辺の複数ヶ所に地下発電所を建設する大規模な計画だった。

 だが、敵の侵攻は速く、急速に国土を占領されている現在、どう考えても時間的、資材的、労働力的、戦力的に住居として整(ととの)えるのは困難(こんなん)で間に合う筈(はず)も無かったが、今更(いまさら)、動座の施設造りの工事を中止する事は出来ない。

 刀利の地の石川県側の山地から金沢市の北側市内を抜(ぬ)けて河北潟へ流れる浅野川(あさのがわ)は川幅が狭(せま)いものの、上流域は河原(かわら)の余地も無い深く抉(えぐ)れた渓谷(けいこく)の急流で橋を架(か)けていなければ、車輛が対岸へ渡るのは非常に困難だが、上流域の湯涌温泉や更に県境近くのさ砕石場(さいせきじょう)まではトラックが通れる強度と幅の道路が有った。

 其処(そこ)から県境の峠(とうげ)を越えて刀利の地へ下(くだ)るには、藩政期からの人や馬が通れる程度の細い街道しかなく、車輌の通行は不可能だった。

 因(ちな)みに重量45tの5式中戦車改2の車体長は7.3m、車幅は3m7㎝で、重量からして金沢市内から郊外への移動は無理だった。

 自重3.5tで積載量1.5tの94式6輪自動貨車の車幅は1.9m、一般的なトラックなら自重3~4t、積載量1.5~3tで車幅は2m、ボンネットバスだと幅は2メートルだから、所々に離合(りごう)場所を設(もう)けた幅3m弱(じゃく)の道に拡張すれば、資材と人員の円滑(えんかつ)な搬入は可能になるだろう。だが、悪化するだけの現在状況に対応可能なのは其処までだった。

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 6輌のチリオツニに搭乗する30名の戦車兵の中で、実戦経験の有る者は私を含(ふく)めて僅(わず)か5名だけで、其の5名を戦車長とした。

 実戦経験者が搭乗しない1輌は、一人(ひとり)だけいた学徒出身の少尉を任命(にんめい)して、彼の乗車を私の僚車、第1中隊2号車にさせた。

 彼の名は、小鳥遊芳光(たかなしよしみつ)帝国陸軍少尉、静岡(しずおか)県清水(しみず)市出身の早稲田(わせだ)大学の3回生で、頭の回転が速い質実剛健(しつじつごうけん)な若者だ。

 去年の昭和19年12月に入営しているので戦闘は経験していないが、有名な『清水の次郎長親分』を尊敬していると言う事だけあって義侠心(ぎきょうしん)が強く、『弱気を助け、強気を挫(くじ)く』の喧嘩(けんか)に加わっているのを何度も見ていた。

 彼の踏(ふ)み込んだ間合いの拳(こぶし)は一撃必中で、倒(たお)れた相手や逃(に)げる相手が戦意を喪失(そうしつ)したと見るや、止(とど)めや深追いはせずに潔(いさぎよ)い引き際(ぎわ)をしていた。

 故(ゆえ)に、私は僚車の車長に彼を任命して、金沢市の北よりの海岸、特に大野(おおの)の湊町(みなとまち)と粟ヶ崎(あわがさき)や内灘(うちなだ)の浜から上陸侵攻して来る敵の迎撃(げいげき)を命じている。

 第2中隊長の村上宏一(むらかみこういち)帝国陸軍曹長は、国境を越えたインドのインパールの市街へ迫(せま)る最中(さなか)に乗車のチハ車が撃破されて左腕に軽傷を負(お)い、其の後のビルマからタイへの後退戦でも右胸に貫通銃創(かんつうじゅうそう)を負(う)けて後送され、シンガポールの病院で治療、治癒(ちゆ)後に本土決戦要員として内地へ帰還、そして、戦車操縦の教官として少年兵達を指導していた。

 24歳になる彼の出身地は金沢市だが、血気に逸(はや)り、浜辺まで敵を深追(ふかお)いして玉砕(ぎょくさい)してしまいそうな性格故、彼の中隊には、生まれ育った師管区司令部の在る軍都の金沢市よりも、戦略的価値が有る小松(こまつ)市地域の防衛を命(めい)じて、1号車が小松製作所の粟津(あわづ)工場から小松工場の海側を、2号車が小松飛行場から安宅(あたか)の部落までの守備ができる、それぞれの場所に掩蔽壕(えんぺいごう)陣地を作らせている。

 第2中隊2号車の車長、神戸市(こうべし)の生田区(いくたく)出身の鈴宮春二(すずみやはるじ)帝国陸軍准尉は、負傷(ふしょう)の治癒養生(ようじょう)をしていたサイゴン市から帰還(きかん)して戦車砲の取り扱(あつか)いと射撃を教える教官だった。

 彼は、チャンドラ・ボース総裁(そうさい)率(ひき)いるインド国民軍と共にイギリス領インドを独立させる為のインパール作戦で、進撃の先頭の戦車部隊の砲手の一人としてビルマとの国境近くのコヒマの旧市街を蹂躙(じゅうりん)している最中(さいちゅう)に、乗車していたチハ車と呼ばれる97式戦車が敵の対戦車砲の直撃を受け、左大腿部に鉄片が貫通して刺(さ)さる重傷を負い、ラングーンの病院へ急送された彼は、更に、傷が化膿(かのう)して左足を切断する寸前にシンガポールの病院で鉄片を摘出(てきしゅつ)する手術を受けている。そして、身体機能回復の為に移送されたサイゴンの施設で養生していた時に、治癒(ちゆ)したら前線へ戻ると言い張っていたのを内地へ強制帰還されて、戦車学校の教官に無理矢理(むりやり)させられていた。

 同じようにビルマとの国境近くで、コヒマの隣町のインパールへ進撃していた村上曹長とは前線での面識は無く、お互(たが)いが、『越乃国(こしのくに)』で初めて御会(おあ)いしたと言っていた。

 年齢は二人とも、24歳で、階級は中隊長に任命した村上曹長より、鈴宮准尉の方が上だったが、入営時の年齢が16歳の鈴宮准尉よりも、村上曹長は15歳で、中国大陸での駐留(ちゅうりゅう)と戦闘も1年早く経験していたのを見込んでの任命だった。

 負(ま)けん気の強い二人だったが、インパール戦での悲惨(ひさん)な体験が互いを認(みと)めさせていて、蟠(わだかま)りも無く、中隊長と補佐(ほさ)を拝命(はいめい)してくれた。

 二人は、『M4戦車の砲弾を弾(はじ)く装甲と、易々(やすやす)とM4戦車の前面装甲を貫通する砲を備えた新型戦車に乗りたくないか』と誘(さそ)ったら、嬉々(きき)として『越乃国梯団(ていだん)』へ志願(しがん)してくれた。

 第3中隊長は、大聖寺川河口の塩屋町(しおやまち)や片野(かたの)砂丘を第3中隊の1号車に車長して乗車する、戦闘経験が豊富な岐阜(ぎふ)県飛騨(ひだ)郷出身の千反田一二三(ちはんだひふみ)帝国陸軍少尉で、年齢は私と同じ25歳だ。

 昨年4月下旬に発令された京漢(けいかん)作戦で中国華東(ファドン)地域の河南(フーナン)省の許昌(シュウチャン)市と洛陽(ルオヤン)市の攻略に従軍し、続いて5月下旬に開始された湘桂(しょうけい)作戦にて、長沙(チャンサ)市と衡陽(ホンヤン)市の敵飛行場を占領し、更に、江西(ジャンシィ)省の桂林(グイリン)市と柳州(リュウゾォウ)市の敵飛行場も占領、作戦目標の敵飛行場の征圧(せいあつ)は達成されたが、敵のB29重爆撃機部隊は四川(スゥチェン)省の成都(チャンドゥ)市の飛行場へ後退していた。そして、貴州(グイゾォウ)省の独山(ドゥサン)を越えて省都、貴陽(グイヤン)市への進出を企(くわだ)てていたが、進撃に追い付かない輜重(しちょう)の遅(おく)れで糧秣と弾薬が欠乏して、成都市の敵重爆撃機隊を脅(おびや)かす事無く撤退する事になったと、山砲の砲長として常に最前線で戦っていた彼は、其の戦歴を語(かた)ってくれた時に嘆(なげ)いていた。

 奥地へと逃げる国民党軍の主力と連合軍航空部隊に追い付いて包囲撃滅する事は、我が軍の行き詰まってしまった補給の所為(せい)で叶(かな)わず、其れ以上の進撃と作戦の完遂(かんすい)は不可能になった。そして、インドシナの友軍との連絡を成功させる支援として、雲南(ウンナン)省の昆明(クンミン)市への進撃を装(よそお)う陽動(ようどう)作戦で、彼の山砲は手持ちの僅(わず)かな弾薬を撃ち尽(つ)くした直後に敵弾の直撃で破壊されてしまった。

 其の後は、アメリカ軍の最新式装備で編成された国民党軍機械化部隊に圧倒されて、広州(グァンゾォウ)市まで撤退して来たところへ、本土決戦の新設部隊の指導要員を命じられて、急遽(きゅうきょ)、本土へ帰還する高級軍人や政府要員達と共に中国沿岸から朝鮮を経(へ)て帝都近郊の陸軍飛行場へ、今年の4月初めに着いたそうだ。

 結局、京漢作戦と湘桂作戦を合わせた大陸打痛(たいりくだつう)作戦は、インドシナへの連絡成功を含めて、当初の目的は達成して成功とされていたが、連敗が続く太平洋戦域の戦況悪化を鑑(かんが)みると、大陸での勝利は『時、既に遅し』の状態だった。

 第3中隊の2号車は、高岡(たかおか)市内の古城公園の一角(いっかく)を待機場所にさせて、新湊(しんみなと)港から伏木(ふしき)港までの海岸一帯と高岡市から小矢部町(おやべまち)の広範囲な防衛を任(まか)せている。

 第3中隊の2輌は担当戦域の両端への分散配置になってしまうが、それは、戦力的に止(や)む終えない事で、それだけ私は両戦車長の技量を信頼していた。

 第3中隊2号車の車長は静岡県焼津(やいづ)市出身で23歳の、小久江清嵩(おぐえきよたか)帝国陸軍准尉だ。

 陸軍軍都の金沢市へ西方の海上から上陸侵攻を企(たくら)む敵に備(そな)える第1中隊に、富山湾へ上陸する敵が県境を越えて北方から攻撃しようとするのを頓挫(とんざ)させる役目を命じてある。

 彼は、フィリピンのルソン島に駐留していた戦車師団で高初速の主砲を搭載した新型砲塔の97式戦車の車長を務(つと)めていたが、ソロモン諸島やニューギニアから転戦して来た参報達の噂話(うわさばなし)から、アメリカ軍の反抗作戦の先頭で攻撃して来るM4戦車の厚い装甲と強力な主砲の威力(いりょく)を知ると、整備部隊のトラックに便乗してマニラ港のドックへ行き、其処で破壊放棄(ほうき)された連合軍艦船から装甲板を切断して来て、自車の砲塔と車体の前面に溶接させていた。

 彼が勝手に行った増加装甲を上官達が咎(とが)めると、至近距離から僚車の撃った47㎜徹甲弾が弾(はじ)かれるのを見せ付けて、其の効果を認めさせていた。だが、無断で行った80㎜厚の鋼板の切り出しと溶着、それに、重量増加に因(よ)る機動力の低下は独断的な軍規違反とされ、本土決戦要員の要請に応(おう)じるのを兼ねて、帝都の戦車学校での再教育とされていた。

 不幸な結果も止むなしとされて、戦略物資を満載して本土へ戻る輸送船に乗せられたが、制海権を失った危険な海域を越えて、台湾の高雄(カオシュン)市と中国山東省の青島(チンタオ)港と京都府の舞鶴(まいづる)港に寄港しながら、今年の4月中旬、彼は新潟県の直江津(なおえつ)港へ無事に到着していた。

 彼の独創性と行動力、そして、軍規違反容疑という逆境にも動じない豪胆(ごうたん)さと臨機応変な知力を知った私は、彼にも『厚さ100㎜の装甲で、M4よりも強力な砲を持つ戦車に乗りたくないか?』と誘い、『是非(ぜひ)とも、喜んで』と、彼は即座に答えていた。

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 戦車長以外の搭乗員達は、今年の春の試験に合格して戦車兵学校へ入校したばかりの15、6歳の少年兵だった。

 他にも外地に新設される戦車部隊の幹部として養成する外地人がいた。

 春まで教練を受けていた少年兵や志願兵士達は、教練終了時に幾つか新設された戦車連隊へ既に配属されていて、残っている年配者や正規の召集年齢に達している者は極僅かだ。

 外地人とは朝鮮人(ちょうせんじん)や台湾人(たいわんじん)や南洋(なんよう)諸島の現地人で、外地にも新設される戦車部隊の中核(ちゅうかく)となるべき人材だった。だが、今は外地の部隊へ帰隊できる状況ではなかった。

 他にも、同盟諸国から新設する部隊の基幹(きかん)とされる将校達が少人数いて、軍務要領と専門技術を士官学校で学んでいるが、最悪の戦況となっている今は、外地人と同様に母国へ戻る術(すべ)は皆無(かいむ)だった。

 乗船させる船舶は艦載機の攻撃や潜水艦の雷撃に遭遇(そうぐう)する多さから、無事に航行できる確率は極めて低く、絶対防衛圏で死守されるべき南洋諸島は、既に守備隊が玉砕して占領されてしまっていて帰る場所自体が無くなっていた。

 其の戻る事が出来なくなった養成中の外地や同盟国の軍人の中から、三人(さんにん)が『越乃国梯団』へ召集されていたのだった。

 日清(にっしん)戦争で割譲(かつじょう)させた台湾、北と西に隣接する強国の圧迫で疲弊(ひへい)した韓国(かんこく)王朝の求(もと)めで併合(へいごう)した朝鮮、日露(にちろ)戦争で得た南樺太(みなみからふと)、先の大戦時の日英(にちえい)同盟から連合軍側として戦った御蔭(おかげ)で委任(いにん)され信託統治(しんたくとうち)となった南洋諸島、利権と思想的な武力干渉(かんしょう)をする強国から朝鮮を保護る為に教育指導的な侵攻で打ち建てた満州(まんしゅう)国、現在、それらの外地の何(いず)れへも、渡航は命がけで、成功する確率は極めて低いというより、辿(たど)り着くのは不可能になっている。

 内地に来て大日本帝国の悲惨(ひさん)な現状を知って悲観(ひかん)し、戦況の悪化で帰郷する事が絶望的になって焦燥(しょうそう)する外地人達には、同情しなければならないと思う。

 彼らが占領地の住民で徴用(ちょうよう)された義勇軍兵士なら、敵国が彼らの国を奪い返した時点で、敵国の国民となり、捕虜として収容されて軍務から開放されるが、外地は大日本帝国の国土であって占領地ではない。

 故(ゆえ)に、彼らは天皇陛下の臣民として大日本帝国の敵と戦う義務が有り、内地での軍務や徴用作業は続行される。

 聞くところに因ると、外地人には2等国民の朝鮮人、3等国民の台湾人、という区別が有り、内地人は1等国民とされているそうだ。だが、時勢の成り行きで大日本帝国の国土となった地の住民でも、天皇陛下の臣民(しんみん)なのだから、統治上の都合(つごう)でも公(おおやけ)に等級別に格付(かくづ)けするのは間違っていると、私は思っている。

 金沢市と小松市の一角には、外地人達が彼らの習慣(しゅうかん)や文化で生活して住まう町や部落(ぶらく)が在るが、道行く人や職務に励(はげ)む人達に外地人と内地人の見た目の区別は付かず、外地人が虐(しいた)げられたり、蔑(さげす)まわれたりするのを、見た事も、聞いた事も無かった。

 『部落』という名詞にしても、人に非(あら)ずとされた者が集団生活する場所の意味ではなく、単(たん)に村よりも小規模な集落という意味で使われている。

 そんな、2等、3等、非人(ひにん)と狭隘(きょうあい)な差別をしない越の国の人々だったが、江戸藩政期に植(う)え付けられた在所(ざいしょ)の差別意識は、議会政治の世の中になって60余年を経(へ)ても無くなっていなかった。

 加賀藩120万石の中に含まれる支藩の富山藩10万石は、富山県の面積に対して少ない石高(こくだか)だと私は思い、それを年輩の富山市出身の曹長に訊(き)いてみたところ、富山藩とは富山県中央部の婦負(ねい)郡の地域だけで、比較的大きな町としては八尾(やつお)の町が在るだけの地域だった。

 富山県の2大都市の富山市と高岡市は加賀藩領だったそうだ。

 それならば、加賀藩領に板挟(いたばさ)みになった婦負郡の人達だけが石川県や富山の加賀藩領域を僻(ひが)むだろうが、何故(なぜ)か、富山県民全体が石川県への僻み妬(ねた)みを持っていて、地元愛というか、地元への意識が強いように感じていた。

 また、聞くところに由(よ)ると、明治の初めに行われた行政改革の廃藩置県(はいはんちけん)に依(よ)って、富山藩から富山県と新川(にいかわ)県が誕生したが、人口が少ない事を理由に富山県と新川県は、加賀地方と能登地方を統合して誕生した石川県に併合(へいごう)されてしまった。だが、石川県議会は越中(えっちゅう)地方を過疎(かそ)地域と決め付けて、治山治水(ちさんちすい)を疎(おろそ)かにしていたらしい。

 この行政の仕打(しう)ちの様な不行(ふゆ)き届きに憤慨(ふんがい)した越中(えっちゅう)全域は分離独立して、新たな富山県と成った経緯(けいい)の恨(うら)みも有るのだと思う。

 現在は先進的な化学工業が発展して、金沢市以上に近代的になった富山市は、不幸な事に戦略破壊の目標にされて、B29の絨毯爆撃で大きな被害を受けていたし、同様にB29の戦略爆撃の目標にされて大被害を被った譜代(ふだい)の越前(えちぜん)藩の藩庁城下町だった福井市も、繊維工業で市政は金沢市以上に潤(うるお)っていた。

 アメリカ軍の戦略ポイントから外(はず)れるような田舎町(いなかまち)とされた金沢市よりも、破壊された2つの都市は経済的に優越(ゆうえつ)しているのに、いつまでも過去に囚(とら)われた意識は薄(うす)れていない……、……悲しい事だ。

 単なる『黄金の沢(さわ)』を連想させる『カナザワ』の響(ひび)きからの妬(ねた)みなら、富山を『トミノヤマ』に、福井を『フクノイ』と呼(よ)ぶようにすれば、財(ざい)や幸(さち)の導(みちび)きを感じさせるのにと思う。

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 外地人への蔑(さげす)み差別よりも、藩政から固執(こしつ)する妬み僻みを優先する越の国は、……不思議な地域だと思う。それと、上杉学(うえすぎまなぶ)准尉と同じ朝鮮人の城嶋光弘(じょうじまみつひろ)軍曹が、『富山』は朝鮮語のトヤンが訛(なま)った名称ではないかと話してくれた。

 朝鮮名は「崔容浚(チェヨンジュン)」と言い、既に婚約者のいる22歳の彼は朝鮮半島中部の日本海側に在る元山府(げんざんふ)の出身だ。

 元山府には帝国海軍航空隊の基地も有って子供の頃から規律有る帝国軍人に憧(あこが)れていたそうだ。

 地元の高等小学校を卒業後に小学校の教師に成るべく平壌府(へいじょうふ)の師範(しはん)学校へ進学すると考古学に目覚めて環日本海(かんにほんかい)文化の研究を始め、師範学校卒業後に赴任(ふにん)した元山(ウォンサン)府の国民学校初等科に勤務する傍(かたわ)ら研究を続けていたと言っていた。そして、再び目にした海軍航空隊の勇姿に幼(おさな)き日の憧れが甦(よみがえ)り、昨年、昭和19年の年の瀬に帝国陸軍へ志願していた。

 彼は師範学校を卒業する程(ほど)の秀才だったが、残念な事に外地人への格差で将校には成れず、下士官の待遇(たいぐう)とされていた。

 確(たし)かに彼の言う通りならば、朝鮮半島や大陸から日本海を越(こ)えての、越の国なのだろう。

 古事記(こじき)では、何故、コシの発音に『高志』や『古志』の漢字を当てたのだろうか?

 トヤンは朝鮮では人名で、古(いにしえ)の富山湾沿岸や能登半島はトヤンという人物が支配していたかも知れないと思いつつ、海上から迫り来る大和の軍勢と越の国の民(たみ)は激しい戦闘を繰り返しただろうと、現実の防衛任務に重(かさ)ねて夢想(むそう)した。

 古(いにしえ)に日本海沿岸の環(わ)となる地域は盛(さか)んに海上交易を行って高度に栄(さか)えた経済文化圏が在ったと思うが、後の征服(せいふく)した支配者達の破壊によって荒廃(こうはい)させられ、今では其の多くが失(うしな)われてしまい、伝承(でんしょう)さえも途絶(とだ)えてしまったのだろう。

 石川県の金沢市を中心とした藩政期の加賀藩は、外様(とざま)でも600万石の徳川幕府に次ぐ120万石の大大名で、雅(みやび)で余裕(よゆう)の有る行政と他藩よりも領民に自由を与えた支配体制が緩(ゆる)い100万石意識を持たせて、差別の意識に鈍(にぶ)いのだろうと、高岡市出身で郷土歴史研究家の肩書(かたがき)を持つという警護班長の兵曹長が語ってくれた。

 見ていたところ、富山県の人達も外地人への分け隔(へだ)ては無く、寧(むし)ろ藩政期からの所領地の地元での差別意識が強いと感じた。

 62万石の越前松平(まつだいら)藩も、譜代(ふだい)の筆頭(ひっとう)石高(こくだか)で加賀藩の御目付(おめつ)け役でしたから、優(やさ)しく聞こえる福井訛(なま)りからして自領地の身分差には厳(きび)しくても、外地人への妙(みょう)な差別には疎(うと)いのだろうと思う。そして、北陸の地よりも明(あき)らかに表日本の方が、外地人と身分による差別意識が強いと知った。


つづく


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