同じく咲かぬ桜 下


神崎律はポスターを見上げていた。


さくら祭、と大きく書かれたポスター。休憩室で飽きるほど見たそれを指差す。


「桜咲いてなくない?」

「ここらへんは遅いですからね」

「桜に託けて飲みたがるのが人間の性ってやつなんだろうな」

「綺麗なもの片手に飲めるのが人間の良いところだと思いますけどね」


七尾は言った通り、神崎を手羽先の店へ連れてきた。しかし、神崎が注文したのは若鶏の唐揚げ。それに対して七尾は何も言わずに日本酒を煽っていた。

神崎は梅酒ロックを少しずつ消費する。


「やっぱり辞める」

「え?」

「あそこ。時給も場所も良かったけど、面倒が増えるのは御免だ」


面倒だと感じる度、煙草が増えているのも事実。しかも今は止めてくれる人間が居ない。


「本気ですか?」

「続けるのと辞めるのを天秤にかけたとき、続ける方が負担が大きい」

「神崎さんって、未練とかあんまりないですよね。前もギターを捨てようとしてましたし」


前に、神崎は母親が持っていたギターを捨てようと試みた。高校の時に弾いてそれきりだが、そんな簡単に捨てようと思い至るものだろうか。

前の職場も、住居もそうだ。決して悪くない環境だった。それなのに街を出てここへ来た。七尾はその躊躇の無さが不思議で堪らなかった。


「ちゃんと持ってきたろ」

「俺の職場も近いのに?」

「偶然だろ、そんなの。あんたがあそこで働いてること、あたしは知らなかった」

「神崎さん、世の中に偶然なんてあると思います?」


氷が半分溶けた梅酒。グラスを伝う水滴が一粒、テーブルへ落ちる。


「じゃあ、あたしが職場辞めるのも必然か」

「どうしたんですか。学生バイトに苛められてるんですか」

「煩えよ、若い奴は若い奴と仲良くしてろ」


これは酔ってるな。

梅酒のグラスを持ち上げようとしたのを制す。七尾の行動に視線を上げて、神崎はグラスを離した。その手で七尾の飲んでいた日本酒のグラスを掴む。あー、と思いながらそれを煽る様子を見ていた。


「鶏飼いたい」

「保存食ですか?」

「違う。朝鳴き声で起こしてくれて、卵が無料で手に入って、こんな良いことはない」

「卵食べてるじゃないですか」


呆れてその様子を思い浮かべる。七尾は梅酒を飲んで香りの強さに目を瞑った。その様子を見て、ふふと神崎が笑う。

久しぶりに笑う顔を見た。


「なんかさー、この世のどこにも自分の場所ってないよな。だって死んだら皆居なくなるだろ、そしたらこの世での場所なんてあんまり意味ない」


箸を置いて、両手で頬杖をつく。神崎はそう言って、テーブルの一点を見つめる。


「生きてると、死んでからの方がずっと長いんだって実感する」








母親は物心ついたときから忙しかった。

あまり台所で料理するのを見かけなかったし、洗濯物と溜まっていくのをよく見た。神崎の分の朝ご飯を用意してくれたが、母親が朝ご飯を食べているのを見たことはない。でも、家を出るときは「行ってらっしゃい」と見送り、帰ってきたら「おかえり」と出迎えてくれた。どんな時も。

がり、と嫌な音が聞こえた。鎖骨の痛みも感じる。神崎が目を開けると、二つの瞳がこちらを見ていた。


「いたい」

「眠そうだったので」

「ねむい」


ちゅ、と顔の輪郭に口づけが落とされる。彼氏じゃないの? という園柄からの質問が頭を過る。彼氏、じゃないだろ。

どろどろとした行為の後、死んだように眠る神崎を見ていた。携帯のバイブ音がする。何か、歌にあったな、眠る君をポケットに入れて、みたいな。

部屋の隅に置かれたギターケースに目をやり、七尾はベッドから降りた。神崎の分の洋服も持って浴室へ行く。洗濯機に放り込み、勝手に動かす。他人の家だが、七尾に遠慮は見られなかった。それは相手が神崎だからか、いつもこうなのか。

シャワーを浴びてベッドに戻る。携帯はもう震えていなかった。噛み付いた神崎の鎖骨辺りを強く吸う。乾燥が終わるまで。その身体を抱き寄せると、パチリと開いた目と合った。


「寒いですか?」

「ん」


甘えるように腕を開いて、七尾の背中に捕まる。寒いと言った神崎の身体は温かく、苦笑いが漏れる。


神崎が目を覚ましたのは、何かの音がしたからだった。コッケーコッケーと何かが鳴いている。起き上がって周りを見回す。何の動物だろうか。

ふと枕元にあったはずの目覚まし時計に並んだ置物に目がいく。鶏の形をした時計だった。鶏冠を押すと、オハヨウ! と鳴いた。

なんだこれ。

眠気の覚めない頭には疑問符が沢山ついている。その隣に何故か卵のパックが置いてある。


「こわい」


何かの儀式だろうか、鶏の時計に卵。時間を戻す儀式?

勿論隣を見ても七尾は居ない。それらには触れずに、神崎はベッドから降りてリビングへ向かう。テーブルの上には家の前にあるパン屋の袋。きっと七尾が買ってきてくれたのだろう。ミネラルウォーターを飲んで神崎の好きなチキンサンドを頬張る。

二日酔いではないが、昨日の記憶が殆どない。確か職場の親睦会に参加しないで七尾と飲んで、唐揚げを食べて、何か話をしたような。

今度会ったときにでも鶏の時計と卵のことを聞いてみようと決めて、神崎は卵のパックを冷蔵庫にしまった。今日も深夜シフトが入っている。







神崎が更衣室から出てエプロンを持って休憩室に入った。園柄が来月分のシフトを記入している。


「神崎さん、記入締め切り明日までだよ」

「あー……うん」


そういえば昨日散々七尾に管を巻いたことを思い出した。そして店を辞めたいと進言したのも思い出した。


「あのさ、園柄」

「はい?」

「あたし辞めようかなと思ってるんだけど」

「は?」


は、の口で園柄が止まる。休憩室の扉が開いて、二人の視線がそちらを向く。

現れたのは柳だった。どうしてこのタイミングで、と園柄は眉を顰めた。


「神崎さん」


園柄のことなんて視界にも入れず、柳は神崎を真っすぐ見て声に出した。神崎は驚いて何事か、と園柄の方を見てしまった。園柄も動揺を隠せない表情で柳の動向を見守っている。

柳はいつも園柄が座る神崎の隣の椅子へ座った。


「神崎さんって、シャープの新入りの人と知り合いなんですよね。昨日一緒にいたの見かけました」

「シャープ?」

「上の会員制バーです」


七尾のことを園柄が尋ねたときにそれを話していた。シャープという店なのか、と神崎も初めて知った。


「へえ」

「それで、あの人は神崎さんの彼氏じゃないって本当ですか?」

「うん」

「ちなみに彼女いるかどうかって分かりますか?」


こんなに柳と長く会話したのは初めてのことだったが、神崎は女子大生の勢いに圧倒されていた。心なしか背中が反っているように見える。


「知らないけど……いないんじゃないか?」

「それなら! 紹介してください!」

「は?」


次は神崎はその言葉を言う番だった。園柄は見ない振りをしようとしたが、その前に神崎がそちらを見た。どういうことだ、と視線が訴えている。

昨日まで神崎を謗っていた口が、何故今日は懇願しているのか。理由は簡単だ。神崎を利用したいから、一択。


「いや、辞めとけ」


神崎も良い大人である。これは意地悪や反発で言っているのではなく、心からの忠告だった。勿論、それが柳に伝わるはずもなく。


「そんなの、神崎さんに言われたくありません」

「あいつ、よく分かんないところあるし、女遊び激しいって聞いたから」

「その中の一人が神崎さんってことですか? 別に私は気にしませんよ」


そういうことではない。神崎は頭を抱えたくなった。確かに女遊びの内の一人が神崎であることは事実かもしれないが、問題はそこではない。


「じゃあ、こうしたら? 神崎さんはシャープの人を紹介する。その代わり、柳はこれ以上神崎さんに突っかからない」


園柄が提案をした。柳はうんうんと大袈裟に首を縦に振る。約束を守らない人間ほど肯定がでかいのだ。

神崎はげんなりした顔をしながらそれを承諾する。面倒事は御免だった。


「名前、なんていうんですか?」

「七尾雄」

「七尾さんかあ……。楽しみだなあ」


にこにことする柳の隣を立って、神崎はエプロンを首にかける。

そうか、今の学生は戦国七雄を知らないのか。額を抱えたのは休憩室を出たところでだった。


斯くして、神崎は辞職を免れたわけだが。





同じく咲かぬ桜 END.

20180511


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