生きるために食べよ


あー、と間の抜けた声が聞こえた。半泣きの表情で神崎律は視線を上げる。少しばかり大袈裟に額に手を当てた七尾が遠くを見つめてから、神崎の方へ戻った。


「買ってくるの忘れました」

「……だしまき?」

「つまみじゃないです。0.01mmの」


神崎が手を伸ばして、その口を塞ごうとした。が、直前に七尾はその手首を掴む。華麗な掛け合いが見られた瞬間だった。


「……もう寝る」


疲れた声で神崎が言い放つ。手首を取り返して、数分前まで咥えていたアイスのゴミを回収して、パンプスを脱ぐ。ぽーい、と捨てられたパンプスが横に倒れたのを七尾は直して、自分も靴を脱いだ。家に入る七尾に気付いてはいたが、もうどうでも良かった。寝室に入り、ベッドに身を投げる。


「神崎さん、酒どうします?」

「置いといて」


もごもごと返事を聞いた後、七尾はコンビニ袋からものを取り出して冷蔵庫へ入れた。他人様の冷蔵庫だが、七尾にとっては勝手知ったる他人の冷蔵庫だ。アイスのゴミを捨てて、棚の横にある小さなテーブルに乗っている写真を目に留める。

神崎響子、神崎律の母親。元ストリッパー、元シャンソン歌手。約二年程前に入院先で病死した。前に住んでいた街で育ち、多くの人から慕われていた。神崎の世界で一人だけの親。

その前で正座をして、手を併せる。軽く挨拶をした後、七尾は神崎の眠る寝室へ行った。





神崎が目を覚ますと、目の前の壁がいつもより近い。寝返りをうつと男の裸体が見える。青の携帯で文字を打っている七尾の背中だった。気配に気付き、振り返った視線が携帯越しにぶつかる。


「おはようございます。起こしましたか? すみません」

「おはよ……なに、柳に返信?」

「柳って、あの女子大生ですか?」

「とても喜んでた。返信がマメだって」


じっと神崎の顔を見つめた七尾を、神崎も見返す。何か七尾に違和感を覚える。


「……ええ、そうなんですよ」

「今の間は何だよ。もしかして」

「この鶏目覚まし使ってくれてるんですね」

「他人に返信任せてるとかじゃないよな?」


神崎は起き上がり、咎めるように目を細めた。すっと目を逸らして、七尾は目覚ましを鳴らす。コッケーコッケーとこの場に合わない鳴き声が響いた。すぐに神崎がそれを消し、ベッドから抜け出す。


「……もうあんたとは飲まない」

「え」

「あたしばっかり酔って愚痴言ってるだけだろ。それに付き合わせてる」

「俺、結構神崎さんが管巻いてるの好きですよ」


神崎は溜息を吐いた。それから、感じていた違和感に思い当たった。


「おい間男」

「もしかして俺のことですか?」

「どうしてシャツ着てないんだ」

「いつもですけど」

「は?」


そこで更に気づく。

思えば、目覚めて隣に七尾が居るのは初めてだった。







「神崎さん!」


更衣室から出たところを捕まった。

津山は神崎に駆け寄り、一万円札が返される。何事だ、と諭吉を見て考えた。


「これ合コンの! 男性持ちって言ったじゃないですか」

「ああ、そうだったっけ」

「それでお祖母さんの容態はどうですか?」


慎重に尋ねる津山に、「ああ、大丈夫」と軽く答えた。嘘も方便。実際、神崎の祖母とは会ったこともなく、まだ神崎が幼い頃に亡くなったというのは母親から聞いて知った。

良かったあ、と心底ほっとした顔を見せた津山から一万円札を受け取る。そこに特に罪悪感というものは湧かなかった。


「狙ってた男は落とせたのか?」

「え? んー、一応連絡先は交換したんですけど」

「良かったな」

「最初、私の横に座ってた子わかります?」


一緒に休憩室へ入る。津山はもう上がりらしく、タイムカードを出した。

中にはいつもの場所に座っている園柄がいた。扉を開くと同時に顔を上げて挨拶をする。


「ショートの?」

「そうです、ミユって言うんですけど」

「うん」

「あの日の夜から実結と連絡が取れなくて」


神崎は首を傾げる。連絡が取れないとはどういうことだろうか、相手が連絡を断っているのか連絡手段がないのかそれとも連絡できない状況にあるのか。

話の内容を聞いて園柄が神崎の方を見た。


「学校には?」

「来てないんです。いちおう家にも行ったんですけど、留守で。実家に帰ってるなら良いんですけど……」

「今は個人情報がどうとかで大学も実家の番号なんて教えてくれないだろうな」


腕を捲りながら答えた。

津山は頷いた。全くその通りであったからだ。


「神崎さん、知ってます? 最近、学生を勧誘してる危ない社会人サークルみたいのがあるって」

「いや、知らない。園柄も知ってるのか?」

「なんか都市伝説みたいな感じで聞いたことはあるけど。酒飲まされて危ないことしてるとか、詐欺まがいなこともしてるとか? 噂に尾鰭つきまくってるもんだからあんまり信憑性ないと思ってた」

「でも! うちの学科の一年生が四月に何人かぱったり学校来なくなってるんですよ。しかもその子たち、そのサークルに入ったって話です」


神崎はタイムカードを通した。津山も続いてタイムカードを切る。


「まあ、見かけたら伝える」

「よろしくお願いします。神崎さんも気を付けてくださいね」

「わかった。お疲れさま」


お疲れさまでーす、と津山が休憩室を出て行く。神崎はエプロンをつけて腰の後ろで結んだ。


客足が途絶え、ホールとキッチンが暇になる。神崎と園柄はグラスを磨きながら他愛もない話をしていた。


「そういえば神崎さん、恋人できた?」

「出来てないけど」

「合コンで何してきたんですか」

「七尾がいて、結局一緒に帰ってきた」

「え? 参加してたってこと?」

「いや、近くの席で同僚と飲んでたらしい。帰るところで一緒になった」


えー、と園柄は憐れみの目を神崎へ向ける。それはストーカーではないだろうか、と言外に言っている。しかし、神崎はそれは否定する。


「あの男はあたしをストーカーする程暇じゃない」

「夜にバーテンやってるだけなのに。言ったらあれだけど七尾さんは結構ダメ男な方だと思う」

「それちゃんと柳に言ってやれよ」


神崎は溜息を吐いた。園柄は肩を竦めて布巾を置く。

曇りの無くなったグラスを棚に戻して、次のグラスを出した。

神崎は園柄の柳への冷たさに気付いていたが、それを口にするものかどうか考えて止めた。この前の質問の通り、よく知らないので嫌いでも好きでもないという結果なのかもしれない。


「柳はいつも恋に盲目状態なんですよ。言って聞くような奴じゃない」

「いるよな、そういう女。行き先が地獄でも笑ってられるなら、当人にとっては良いことかもしれないけど」


手が止まる。園柄はグラスを磨き続ける神崎の綺麗な横顔を見て、閉口する。

この女は一体何者なのだろう。

伝手もなく都会からこの街へやってきて、バイトをして生計を立てている。それに加えてシャープの店員と何やら仲が良く、あまり動じることがない。

そして、平気で地獄を口にする。


「そういえば社会人サークルの話って有名なのか?」

「……聞いたのは他の大学の奴からで、学校からも緊急メールが届いたとか」


緊急メールって、地震か。いやそれほど危険度が高いということだろう。


「園柄は何かサークル入ってんの?」

「俺は特に。一年のときは一ヶ月だけテニスサークル入ってたんだけど、まあ実情飲みサーで。死人が出る前に辞めました。その後、未成年の飲酒がバレて潰れたみたいだけどね」

「死人が出る前で良かったな」


本当に、と相槌を打つ園柄。それから神崎の方を見た。


「神崎さんって大学? 専門?」

「高校出て働いてる」

「前の……金融?」

「いや、最初はラブホの受付やってた」

「え」

「あんたのサークルと同じ、一ヶ月で辞めることになったけど」


どうして、と聞いて良いものなのか園柄は迷っていた。しかし、迷う余地も無かった。


「実はそこ、事業がうまく行ってなくてあっちこっちから金借りまくってついに金融会社のバックについてたヤクザが取り立てにきて、お偉いさん方が逃げて最終的に潰れたんだ」

「もしかして……」

「そう、次の就職先がその取り立てにきた金融事務所」


人生、何が起こるか分からない。

それは神崎が証明していた。



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